2022.6.26「神の霊の働き」要約(ルカによる福音書11章9~13節)

☝Point1主の祈りにすべてが込められている

祈りの原点である。

☝Point2 祈りは顔と顔を合わせるように

取引の祈りや要求・願いは×(~ならば・・・します)

聖霊の働きがそそがれ、あなたの声を、あなたの顔を私に向けて欲しい。

☝Point3 「アッバ、父よ」という霊の働きによって祈ることが赦されている。

求めなさい。そうすれば与えられる。

探しなさい。そうすれば、見つかる。

門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

だれでも、求める者は受け、探すものは見つけ、門をたたくものは開かれる。

☝Point4 外からの真剣な求めに対して祈りが与えられる。 

天の父は求めてくるものに聖霊をくださる。

2022.6.19「祈りの手ほどき」要約

☝Point1 相手がある(神様)

祈りは聞くことから始まる。

サムエル「主よ、お話しください。僕は聞いております。」(サムエル記上3章10節)

☝Point2 特別なタイミングがある(ルカによる福音書11章1節)

☆3つのそもそも

①ユダヤ人は子供の時から父から祈りの手ほどきを受けていたので、祈ることは十分に知っていたが、”何か”が足りなかった。

②彼らはイエスに従ってきた人たちだった。

③弟子たちは、イエスが朝夕の祈りをしていたこと、または日没になると一人で夜中祈り、朝になって弟子たちの前に再び現れたのを知っていた。

弟子たちは「自分たちにもその(新しい)祈りを教えてください。」と求めた。イエスは教えた。

⇒求めた時に与えられた。

☝Point3 主の祈り(ルカによる福音書11章2~4節)

『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』

☝Point4 素直に、あきらめずに、しつこく祈り続け、神様からの働きかけを聞き取って、それに応えることである。

日本語の「手ほどき」とは、古武道の所作からきた言葉で、「生きるか死ぬか」に関わること。

ヘブライ語で「手ほどき」は「裁く、吟味する」の意味。つまり、神様に誠実に向き合い、危機の状態にあるなら、素直に「助けてくれ」と祈るべき。

もう一つ「ひざを曲げる」と言う意味がある。神の前にひざまずき祈ると、どんなに自分が小さな存在かを知る。

また、わたしたちが祈れるのは、祈ろうとするのは、聖霊が働いて、「祈る」思いを起こさせてくれるからである。救われている証しとして親しく「アッバ父よ」と呼ぶことがゆるされていて、祈りに導かれているからである。

パウロは言った。「どんな時にも絶えず祈りなさい。」それによって安心、希望、確信が与えられ、永遠の命があるという励ましと感謝で終わるのです。

2022.6.12「神に召されたままに生きる」要約

Summary of “Living as you are called by the God”

☝Point1
ペトロはガリラヤで最初に仕事の場でイエスに出会い「人間をとる漁師として」召され、12人の弟子と共にイエスに従った。3年後、過ぎ越しの祭りでイエスが捕らえられると、弟子たちは散り散りに、ペトロはイエスを3度「知らない」と否定した。イエスは十字架につけられた。(ヨハネによる福音書18章15~27)

☝Point2

3日後、ペトロはガリラヤで復活のイエスに会い、「羊飼い」として2度目の召命を受けた。信じる人の群れが聖霊によって、イエスを見て、信じることで、輝きに満ちた喜びが生まれ、それによって「魂の救い」を人々に証しする。(ヨハネによる福音書21章1~17節)

☝Point3

神様に召され、育てられて羊飼いとして働く中に、いつでも新しい出発のチャンスが与えられている。創造の「父」、苦難と赦しの「子」、教会を産み育てる「聖霊」とが一つとなって、この世とわたしたちを愛してくださる。その愛に背を向けたり、遠慮するとその愛が届かないが、神の懐に飛び込めば神の栄光を見ることができる。わたしたちを乗せた方舟の行きつくところ、「神の国」に辿り着くまで、キリストを伝えるのが、わたしたち羊飼いの務めである。

この世を希望と喜びの世界として創造した神をほめたたえましょう。



2022.6.5「知らないのですか、あなたの輝き」要約 (コリント人への手紙1 6章19ー20節)

序:今日は聖霊降誕日
イエス・キリストが復活されてから、50日目、エルサレムに集まっていた弟子たちの聖霊が注がれ、それが今日の教会の始まりとなりました。
今は聖霊の導きのもとにある時代です!

☝Point 1
「霊的に生きる」ということは、私たちの体、日毎の生活、生き方に関わること!

☝Point 2
あなたがたの体こそが聖霊の宿る神殿なのだ(1コリント6:19)
動くことのできない石の神殿ではなく、一人ひとりの体と生活、そして人々が共に集い、生きることの中に聖霊が働き、神の栄光、輝きが現れ出るのです。こうして、一人ひとりの生き方、生活そのものが神の心の表れの場所となり、また、それを現すことは私たちの使命ともなります。

☝Point 3
自分の体で、神の栄光を現しなさい。
苦しみのあふれる世の中にあって、自分たちの体と生活を通して「あなたは大切だよ」という神様の心を現していきましょう。聖霊の働きがそこにあります。

2022.5.29「人生に神の愛はあるのか」要約

☝Point1

バプテスマを受ける時、伝道者とされる時、役員に任職される時はなりたいからなるのではなく、イエス様の選びと愛と命令に答えて無条件に「はい」という。

☝Point2

イエス様が捕らえられる前夜「あなたのためなら命を捨てます。」と言ったペトロだったが、人々に「イエスの弟子ではないのか」と言われると、「いや、そうではない」と3度も否定した。ペテロには自責の念があった!(ヨハネ18章15~27節)

☝Piont3

ペトロは失敗のため、イエス様と神に対しての愛に確信が持てなかった。イエスは3度も「わたしを愛するか」と迫ったが、それは責めているのではなく、わたしの仕事を任せられると信じているペトロへの愛と、彼の信仰を守ってくれる父なる神への確信と感謝がある!(ヨハネ21章15~19節)

☝Piont4

誰にでも、イエスに従っていくことを忘れてしまい、絶望的で消えてなくなりたくなるような誘惑がある。そこにこそ、神の愛はあるのだ!!!「そこに愛はあるんか」と何度でも確かめてくださるイエスの声が響いてくる♪

2022.5.22「見ないで信じる者の平和」要約

☝Point1

弟子たちはすべての戸に鍵をかけて(心を閉ざして)いた!

理由は、自分たちもイエスみたいに十字架にかけられるかもしれない、という「恐れ」とイエスから叱責を受けるかもしれない、という「罪責感」から。(ヨハネによる福音書20章19節)

☝Point2

ところが、イエスがかけた言葉は「あなたがたに平和を(シャローム)」。

弟子たちは喜んだ!それと同時に使命が与えられた。「天の父が私を遣わしたようにあなたがたを遣わす」=宣教に生きるという使命(ヨハネ20:19-22)

☝Point3

復活のイエスに出会い「第二の創造」が行われた。息=聖霊とが与えられ(ペンテコステ)、生かされた者が他者を生かすものへと変えられた。「誰の罪でもあなた方が赦せば赦される、あなた方が赦さなければそのまま残る」と言われたように「赦す」権威が与えられた。「赦し」があるところに平和と平安がある。(ヨハネ20:23)

☝Piont4

弟子たちは使命に燃えて熱い思いを持っていたが、トマスはその場にいなかったので、「自分の手をその釘跡に入れるまで信じない」と。

8日の後、復活のイエスに出会い、トマスに言われた。「信じない者ではなく信じる者になりなさい。」トマスは見て信じた。「わたしの友、わたしの神よ。」<トマスの信仰告白>(ヨハネ2:27-28)

☝Point5

ウクライナの戦争が起こっており、私たちは平和を祈り求めているが、人類はその繰り返しである。自ら戦争を犯したことを省み、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださる復活のイエスと共に生きること、すなわち、宣教に生きることである。

2022.5.15「命の声が響いている」要約

☝Point1

弟子たちはありふれた日常生活(不漁)が続いていた。きっかけはイエス様の呼び声!(ヨハネによる福音書21章1節、5節)

☝Point2

イエス様が言われた通りやってみたら魚が取れた!(ヨハネ21:6,10)

☝Point3

イエス様が準備して下さっっていたもの(炭火、パン)+お言葉通りやってみて得たもの(魚)=食卓

⇒使命が果たせた、命が与えられた!

主がなされたことだと分かったので、「あなたは誰?」とは誰も聞かなかった。

(ヨハネ21:9-10、12)

☆”命”は命令、使命のこと→ミッションのこと

すべてを準備してくださっている神様がいます。

その神様からの声を聞いて、あなたはどうしますか?

2020.7.26 罪をゆるしてください

 好きな讃美歌の一つに21-162番「見よ、兄弟が座っている。何という恵み、何という喜び」があります。詩篇133そのままが歌詞になっています。
 わたしたちは普通、あの人たちは兄弟のように仲がいいとか、兄弟のように助け合っている、と言う風に言ったりしますが、兄弟のように仲が悪い、兄弟のようにいがみ合っている、という風には言いません。
 聖書には兄弟の物語、例えがいくつもありますが、カインとアベルに始まって、イシュマエルとイサク、エサウとヤコブ、ヤコブの息子たち、ダビデの息子たちなど数え切れないほど仲の悪い兄弟が登場します。むしろ少数ですが、ダビデとヨナタンのように神を畏れる親友として兄弟以上のつながりを発見します。
 さて、アダムはエバを知ったとあります。ヘブライ語でヤーダーという言葉ですが、神との親しい間柄や夫婦の性的な関係を意味します。エバは「わたしは主によって男の子を得た」と言い、子どもの誕生は神さまによるという理解があるわけで「カイン」と名付けました。「手に入れる」という意味です。ところがどうしたわけか次男には「アベル」という名前をつけました。これは「空しい、はかない」という意味です。わが子に「悪魔」という名をつけた親がいましたが、アニメの影響か、ふざけています。名付けには親の願いや愛情が込められますが、同時に親の環境や価値観が表れるのです。命名は人の一生を左右することがあります。
 この物語の背景には農耕民族と遊牧民族の対立構造があるようですが物語をそのまま観察してみましょう。二人の年の差は分かりませんが、成長して働くようになり、カインは麦畑を、アベルは羊を飼うようになりました。カインは弟殺しによって人類最初の殺人者という汚名を着せられていますが、実際の成長として考えると、父親のアダムと一緒に土を耕す仕事を覚えていったことが記されています。
 時を経てとあります。カインは種まきや収穫ができるまでになり麦の収穫の一部を神さまに献げました。よい息子です。今の時代は子どもは就職すると最初の給料から親にプレゼントをしたりしますが、神に献げ物をする家庭は少ないでしょう。神を知らないからです。アダムは神を失望させましたが、神を忘れたはずはありません。カインの献げる思いは父親譲りで貴いことです。
 弟のアベルは羊を飼うようになりました。兄弟で性格や関心事が違うのはふつうのことです。弟は兄の働きを見ながら、いつか自分も神さまに献げものをしたいと思ったことでしょう。やがてその時が来ました。一生懸命世話した羊がまるまると育ったので、きっと神さまに喜んでもらえると思って献げました。
 この二人の献げる行為は、素直で素晴らしいことでした。ところが、思いがけないことが起こりました。ある年、二人はそれぞれの献げ物を神の前に差し出しました。この時代、祭壇があったかどうか、どんな方法で献げたかは分かりません。「主はアベルとその献げ物には目を留められたが、カインの献げ物には目を留められなかった」のです。カインは自分が否定されたと思いました。その思いは弟への嫉妬、殺意を抱くまでになるのですが、主はカインの心の奥をご存じで「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのならば顔を上げられるはずではないか」と頭を冷やすように促し「罪が待ち伏せし、お前を求めている」と悪の誘惑に打ち勝つように諭しました。
 子どもが小さいときはこんな事があります。兄弟が親に何かを見せに来ました。親はまず、弟に目を丸くして関心を示し、喜んだり褒めたりします。兄はやきもきして待ちますが自分の番になりません。それで「ねえ、僕のも見てよ、僕の話も聞いてよ」とせがみますが親は「どれどれ見せてごらん」とは言いますが、明らかに弟の時のように関心を示しません。思うようにならなかったとき腹いせが他者に向かいます。弟にしてみれば、どうしてお兄ちゃんがいじめるのか分かりません。
 神さまには深い深い思いがあって、兄と弟をちゃんと見ているのです。ルカ福音書の15章に、放蕩息子の喩えの話がありますが、どうしても弟の劇的な結末に関心が向けられますが、イエスさまはまじめな兄が父親から正当に評価されていることを忘れてはおられません。
 私たちは、どうしても自分中心の理屈で出来事を受け止めてしまいます。ひどいと感じてしまうと、相手の考えや事情を想像することが出来なくなってしまいます。そうして、その人に最低のレッテルを貼ってしまうのです。
 アンガーコントロールという方法があります。かっとなるような時は、数秒まって深呼吸してから行動するのです。単純なけんか回避の方法です。
 さて、今日は南アフリカの国旗と国歌について少し紹介したいと思います。南アフリカ共和国にはアパルトヘイトという黒人隔離の制度が長く続きました。ご存じのように、世界には依然として肌の違いで権利の差、貧富の差、人間としての尊厳が傷つけられている現実があります。どんな環境や家族に産まれるか、どんな時代に生まれるかは自分で選ぶことが出来ません。
 南アフリカの現在の国旗は6色で描かれています。その色は民族や歴史を表しています。また国歌には国民を団結させる力があります。去年のサッカーワールドカップでは多くの市町村が各国のキャンプを受け入れて応援しました。こうして日本人はカタカナ言葉で世界中の国歌を知りました。南アフリカの現在の国歌は、プリントに記したように五つの言語で構成されています。これはメソジスト教会で良く歌われていた讃美歌に黒人解放の歌を重ねたものだそうです。配布したプリントに国旗の変遷と5言語で歌われている歌詞の趣旨を示しました。
 1990年2月11日、ネルソン・マンデラという人が27年間の獄中生活から解放されました。複雑な事情は省きますが、彼は若いとき暴力革命を主張する黒人解放闘争の兵士で、投獄されると凶暴な猛獣のように扱われ、体への虐待だけでなく精神的な攻撃を繰り返されましたが、闘志は少しも衰えず白人支配者たちを恐れさせ悩ませました。ところが、27年ぶりに解放されたとき、誰も想像できないような演説をしたのです。「白人の皆さんのこれまでの貢献に感謝します。私は白人を憎んでいません。赦します」このメッセージは一緒に闘ってきた仲間や大多数の黒人には耐えられない言葉に聞こえました。
 裏切ったのか。取引したのか。獄中で何があったんだ。さまざまな憶測が飛び交い、英雄の解放を喜ぶ声は、激しい非難と暴動に変わりました。27年間の獄中生活で彼の考えが劇的に変化していたことを仲間も民衆も知らなかったのです。
 分裂はインドのガンジーの時にも起こりました。ヒンズー教徒とイスラム教徒という宿敵が団結して手に入れた独立も利害のために血に染まってしまいました。
1989年のチェコ・スロバキアのビロード市民革命とバーツラフ・ハベルのことを読書で知っていたのかも知れません。
 マンデラは説明しています。獄中でひどい目に遭いましたが、白人の看守にも親切な人や良い人がいたこと、獄中でさまざまな歴史書を読んだことを取り上げて、暴力は憎しみの連鎖を、仲間内の政治は腐敗を生むということを学んだのです。
 4年後にはじめて全民族が有権者となった総選挙でにマンデラは黒人で最初の大統領に選出されました。暫定憲法で政府のポストには白人黒人や宗教の区別はなく、総選挙で5パーセント以上の得票率の政党に政権参加を義務付け、マンデラ新大統領はその役割にふさわしいと考える人を閣僚にしました。獄中で学び考え抜いた国作りの方針が、新しい国旗と国歌に込められています。
 さて、新約を見ると、イエスキリストの十字架の血だけが和解の道を拓くことが示されます。ペトロは教会を迫害する人々にこう言いました。「兄弟たち、あんなことをしたのはあなたたちが無知だったからです。指導者も同様です。私には分かっています。神はすべての預言者の口を通してキリストの苦しみを予告し、十字架によって実現されました。キリストを十字架につけて殺してしまった自分の罪が、神さまに忘れていただけるように、考え方を180度ひっくり返して神に立ち返りなさい。主のもとから慰めの時が訪れ、平和と和解の主があなたがたの心にも来て下さるのです」
 ペトロは直接キリストを十字架につけて殺した人々に訴えましたが、私たちにも、神のご計画や思いに対する無知と反抗の心が依然としてあります。日常の出来事としては小さな罪かも知れませんが、小さな火種も大きな火事を引き起こします。もし「主よ、この過ち、無知を赦して新しい霊を注いで下さい」と小さな悔い改めの心で毎朝祈るなら、その日一日、平和が訪れ、それが持続していきます。毎朝が大切です。時間がないときも1分あれば祈れます。簡単なことを毎日実行する人は変わるに違いありません。たいていはこの簡単な事が三日坊主になってしまいますが、そうならないように互いに祈り合い、励まし合って今週を生きていきましょう。
祈ります。
主よ、無知から生じる罪を赦して下さりありがとうございます。けれども私たちは愚かにも罪を繰り返してしまいます。どうしようもない私たちを愛して、わが子として迎えて下さることを信じます。あなたの子の一人としてイエスキリストの言葉を聴いて生きていきます。毎日毎日あなたの思いを学び、祈れるように導いて下さい。自分を愛するように私の隣人を大切にします。その隣人が拡がっていきますように祝福して下さい。主イエスキリストの名によって祈ります。アーメン
下記画像はウィキペディアより

2020.7.19 証人

「わたしたちはこの事の証人です」と、ペトロははっきり宣言しました。今朝のメッセージは「証人」です。別の言い方をすれば「目撃者」です。
 教会ではバプテスマに立ち会う人、また結婚の仲人を証人と言います。私たちの「証人」になって下さったご夫婦とは今でも親しく付き合いが続き、折々に良くして下さり、互いの子どもたちの成長を喜び合ってきました。見守られ、励まされ、決断の時の相談相手を、時には厳しい指導もありました。証人を依頼されることは嬉しい面もありますが、辛抱強く愛情がなければ出来ることではありません。
「証人」は神さまの前での証言者であり、人間に対する誠実さが求められる厳しい役割でもあるのです。バプテスマや結婚の「証人」本人が神さまを信じ、神に支えられていなければ、何の助けにもなれない存在になってしまいます。神の前でなされた約束や契約の「証人」は役割を知らずには責任を果たすことができないのです。教会が世俗的であったり信仰者としての弱さが露わになるとしたら原因はここです。
 一般社会でも「証人」という言い方があります。事故や事件を目撃した人、あるいは当事者の生活や背景をよく知っている人を指します。または「時代の証人」という場合、戦争や大災害で生き残った人が、どんなにひどい状況を生き延びたか、体験したかを書き残したり、若い世代に語ったり人々のことです。
 ところで「証人」とは裁判用語です。私はある人の証人調書を書いて減刑を嘆願したり、あるイラン人が巻き込まれた事件で無罪を信じて傍聴したことがあります。その青年は強盗事件の被告でした。検察官の証人への質問はひどいものでした。証人が犯人が目出し帽をかぶっていたと言っているのに、彼を指して「この人ですね」と断定的に言い、証人も「間違いありません」と応じたのです。二人は被告が外国人だから悪いことをするに違いないという先入観で公平さを失っています。国選弁護人にも失望しました。突くべき所を突かず、何の反論もせず結審しました。面会に行った時に分かったのですが、何と、弁護士は早く自白した方が刑が軽くなるとアドバイスしていたのです。これを真に受けて、やってもいないことを認めてしまい、青年は有罪になり、日本人に失望しながら強制送還されてしまいました。
 聖書に入ります。午後3時の祈りの時、「美しの門」の前に運ばれてきた男が通りがかりのペトロとヨハネに物乞いをしました。二人は立ち止まり、男をじっと見て「金銀はない。しかしイエスの名を持っている。この名によって立ち上がり歩きなさい」と言いました。ペトロが何を言っているのか最初理解できなかったと思います。ところが、体に力が流れ込んできた感じがして立ち上がれたのです。男は驚きながらいろいろ試してみました。歩いたり飛び跳ねたり、自分の身に起こった奇跡を喜んで、神を褒めたたえながら二人と一緒に神殿に入っていきました。
 この奇跡の男を一目見ようと、大勢の人がソロモンの回廊に押しかけてきました。群衆は二人に魔術的な力があると思ったからです。ペトロは群衆をにらむようにして「なぜ驚くのだ。なぜ私たちを見るのだ。」と語り始めました。
 ペトロはペンテコステの時と同じように聖霊に満たされていました。16節に「わたしはこのことの証人です」と言い切っています。もしかしたらそうだったかもしれない、というあやふやな言葉ではありません。その目で確かに見た人だけが言える証言です。この事とは、イエスが神の僕であり命の源であること。そのイエスを殺してしまったこと。とりわけピラトが無罪だと言ったにもかかわらず難癖をつけて脅し、人殺しのバラバを釈放させイエスを十字架につけたことです。
 ところが神はイエスを死者の中から復活させ、そのイエスが現に今、生きていて自分はただ「イエスの名で立ち上がれ」と言っただけで「イエスの名」がこの人を完全に癒やした目撃者なのであり「わたしはこのことの証人」と言い切りました。この証言はペトロがイエスの仲間であることを白状しているのですから、まかり間違えば当局に捕まえる口実を与えているようなものです。「証人」という言葉は、やがて「殉教者」を意味するようになりました。教会が成長する過程でペトロのように大胆に「証言」したステファノは、モーセと神殿を汚したと決めつけられて、大きな石を投げつけられて殺されてしまいました。
 さて、ペトロは「イスラエルの人たち」と呼びかけています。イスラエルとは「神とボクシングする人、とか神は闘う」という意味があり、これは創世記の32章にあるヤコブの旅の途上のエピソードで、天使らしき者がヤコブに戦いを挑んできて一晩中格闘してヤコブが勝ったのですが、天使は「これからあなたはイスラエルと呼ばれる。お前は神と闘って勝ったからだ」と言い残して去って行きました。それでヤコブの子孫はイスラエルを名乗るようになったのです。
 ペトロは尊敬の思いを込めて「イスラエル人の兄弟よ」と呼びかけ、神をよく知っているあなた方だからこそ言うのです、と語りかけています。あなた方が驚いているのは、私たちの信心や魔術ではなく、アブラハム・イサク・ヤコブの神が、その僕イエスに栄光を与えて下さった「しるし」なのだと。
 この神の呼び方は伝統的なものですが、イエスさまは「神はアブラハムの時も、イサクの時も、ヤコブの時も、今も生きていて信じて従う人と共にいて下さり、物事を成就する力そのものだ」と仰いました。神殿に閉じ込められ、規則やしきたりで呼び出されたり礼拝されたりする死んだ神ではないのです。
 つぎに「僕イエス」という言葉です。イエスが誰であるのかに幾つかの表現があります。「神の独り子」「主」「キリスト」「モーセのような預言者」「ナザレの人」などですが、「僕」つまり奴隷という言い方はイザヤ書に頻繁に出て来ます。
 これはキリスト教会の初期のイエス理解です。イエスが十字架に自ら架かったのは、神の奴隷として徹底的に神に従ったからで、僕として受けた侮辱や不当な扱いを通して、神は人間がどれだけ偽りや怒りに支配されているか、死の呪いに縛られているか、そこから救い出せるのがイエスの復活の希望であるという福音です。
 今も生きて働くイエスの名と力が目の前の男の人の死んだ体を生き返らせたのだ、足だけが丈夫になったのではなく人間全体が新しく生まれ変わったのだとペトロは言っているのです。
 このように死んだ人をも生き返らせる「命の源」であるイエスをあなたがたは、あらゆる不当な方法で殺してしまったと群衆を責めながらも、アブラハム・イサク・ヤコブの神がイエスを復活させられたように、信じて従う人にもそのようにして下さるのだと、キリストの救いに招いています。
 私たちは使徒信条を空で言うことが出来ますが、その内容をどこまで力ある証言としてアーメンと言えるでしょうか。「主はポンテオピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の神の右に座したまえり」と告白します。時空を超えて私たちはイエスを拒んだ一人でありながら、死人の世界にまで降って行かれたイエスによって新しい人にされたのだと告白しているのです。
 これを意味もなく暗記している筈はないのです。これからは一言一言をイエスの名に人間を癒やし神の子とする力があると理解し、心から信じて告白していきましょう。その時、癒やされ強くされた男の人のように、喜び躍って神を賛美し、礼拝する者とされるのです。
 最後に、神は約束を破ったアダムとエバを楽園を追い出されました。その上、きらめく剣の炎で「命の木」を囲ってしまわれました。けれども、神は動物の毛皮で造った着物を与えたのです。毛皮は動物の死によって得られますから、これをパウロは、イエスキリストの死によって命を着ると表現しました。
 神は、どこまでも私たちを愛して下さいます。神はイエスを拒む人々をも招いておられます。「あなたの敵を愛しなさい」とイエスは十字架の上で証しされました。私たちはこのように、どこまでも神に大切にされている存在です。お互いにその様にして生活していきましょう。
祈ります。
私たちが敵であった時でさえ、憐れみをもって生かして下さり、イエスを信じて歩み出した人を、どんなに愚かであっても見放さずに最後まで愛して下さいます。その愛に応えて今週も生活していきます。あなたの愛の証言者として。
主イエスキリストの名によって祈ります。アーメン

2020.7.12 苦しみを祝福にかえる名前

今日はまず、ある人の自己紹介を朗読します。「僕は子どもの頃から地図を見たり、望遠鏡や顕微鏡を覗いたり、遺跡の勉強をしたりするのが大好きで、そういうことに夢中になっていましたが、そんな僕も成長するに従っていろいろ悩みや苦しみなどを考える年頃になってきたとき、いったい僕はどうしていったらよいのか、これから先の人生を、青春時代を生き甲斐のある生活を過ごしてゆくことが出来るだろうかと考えるようになったのでした。そんな僕の17歳の頃、ある日ラジオでキリスト教の放送がありましたので、聞いていたところ宣教師のお話の中で「イエスさまは誰でも皆さんを救って下さいます。いつでもお友達になって下さいます」と言われたことを聞いて、そうだ僕はイエスさまを信仰して生きてゆこうと心に決めたのです。それから18歳の終わり頃、父と母に「教会へ行ってみたい」と言ったら「いいよ」と言ってくれ、母が小倉先生にお話してくれたところ、先生は快く「いらっしゃい」と言って下さったので、僕はお友達と生まれて初めて教会へ行ってみました。教会の礼拝は、何となく厳かでした。また牧師先生のお話の意味もよくわからなかったけれども、僕の心はなんだか明るくなったような感じがしました。それから僕は少しでも分かりたいと思い、聖書を父に読んでもらったり教会へ行って牧師先生のお話を聞いているうちに、今では少しずつおぼろげながら僕なりにイエスさまの教えが分かってきたように思います。」
 気づかれた人もいるでしょう。この人は6年前、60歳を目前に亡くなった松本教会のTMさんです。これは21歳の時「やまびこ」に寄せた手記の一部です。
 TMさんは仮死状態で生まれたため麻痺の障害を負いました。治癒を願ってご両親はあらゆる手立てを尽くし、TMさんは作ってもらった歩行器で動きまわったり地球儀を買ってもらいそれを見るの大好きでした。しかし障害が重く、就学免除の扱いで学校に通うことが出来なかった悔しさはどれ程だったか知れません。けれどもお母さんに新聞を読んでもらい社会のことを知り文字を覚えました。こうして地図や地球儀、望遠鏡や遺跡に強い関心が生まれます。教会に通い小倉牧師やEYさんなど多くの人に囲まれて過ごしました。その頃さまざまな障害ある人が集まり互いに知り合い、また食事をしました。今で言うデイケアのはしりです。
 私がTMさんを知ったのは23年前。41歳の時です。初めて会った時の笑顔は忘れられません。一生懸命語りかけてくれ、一生懸命聞き取ろうとしましたが理解できませんでした。しかし心から歓迎する気持ちが伝わってきました。亡くなった時、驚きと悲しみで動揺しました。私と同い年だったからです。18年の交わりを通して沢山の宝をもらいました。人生への積極性、重い障害だからと諦めず、知りたい、聴きたい、音楽会へ行きたい、感じたことや考えたことを書いて伝えたいという思いをパソコンに向かって途方もない時間をかけてメールを書かれました。重い脳性麻痺のため発音はとても聞き取りにくいのですが、1文字1文字の入力をする集中力はすごいものでした。MTさんの人生を逞しくしたのは、イエスさまを知った事、イエスの名です。そこへ行き着けたのはご両親、妹さんの愛です。教会の交わりの中に居続けたことです。でも人の手を借りなければ生活できないので、遠慮したり我が儘だ思われて本当にやりたいことを抑えなければならなかった悔しさや孤独や苦しみもたくさん味わったと思います。「イエスさまは誰でも救って下さる。いつでも友達になって下さる」という若いときに聞いた宣教師の言葉は、MTさんの信仰と生活を支える土台だったに違いありません。
 さて聖書に入ります。「美しの門」の傍らで物乞いをしていた男が「イエスキリストの名によって立ち上がり歩きなさい」の言葉によって、生まれて初めて自分の足で立ち、躍り上がって新しい生活に入りました。これを見た人々はあっけにとられた、とあります。多くの人が奇跡の男を見ようとペトロの周りに集まりました。しかし反対に「こんな事が神殿の前で起こされてはたまったものではない」と排除する人々もいました。イエスの名が起こした驚くべき変化、一人の男の生まれ変わりを通して「あなたならどうする」と聖書は問いかけています。
 「神の国は近づいた」とイエスの呼びかけは今も響いています。私たちはともすると信仰が観念にとどまったり教会生活がつまらなく感じられて、心からの喜びや生活の力になっていない場合もあります。信仰者という自覚と生活者という現実が切り離されているなら、そこに感謝と喜びは生まれてこないのです。
 「イエスキリストの名によって立て、歩け」とは、私自身のために十字架について下さったイエスをリアルな方として感じて頼ることです。聖書の言葉は実行してみないと本当かどうか分かりません。砂の上に家を建てた人の喩えのように、御言葉によって生きているかどうかは問題が起こると明らかになります。頼りにしてきたことが消えてなくなったり、家族や親友に誤解されたり、正当に評価されない悔しい状態が続くこともあります。しかし、そういう時、たった一人に感じる時にこそ、イエスだけが私の理解者、私の慰め、私の力の源として本当に分かるのです。
 ところで、神との約束を破った男と女は、祝福が満ちあふれたエデンの園から追い出されてしまいました。追い出された世界は蛇のような敵がうろついています。女には産みの苦しみがあり、男は女を抑圧し、男も他人に支配され、もはや対等で真実な関係はありません。渇いた土地を汗して耕さなければならず、収穫の多くを他人が横取りするむなしさもあります。祝福が呪いに変わった世界です。
 しかし、旧約の世界に福音に通じる小道が拓かれています。神は蛇に向かって言いました。「わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」謎めいた言葉です。初代の教会は、彼とはイエスキリストだと悟りました。サタンの支配にイエスが戦いを挑む。サタンは全力でイエスに噛みつき、ついには殺してしまう。イエスは殺されますが神によって復活したイエスはサタンの牙である「死」を滅ぼし、神との関係に立ち返る「永遠のいのち」の希望を下さったのです。
 おわりに、本日は教団の定めた「部落解放祈りの日です」週報に記しましたが、日本固有の部落差別という現実を教会の祈りの課題としようという趣旨で制定されました。しかし部落差別とは何であるか分からない時代です。解消したのではなく見えないようにされ、なっている、見ないようにしているから分からないのです。
 今アメリカで黒人差別が続けられてきた現実に激しい抗議の声が挙がっています。今もアメリカに黒人差別があることは日本人でも知っています。もっと言えば世界中には民族や宗教の違いをことさらに強調して対立を作り出し利益にする人々がいます。しかし黒人差別を外国の問題と考えるように、部落差別は昔のこと、自分には関係ないと背を向けてしまうので、その見えない鎖に私たちが縛られていることに気がつかないのです。難しい問題ではありますが「部落解放」を祈るとは何か今は分からなくても忘れないようにしましょう。人生において「そうか、このことだったのか」と直面したとき、私と隣人を隔てている壁の存在が分かり、そこから本当に具体的で個人的な祈りに、行動につながっていくと信じています。
 さて、私たちは神さまから「産めよ増えよ、地に満ちよ」と祝福された被造物として命を授かっています。祝福にふさわしい生き方を求め、そこに向かって生活することを神は望んでいらっしゃいます。
 「イエスの名によって立ちなさい」と聖書に書いてあります。「立ちなさい」の言葉には「復活する」という意味があります。昔のことではなく今私たち一人一人への招きです。招きに応える心と行動は、毎日、毎朝、毎週主日ごとに御言葉を聴き続けることによって必ず与えられます。子どものように、今日出会う人、今日出会う変化に御心が隠れていることをわくわくしながら探していきたいと心から願うのです。
 祈ります。
恵みの神さま、いつの間にか自分の居所と決めて座り込んでいるところに、ペトロを通して訪ねて下さってありがとうございます。あなたの名前を信じて立ち上がります。手をさしのべて下さい。今、この時から私たちの心を驚きと喜びで満たして下さい。私たちに起こる変化がイエスキリストへの信仰となりますように。
主イエスキリストの名によって祈ります。アーメン