先週は私たちの伝道所の創立記念日でした。今朝は松本教会の創立記念日です。
ペンテコステの日、3千人もの人々がバプテスマを受けたとあります。この人数を信じられますか。またイエスさまのパンの奇跡では5つのパンと2匹の干し魚で5千人以上の人々が満腹になったとありますがどうでしょうか。
私の若い頃の経験ですが、1990年の夏に年配のクリスチャン20人程に混じって中国東北部の教会を訪ねる旅をしたのですが、どの教会でも熱烈歓迎でした。文化大革命というめちゃくちゃな政治運動が失敗に終わって10年ほどした頃で、少しづつ言論や宗教の自由が回復してきた時期でした。どこへ行くにもガイドという名目で監視が付きましたが、外国人の旅行が許可されるようになっていました。
今の若い中国人の多くは文化大革命も天安門事件も決して教えられることはありません。全体主義の国では支配者に都合の悪い記憶は消し去られるからです。その体験を語り継ぐことも、その失敗を国民全体で議論することも御法度です。だから今後の香港が30年前の悪夢のようにならなければと祈るばかりです。
文化大革命が終わると、中国では放置されたり倉庫になっていた日本人が建てた古い会堂が改修され、新たに大きな教会堂も建てられました。訪ねたハルピンの教会は800人は座れると思われましたが、その日曜日通路も庭も人々で一杯で、おそらく2000人以上だったと思います。笑顔と熱気が溢れていました。
旅の目的は2つでした。一つは戦前の教会の過ちをお詫びするためです。もう一つは、その証として日本で印刷した中国語の聖書を贈ることでした。聖書や讃美歌が極度に不足していると聞いていたからです。喜んで受け取って頂けました。
こういう経験をすると、初代教会の躍動は決して大げさではないと信じられます。神の言葉は一人一人に語られるだけでなく、秩序が崩れ去った社会で唯一信じられることが教会で起こっているとなれば、人々はむさぼるように御言葉を求め、餓死寸前の人がわずかな食べ物を手に入れたときの必死さと同じでしょう。
さて、42節から47節は、ペンテコステから数週間で瞬く間にクリスチャン共同体が成立したかのように読めますが、そうではなく、使徒言行録の結論として、エルサレムに生まれた信仰共同体が急速に拡大してく課程の、成長だけでなく対立やゆがみ、反対勢力からの弾圧にめげない姿、さらに対立していた人々もが福音を受け入れて群れに加わるという奇跡も含まれています。この数行には数年間の出来事が要約されていると思います。そのように読むと著者の意図がはっきりします。
そこで、今日は3000人もの群れになった人々の躍動を見ることにします。規模や背景は違っても松本教会や筑摩野伝道所のスタートと似た部分があります。
第一に、会堂はまだありませんでした。クリスチャンも最初はユダヤ教徒と同じように毎日早朝に神殿で祈りの時を守りました。その後で回廊などでペトロやヨハネからイエスの話を聞いたのです。初期のクリスチャンは都市の住民が中心でした。日の出から畑に行く人はわずかで、一日3回の祈りの時間には神殿で祈っていたのです。
そして夕方になると家で食事をしました。まだ普段の夕食と聖餐式の区別はありません。そのことを、「彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを割くこと、祈ることに熱心だった」とルカは書いています。さらに身内だけでなく信仰の家族として血縁を超えて食事をしたり助け合ったりするのが当たり前になります。
「すべての人に恐れが生じた」ここが今日の一番大事なところです。
信仰の交わりに入ったばかりの初々しいクリスチャンの一番重要な特質は、神に対する恐れです。ここで「恐れ」と言うのは「敬い畏れること」と「怖いと思う」と同じ単語が使われています。
クリスチャンが実感した神への畏れは「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」というイエスの教えの真実から生じたと思います。3000人の中にはけしからん者もいたはずです。怠け者、ずるい人もいたに違いありません。しかし、福音を学び生活をしていくうちに人間が変わってきたのです。また弾圧され絶体絶命の時に助けが起こることを経験しました。
逆に5章の記事のように、人の目をごまかせても神の前には偽善は通じず、何もそこまでという厳粛な裁きがなされた時、皆が震え上がりました。
人を区別なさらない神の憐れみ、どんなまじないでも治らなかった病が「イエスの名」で癒やされる驚きと喜び、どんなに憎まれても退かない勇気の出所が、神への畏れ、信頼だったと言えるのではないでしょうか。
ところで、創世記3章には、人が神の絶対的な禁止事項を破るという事件が出てきます。いわゆる「原罪」の出所です。先週少し触れました。「決して食べてはいけない。必ず死ぬから」としての神の命令を、蛇に誘惑されて、まず女(イシャー)が実を食べます。女は男(イーシュ)にも与えたので二人とも食べてしまいます。そして二人の目は開かれ、裸である知識を得、イチジクの葉で腰を覆います。
神は「食べると必ず死ぬ」と警告しましたが二人は息絶えませんでした。3章に限って考えると「死ぬ」とは「神を避け、自分を隠し偽るようになる」ことではないだろうか。
互いに腰を隠したのは、性と関係があるにせよ、ここでは自分の姿をありのままに受け入れられない自己否定の象徴だと思います。
それに続く物語では神が呼びかけたとき「恐ろしくなり隠れた」のです。「誰が裸であると告げたのか」の問いには答えず「食べるなと命じた木からとったのか」には「あなたが私と共にいるようにされた女が、与えたから」と責任転嫁します。同じように女も「蛇がだましたから」と責任転嫁の連鎖です。
「神を畏れる」エデンの二人は「神から隠れ神を恐れる」姿に変わり果てました。それは「原罪」の原因ではなくて、自由をはき違えるとどうなるか、その人間をどこまでも愛そうとする神の動機、どんな人間も赦して受け入れ、そのために裏切られ傷つく愛の性質を語っているのです。
最後に松本教会の最初に目を向けましょう。百年誌に「松代の長沢弥左衛門と伝えられる人が横浜で福音を知り、城下町松本に来て聖書販売の傍ら伝道を始めたのが1876年7月。求道者が起こりコーレル来松」とあります。
松代とは佐久間象山の影響でしょうが、文明開化の横浜に出た青年が宣教師に出会い、新しい知識、聖書の魅力を知って、松本で聖書販売を始めました。維新からまだ8年、耶蘇禁止の高札がやっと廃止された年に聖書を売り歩く勇気には驚きます。その年までに日本語になっていた聖書は「ルカ:路加伝」と「ローマ:羅馬書」の分冊だけで、あとは漢語聖書なので読むには相当の教養が必要です。店先に並べても売れはしません。彼は訪ね歩き、説得したのでしょう。その熱心は聖書を手に入れ学びたい人を発見していきます。
武士社会が崩壊し不安と期待が入り交じった時代でした。フルベッキ宣教師は「横浜の教会は、信州人の間に著しい宗教上の覚醒が起こっているという報告を初めて受けた。・・それには熱心な訪問の要請が伴っていた。それらの報告はとくにコレル氏宛てのものであって、同氏の指導のもとで聖書販売人がその地方を旅行したのであった。そこで・・コレル氏はその地方を訪ねた。・・松本やその他訪問した所で、適切な教師のもとに、宗教教育のための幾つかのクラスを作ることに成功した。・・(日本プロテスタント伝道史)」と報告しています。
一人の救いから松本平に蒔かれた種が成長し、何度も多難な時代を乗り越え、この時代という畑に福音の種が蒔かれ続けています。私たちも福音のエネルギーを受け継いでいます。「聖霊を受けよ」を信じた人々が活き活きと生きたように、聖霊が注がれていると信じる教会は、エネルギーを受けて前に進むのです。
祈ります。
私たちを土の塵から造られた神さま。私たちに息を吹きかけて生きる者にして下さったことに感謝します。私たちの教会をこの地に必要とお考えで生み出し、今日まで恵みで育てて下さったことを心から感謝します。
これからも御言葉に従い、御言葉を宣べ伝え、祈りの家、人々の拠り所として発展していけるように清めて下さい。
私たちはあなたを愛し畏れ、人々を自分のように大切にします。どうか御言葉と聖霊によって導き励まして下さい。主の名によって祈ります。アーメン
2020.6.28 教会創立記念日「正しい関係に返ること」
私たちは6月第4日曜日を教会創立記念日としています。今年で29周年です。
教会の創立記念日も人の誕生日のように、この土地、この家族の中で命を授かり、恵みによって生かされてきたことに感謝し集い祝います。自分の名前に託された願いを親から聞くように先人に聴き、迷ったり立ち止まったりしているときには受け止めてもらい、嬉しいときには子どものように喜び、年老いて弱ったときにも主を見上げて新しい力を受け、若い世代を祝福して信仰の遺産を残していくのです。
私たちの最初の礼拝は、1991年4月7日に守られて24名でした。詳しい記録はありませんが、内訳は12人の会員と伝道師、11名のゲスト(松本教会からの応援等)です。それから29年、今朝、1526回目の公同礼拝をささげています。
その時の12人の会員としてAさんとBさんがおられますので、礼拝後に話を聞かせていただけたらと思いますが、どうでしょうか。
記憶を語り継ぎ記録を残した人々によって聖書は私たちに受け渡されました。聖書には神のなさった事への畏れ、驚き、喜びが活き活きと描かれる一方で、神の厳しい裁きも記されています。神の裁きは愛する人間を決して見捨てないしるしです。
さて筑摩野教会の物語は松本教会が創立90年を間近にした1960年代に始まります。
当時、松本教会は市役所拡張のために移転することになり、松本市は代替地を提供しさらに差額を教会に支払いました。その額は新会堂を建てるのに充分でした。それで苦労なしに会堂建築へ向かうのですが、計画を巡って会員の間で意見の違いや感情的な対立が起こってきました。ある人たちは以前に劣らない広さと設備を備えた立派な会堂にすべきだと言い、ある人は松本市南部はこれから人口が増える地域だから、あそこに伝道の拠点を作るため資金と力を注ぐべきだと主張し、それらの意見は対立し、ついに数名が教会を去る事態になりました。
三和義一牧師は痛恨の念を込めて書いておられます。「我々はみんな教会のためによかれと願いつつ、意見をかわし事を進めてきた。誰もただ自分の思い通りにしようとした者はいなかった筈である。しかし実際は長老会の提案通り計画が進められるようになった結果、反対した人々の中から数名の離脱者が出るようになった。・・・我々はこのことについて、他者を責めるのではなく、神の前に恐れをもって反省しなければならない。ただ福音に共に与ることに於いてつくられる教会の交わりが、人間的なものによって破られたことについては、何よりも先ず、私たちの信仰と高慢な罪が厳しく問われなければならない」と。
こうして1969年に松本教会は新会堂に移転したのですが、資金の一部を南部伝道のために残し、現在の青い鳥幼稚園の一部である150坪を購入しました。しかし伝道を直接担える信徒が近くにいなかったので、計画は停滞してしまいます。
三和牧師の後任に若い小倉和三郎牧師を迎えて、教会創立百周年が近くなると、「松本市南部に教団の教会を」という祈りが教会に満ちるようになりました。それに呼応するように、1976年に北原町に家を建てた信徒宅で家庭集会が始まり、近くに住む信徒の子どもたちを中心に北原町公民館で子ども会が始まり、松本教会の婦人会として「南部聖書を読む会」、家庭集会などが13年間続けられました。
南部伝道が具体的になってきた1978年の教会報「やまびこ」には
「10年後に北原町に南松本教会を設立、30年後には50人の信徒で礼拝」
「南部と言っても地域は広く、芳川、寿、神林、笹賀、中山等、南部に住む何万という人々に御言葉を伝える計画が達成できるよう、そしてその活動を通じて自分自身の信仰を強くすることが出来るよう、希望と決意を新たにする」
「この会堂建築によって与えられる目に見える約束は何もないかも知れないが、この稔りのために心を尽くしていくことが私にとって、神の国を信じ、神に召されるその時まで、この地上で主の証人として力強く生きていくという、信仰の原点にもう一度立ち返る機会になるのではないかと思っている」と思いがつづられています。
こうして1991年に神学校を卒業したばかりの兵藤辰也伝道師を迎えて新しい教会が生まれたのです。
教会は仲良しが意気投合したり、有力者が動いて建つのではありません。むしろ弱さを抱えた人、容易でない問題を抱えた人々が神に集められて建つのです。個人的には耐えられないような苦しみや悩みの真っ最中に、教会設立の責任を担うことになったからこそ、危機を通り抜けることが出来た人もいたと思います。
このようにして設立した松本筑摩野伝道所は松本教会だけでなく、一緒に祈り苦労して今は大変高齢になられた信徒や、県外に移られた信仰の友に支えられ、分区教区や全国の教会の祈りと交わり、地域の人々やキリスト教保育の幼稚園の関係者とのつながりの中で今日までの歩みがあるのです。
ところで名称の「松本筑摩野」は、第1に「筑摩野中学校」の隣に建ち、それが自然であったこと、第2に筑摩野は安曇野と同じように生活圏の古い名称で地域に開かれた教会にふさわしいこと、第3に南部伝道の稔りとして松本南がなじみ深く、筑摩野に松本を冠して松本筑摩野になりました。
また、教団では信徒が20名以上になるまでは伝道所です。一般に分かりにくい呼び方かも知れませんが、伝道する群れやMission stationという意味で伝道所という名称は個人的には大好きです。
終わりに、これからの歩みも御言葉と聖霊の導きに素直でありたいという思いで神の出来事を聞きたいと思います。
ペンテコステの朝、ペトロの説教で自分たちの罪に心を刺された人々は「兄弟たち、わたしたちはどうすればよいのか」と不安そうに訴えます。ペトロは率直に彼らに迫りました。「悔い改めなさい」と。ここを本田哲朗神父の翻訳で読んでみます。
「低みに立って見直し、一人一人皆、キリストであるイエスご自身に結びついて、沈めの式を受けなさい。そうすれば道を踏み外したことは赦され、贈り物として聖霊を受けるのです。聖霊の約束はあなたたちに向けられたものであり、あなたたちの子どもにも、はるか遠くの人たちにも、神である主が呼びかける、すべての人に向けられているのです。」と。
更に多くの事例をあげて神の愛を証言して「ゆがんだ社会から自由になりなさい」とみんなを励ましました。
私たちは個人的にも、社会的にも「何かが間違っている」という感覚はあると思いますが、「では、私たちはどうすればよいのか」と考えたときに「私には何も出来ない」と思うかも知れません。
しかし神はそういう人に向けて「私の言葉を聴きなさい。そうして聖霊を受けなさい。そうすればあなたも、あなたの家族も、将来の人々にも救いが訪れるのです」とやり直すチャンスと従う勇気を与えて下さいます。
アダムとエバは生まれながらに備わった自由を正しく用いることが出来ませんでした。しかし、神を裏切ってしまって尚、神は新しい生き方を与えられました。それは苦労と苦しみの絶えない世界でしたが、その地上世界は神の憐れみに支えられ、永遠の命に向かう生き方を選ぶことができるのです。
私たちは罪赦された罪人の集まりであり、教会がすべての民の祈りの家として、今日再び神の赦しの愛に立ち返って、教会の歩みを進めていきましょう。そこには必ず神さまの恵みと希望があるからです。
祈ります。
私たちを土の塵から造られた神さま。私たちに息を吹きかけて生きる者にして下さったことに感謝します。今朝教会が生まれて29年目を迎えました。これまでの豊かな恵みと励ましに感謝します。そして時に過ちを犯し気落ちしやすい私たちを、キリストの愛のゆえに正しく導いて下さい。
私たちはあなたを愛して、人々を自分のように大切にします。どうか、そのように生きられるように御言葉と聖霊によって導き励まして下さい。
主の名によって祈ります。アーメン
2020.6.21 スタン・バイ・ミー Stand by me
今日は父の日です。110年前のこと。再婚せずに6人兄弟を育ててくれた父親を偲んで27歳になった娘が牧師に記念礼拝を頼みました。「母の日があるように、愛してくれた父を記念したい」と。彼女の父は6月生まれでした。
母の日も、父の日も、親を見送って改めて注がれた愛を思い出し、感謝がこみ上げてきて礼拝を献げようと思ったのではないでしょうか。
それは母や父に宿った信仰が子どもに受け継がれ、楽しい思い出も苦しい思い出も親子で通った教会にあったという点で共通しています。
残念なことに行事としては良く知られていますが、肝心の教会で親から子への信仰継承が少なくなっています。
さて、今朝のメッセージの題名は、ある人にとっては懐かしい響きに、ある人には何だこりゃ、という印象を与えたと思います。
実は、御言葉を黙想する中で突然思い浮かんできたソウルミュージックの曲名なのです。作詞作曲はベンジャミン・E・キングという黒人の歌手です。
この曲は大ヒットし、ジョンレノンなど有名なミュージシャンがカバーしていますし、少年の成長過程を描いた映画の題名にもなりました。
一見、恋人への愛の賛歌のような歌詞ですが、調べてみると、あるゴスペルグループのStand by me Fatherという歌詞に触発されてこの歌は生まれたのです。
それは詩篇46篇で今朝交読したものです。マルチンルターはこれを信仰の拠り所としました。
「神が共にいてくださる。わたしを守る決して崩れない砦ようだ」という意味ですが、Stand by me これを訳せば「わたしのそばにいて下さい」ですが、主語を置き換えると「わたしの側に立ちなさい」と神が命じている意味になります。
歌ではStand by meを何度もリフレインしていますが、わたしには聞く時の心境によってどちらの意味にも受け取れるのです。ベンジャミン・キングは音楽で財を築きましたが、少年たちを応援するStand by me foundationという財団を作って運営してきました。
前置きが長くなりましたが、「人間は何に支えられて生きるか」というテーマをご一緒に考えたかったからなのです。
創世記を読みます。主なる神は「アダムが独りでいるのは良いことではない。彼に差し向かう、ふさわしい助けを造ろう」と決断されました。
彼を助けるふさわしい存在とは何、誰でしょうか。
この頃は人間よりもペットに癒やされる、生き甲斐だという話を聞きます。20年も飼っていた犬が死んだとき家族を失ったように悲しみいとおしむ人もいます。ペットは愛情をもって飼えば素直に忠実に応えてくれるからなのでしょう。
神ははじめに様々な動物をアダムの側に置きました。アダムはその一つ一つをじっくり観察して特性を理解し名前を付けました。名前を付けると言うことは、その対象に責任を持ち、同時に支配することを意味します。
親や祖父母が生まれた赤ちゃんに名前を付けるとき、その子の誕生を喜び責任を負う気持ちを抱きます。「父と母を敬え」の意味が分かるように愛し、その愛に信頼して素直に従うように導き、そうして機が熟してきて、その子はいろいろな経験、考え方を知り、自分で判断できる能力を備え、責任を伴う自由を身につけます。その順番やタイミングはとても大切です。
さて、動物たちはアダムに向き合い助けるものとして見つかったでしょうか。
アダムに合う助けるものとは、対象として扱える物や動物ではなくて、心を通わせ、思いを交わし、時にはぶつかり合う霊的で人格的な存在でなければなりません。
人間は相手を対象化し商品として、かつては奴隷として、今はその能力や見栄えを売ったり買ったりしています。これは人間性の損失です。
アダムにふさわしい存在は深い眠りの中で、神によって形成され、目覚めたときに「出会い」ました。
あばら骨の一部を抜き取り、その傷を肉でふさぎ、取り出したあばら骨で女を造り上げた。移植手術や臓器培養を思わせます。
何千年も前の古代人にとって男と女の違いは何でしょう。体格、筋肉や脂肪のつきかたなど外見や機能の違いがあり、感じかたや行動様式、生殖や社会での役割などジェンダーの違いにきりがありません。当時の社会的な価値観や道徳が背景にある聖書は、男女や親子の関係で、差別的な表現がたくさんあります。
さて、主なる神がイシャーをアダムの所に連れてきた、とあります。アダムが彼女を見つけたのではありません。「ついに、私の骨、肉といえるものだ」「これを女イシャーと呼ぼう。まさに男イシュからとられたものだから」とアダムは叫びました。切っても切れない「共同性」を「語呂合わせ」しています。
こういう経過で男アダムは父母を離れて女イシャーと結ばれ、二人は一体となると表現されます。奇妙なことに最初の男と女なのに、父アブ母エイムが前提にあるし、アベルとカインの物語でも、町や社会が既にあります。しかし、その矛盾するような表現に、地上世界の本質とゆがみが見え隠れしています。
次の言葉は意味深長です。人アダムと妻イシャーは二人とも裸だったが、恥ずかしがりはしなかった。エデンの園には最初喜びと信頼が溢れていましたが、2章の終わりになって、恥ずかしいという感覚が出てきます。これは3章で「食べてはいけない実」を食べた瞬間、抱いた否定的な感覚、感情です。喜びに満ちた二人のためのエデンの園に暗い影が忍び寄ってきます。
今度は目を新約時代に移します。ペンテコステの日、ペトロは聖霊に満たされて熱い証しをしています。彼もユダヤ人です。巡礼で都に来ているユダヤ人と共通の土台であるダビデ王の話をして解き明かします。「ダビデ王を尊敬する皆さん。ダビデ王自身が預言していることを聞きなさい。神は独り子イエスにお命じになりました。私の右の座に着け。私がお前の敵を打ち倒し、お前は彼らを踏みつけるのだと。皆さんが殺したイエスを、神はあなた方の主人として、メシアである救い主とされたのです」と訴えました。
これを聞いて人々は不安と恐怖に襲われ「とんでもない過ちを犯してしまった。私たちはどうすればいいのか」と助けを求める気持ちになっていきました。
さて、私たちは神に造られ神に愛されていることは知っています。また、深い交わりとして夫婦があり、親子があり、教会の兄弟姉妹の関係があります。
しかし、アダムとエバが陥ったように祝福に対して無頓着で神から離れるようなことがあります。親鳥が雛を翼の下にかくまうように集めてくれるのに逆らう私たちがいます。その時サタンは攻撃してきます。
スタンバイミー、主よ、私たちの傍らにいて助けて下さい。
スタンバイミー、神が呼びかけています。私の側に立ちなさい。
インマヌエルの主は私たちと共にいらっしゃいます。聖霊の働きとして。
祈ります。ペンテコステの守りの中で過ごしています。外にはコロナや困難な社会状況があります。内には信仰の弱さがあります。このような私たちですがあなたが共にいて下さるのを信じさせて下さい。今週どんな時も。イエスキリストの名によって アーメン
Stand by me Benjamin E King作詞作曲
太字は詩篇46:2-3に触発された歌詞
When the night has come And the land is dark
And the moon is the only light we’ll see
No I won’t be afraid, no I won’t be afraid
決して恐れない
Just as long as you stand, stand by me
If the sky that we look upon should tumble and fall
たとえ見上げる空が崩れて落ちようと
Or the mountains should crumble to the sea
山が砕けて海の中に去ろうとも・・私は恐れない
2020.6.14 いのちの木、欲望の木
6月第2日曜日は教会では「花の日」「子どもの日」です。例年なら餅つきとミニバザーをして楽しみます。そして子どもを真ん中に礼拝し、祝福を祈り、神が共にいて下さる喜びと一人一人に特別な使命があることを学びあう一日です。昔は子どもたちを連れて消防署や交番や病院に出かけ、一年間守って下さったことに感謝して花束を贈りました。
150年前のアメリカで「子どもの日」は生まれました。西部開拓ラッシュと産業革命の大きなうねりが社会の価値観を大きく変え、物質的な豊かさを求め、家庭の団らんが消えました。教会は切実な思いをもって祈り、子どもの人格を大切にするよう訴え、家庭教育を思い出すように働きかけました。
さて、エデンの園やアダムとイヴの物語は、失楽園というストーリーで日本でも広く知られていますが、人間とは何かという本質的な内容はほとんど知られていないように思います。
人間は土塊で造られた人形ですが、神はその鼻からいのちの息を吹き入れて霊を授け、神と交われる生きた存在アダムが生まれた話です。
そうして造られたアダムを、神はエデンの園に「置かれました」。
エデンとは「楽しみ」「喜び」「平らな場所」を意味するそうです。神の人間への深い思いが表れています。「自分の子には良いものを与えるではないか」と言われたイエスの言葉を思い出します。
そこには多様で豊富な食べ物がありました。乾燥地帯の古代人にとって実のなる木、種のある植物が生えている園は理想的でした。
神は園の真ん中に「命の木」と「善悪の知識の木」を置かれました。
多くの役に立つ木々の間に、園の真ん中に「いのちの木」と「善悪を知る木」を生えさせました。これには特別な意味があるはずです。
エデンは水と地下資源が豊かにある場所です。メソポタミアやエジプトを流れる4つの大河の流域、つまり古代文明が生まれた地域と関係があるようですが。それらとははっきり区別されています。
神はアダムが生きる園をお与えになりました。住まわせとは、置いたと同じ言葉です。神が整えたいちばん良い土地をアダムに貸し与えて下さったのです。アダムが探し求めて手に入れ、気に入って住み着いたのではない前提を見落としてはいけません。
「人がそこを耕し、守るようにされた」とあります。耕すとは、食料を得るためのあらゆる労力を指すと思われます。麦を栽培するとき畑に種を蒔き肥料を与え、羊を飼うとき牧草地を世話することです。配慮し仕えると同じ言葉、守るとは誠実に世話する事です。
アダムは何でも自由に取ることができましたが、園の真ん中にある「あの木の実」だけは、食べると必ず死ぬ、危険な実でした。そして神と素直な関係にあった間は、気に留めることも無かったはずです。
エデンの園のようすは、人が生まれ育つ環境と人格教育の原点が描かれているように思えます。
赤ちゃんには乳房を吸う本能が備わっています。やがて乳から固形物へ食べられるものが拡がります。そうして何でも口に入れるようになります。外の世界を口から得る情報で確かめています。だから危険な物は幼子の近くに置かないようにします。親は子に良い物を喜んで与えます。手塩にかけて育てるというように、命には塩が欠かせません。その塩加減を塩梅良くと言います。子どもは素直に受け入れて育っていきますが、自我が育ってくると、自分の好みを主張するようになり、あれが欲しい、これを食べたい、あそこへ行きたいと要求は拡がっていきます。この時、親はどうするでしょうか。欲しいと言うままに与えるでしょうか。親の価値観が表れるときです。
何を与え、何を与えないか。何をすぐに与え、何を待つように命じるでしょうか。その基準はどこにあるのでしょうか。
「決して食べてはいけないもの」とは、命と人生に関わるものです。
アファンの森をご存じでしょうか。ニコルさんの名で知られた童顔の大男が、長野県と新潟県の県境にある黒姫高原の荒れ果てた土地に入って住み込み、地元の人と一緒に森の再生に取り組んで35年たちました。ウェールズ生まれで世界各地を冒険し、日本の自然に魅了され、ついに日本に帰化し、今年の4月に80歳で亡くなりました。
アファンとは、ケルト語で「風の通る所」という意味だそうです。
ニコルさんは複雑な家庭に生まれ、小学校では陰湿ないじめにあい、学校嫌いになりましたが、祖父の影響で生物、宗教、歴史、音楽を習い始め、狩猟を習い覚えました。中学である生物学の先生に出会ったことが彼の人生の方向を決めました。22歳までカナダ、アフリカなど世界各地を歩き回り、空手を習うために来日し、日本人と結婚し、ライフワークとして「アファンの森」に行き着いたのです。
ニコルさんが来日した頃、国有林は荒れ放題になっていました。外国産の安い材木が大量に輸入され、国内の林業を追い詰め、林野庁は赤字を膨らませていきました。赤字を埋め合わせるために戦後の苦しいときにも手を付けなかった原生林の楢やブナの大木が大量に伐採されました。森は昔から生活と結びついて人間の手入れ、世話が必要ですが、欲しい木だけを奪い取り放置された山は保水力を失っていきます。
美しくて豊かな恵みをもたらした森が人間の欲望と無責任のために荒れ放題になって行った頃、外国人のニコルさんが黒姫に入ってきて、森の世話を始めたのです。けれども彼だけでは今のようなアファンンの森は生まれませんでした。森の特性を知る人が必要でした。たった二人の入植者によって、森は再生し始めています。
生活の真ん中に「いのちの木」と「善悪を知る木」が生えているような気がします。神が備えて下さったいのちの木は、人と人とが結びつくときに、相手の存在と人格を生かし、それによって自分も生きていくことが出来るようになる実をつけています。一方、善悪と知る実は他者より優位に立つ知識や力への憧れです。その実を食べた人間は、やがて他者を利用できるかできないかで判断し、支配して尊厳を奪い、いのちの絆を感じなくさせます。だから食べてはいけないのです。
使徒言行録を読みます。「私はいつも主を目の前に見ていた。主が私の右におられるので、私は決して動揺しない。だから私の心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、私の魂を陰府に捨て置かず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道を私に示し、御前にいる私を喜びで満たして下さる」
ダビデは、いつか神の子が人間の世界を訪れ、荒廃した世界を再生して下さることを神から示されたので、このように預言したのです。
祈ります。
主よ、あなたはペンテコステによって私たちがつながることが出来る教会を作って下さり、聖霊の清さによって喜びと希望を知る生きた人間にして下さいました。あなたはイエスキリストを私たちの間に送って下さり、いのちの道を開いて下さいました。「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と主は宣言されました。私たちが信じてその道を踏み歩くとき、キリストを踏みつけていることを知ります。十字架が罪の赦しであることを確かに感じます。どうぞ今週も、私たちの生活の中にいのちの木、道、真理を示して下さい。どうぞ、ここにいる子どもたちを生きた人間として育てて下さい。
主の名によって祈ります。アーメン
2020.6.7 いのちの息を吸う
「息が詰まる生活」が2ヶ月近く続きました。先週から社会生活が少しづつ戻ってきましたが、感染を怖れる雰囲気や自粛警察と揶揄される感情的なしこりが人々の間に漂っています。どこにでも行けて何でもできた半年前が夢だったように、今は気持ちも不自由です。
面白いことに、ペンテコステ前の弟子たちもユダヤ人の迫害を怖れて外出を控えていました。祭司長たちはイエスがいなくなれば弟子グループは簡単に消えてしまうだろうと見積もっていました。
ところが聖霊が降り、弟子たちを覆うと、彼らは人が変わったように活動的になったのです。
その日突然、訳の分からない言葉で語り出しました。ギリシャ人は外国人をバルバロイと呼んで蔑みましたが、相手の発音が「バルバルとかバロバロ」としか聞こえなかったからでしょうか。
しかし、この不思議な言葉を聞いた巡礼者たちははっと気がつきました。これは俺たちの故郷の言葉ではないか。ペルシャ、アフリカ、アラビア、トルコの言葉もあるぞと大騒ぎです。しかし一部の人々は「あいつらは酔っているだけさ」とばかにして言いました。
ペトロは集まって来た人々に大声で説明しました。他の11人も同じ思いです。
「皆さん、是非知って頂きたいことがある。今は朝9時だから私たちは酔ってなどいません。そうではなく、先祖の預言者ヨエルが言っていたことが、私たちに起こったのです。」と。
ペトロは思わず立ち上がり、人を怖れず神の言葉を語りました。。
「今こそ、ヨエルが言っていた終わりの時です。神は約束された霊をすべての人に注がれています。その霊、つまり聖霊が今日、本当に降ったので、私たちは神のなさった素晴らしいことを皆さんの故郷の言葉で語ることが出来たのです。この言葉を信じる人は、誰であろうと救われます。」
そして、街の誰もが知っているイエスの十字架の死を引き合いに、イエスは神に復活させられて神の右の座につかれたこと、イエスが約束された「高いところからの力」である聖霊が自分たちに注がれたので、あなたがたは自分の目で見、耳で聞いたのだと説明したのです。
ところで、ヨエル書3章を読むと、その後と書いてあります。何の後かというと、神を怖れない勝手な振る舞いを続けている人間を懲らしめるために地上はイナゴの大群で荒らされて食べ物がなくなり、宇宙でも異変が起き、太陽も月も暗くなり、星も光を失い、甚だ恐ろしい神の怒りの日が来るというのです。
しかし神は「今こそ、心から私に立ち返って断食し、泣き悲しめ。形ばかりで衣を裂くのではなく、本気になって心を引き裂け」と憐れみを込めて命じました。
もし、心を裂くように自分に絶望し、必死になって神を見上げるならが、神は前より豊かな世界を創り出し、イスラエルのうちに命の神がいることを知るようになる、そして、その後に、すべての人に神の霊が注がれると約束されていたのです。
ペトロは、ヨエル書の「その後」を「終わりの時に」と言い換えました。うっかり間違えたのではなく、今こそ、その後なのだ。これまでと全く違う世界がすぐそこまで来ているのだ。つまり完成の時が近いという意味で「終わりの時」と言ったのです。
終わりの時があるのだから、始まりの時があります。
イスラエルの先祖は多くの悲劇と悲しみの歴史を歩んできました。繁栄と滅びを繰り返し経験した人々は、人間とは何か、世界とは何か、根本的なことを何度も何度も考えました。けれどもいくら考えても答えは出ません。
その時、神の声を聞きました。「私が世界を造ったのだ。私がお前を造ったのだ」と。真実、真理は外から訪れます。
創世記は語ります。すべての源である神は思いを尽くして世界を造られました。その最終作品が人間です。ご自分のイメージに似せて造られ、世界のすべてを治めるようにと責任と尊厳を備えて造りました。
しかし同時に、はかない存在なのです。土の塵とは、砂粒ではなく、生きものの死骸の集まりです。だから、人間も死んだら土に帰るのは天地創造の定めだと、イスラエルの人々は神の声を聞きました。
画竜点睛(がりょうてんせい)を欠く、という東洋の言葉があります。
昔、中国で絵の名人が寺の壁に竜の絵を描きました。最後に竜の瞳を書き入れたところ、竜は壁から抜け出して天に舞い上がっていったという故事です。画竜点睛を欠くとは、竜の瞳を書き入れなかったら未完成だということから、決定的な何かが足りないことのたとえです。
創世記の人間とは何か、それは、土で造られた壊れやすい器に、神が息が吹き入れて「生きるもの、生きた魂」になったのです。
この息は空気ではありません。息は同時に魂とか霊と同じ命の本質を指します。聖霊と言い換えてもいいと考えます。
聖霊そのものは見えないしとらえがたいのですが「聖霊が働きかける」ことで変化が起こります。
明らかに創世記を意識してパウロはこう言っています。「闇から光が輝き出でよ」と命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエスキリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました。このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な神の力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために。
私たちは四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。私たちはいつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に表れるために、と。
この息苦しい世界で、神の息、注がれた聖霊を胸一杯に吸い込んで、今週も、土の器として、神の息がかかった者として、父、子、聖霊の三位一体の神に生かされて生活しましょう。
2020.5.24 見よ、神が祝福するすべてを
今日はペンテコステです。これはギリシャ語で50のことです。春の過越祭の翌日から7週後つまり50日目の夏の祭りで、7週の祭と呼ばれました。ユダヤ人なら何をおいても集うべき祭りが3つありました。まず春の過越祭。秋の仮庵祭、そしてペンテコステです。畑の初物、家畜の初子を神殿に奉納し、神の恵みに感謝しました。 この日、神殿に2つのパンと子羊や雄牛が献げられます。パンは初物の小麦粉にイーストを入れて発酵させたものでした。過越祭のパンは大麦の粉にイーストを入れないで焼いたので固くて美味しくなかったと思います。それは先祖がエジプトから逃げ出す時に、大急ぎでパンを焼いたので発酵させる時間がなかったことを思い出すためです。 神殿から帰ると、家族や親戚が集まって食卓を囲みました。年に3度の家族のお楽しみは、同時に親から子に民族の物語を語り聞かせる、大事な教育の時でした。 レビ記23章にはペンテコステの掟が書いてあり、麦畑は隅々まで刈り取ってはならないと命じられています。貧しい人や寄留者や旅人が残った穂によって飢えないように配慮する神の憐れみの心でした。ルツ記の物語を朗読するのはそのためです。ペンテコステには貧富や民族の区別なく、神の恵みを一緒に祝う祭りだからです。 さてこの日、弟子たちもユダヤ人ですからペンテコステを待っていました。しかし、他のユダヤ人と決定的に違っていたのは、イエスが10日前に約束された「上からの力に覆われる」ことを、心を一つにして待ちながら、ひたすら祈っていたことでした。 私なりの直訳を週報に記しました。ペンテコステの日が満了したと表現されているのは、聖霊を待つ祈りの時が満ちたということです。ルカ福音書24章によれば「わたしは父が約束されたものをあなた方に送る。高いところからの力に覆われるまでは都に留まっていなさい」と。使徒言行録の1章によれば「あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして地の果てまでわたしの証人になる」とイエスは宣言されました。それでマリアやイエスの兄弟たち、大勢の男女の弟子たちが心を合わせて熱心に祈っていたのです。 単にイエスに期待する人々が、確信の人に変えられるには祈りの日々が必要でした。そこに聖霊が突然に注がれるのです。この出来事こそ聖霊のバプテスマです。聖霊に清められ新しく生まれた人々のことをエクレシアと呼ぶようになりました。エクレシアは信じる人の群れです。ペンテコステは教会の誕生日と言われるようになりました。 聖霊のバプテスマは人生にどう現れるのでしょうか。たとえば自分なりの努力で作り上げた生活が突然行き詰まるという体験です。私の都合におかまいなく突然、混乱の中に投げ込まれるという風にです。 私は聖書のような劇的な体験をしたことはありませんが、人生を右左する「あの時、この時」を思い起こすと聖霊の存在を実感します。母は幼いとき海でおぼれましたが助けられました。生きていなかったら私はいません。幼い兄が事故で死んで私は今でも生きている。神がわたしを生かして下さる目的は分かりません。確かなのは憐れみです。 高校3年生の時には牧師になりたいと思っていました。ところが父の会社が2度目の倒産をして家族の生活を思って別の大学に進みました。就職して10年、青年会長や役員として張り切っているときに突然、教会を揺るがす事件が起こり、牧師と対立し、同僚役員への不満、青年会員の死、上司への失望が重なって、何もかも投げ出したいとふさいでいました。その時、私が批判してきた人が訪ねてきて言いました。その一言で光が差し、自分の傲慢さに泣きました。 イエスの十字架と復活の後、弟子たちはユダヤ王国の再建が始まると期待しました。しかしイエスの宣言は違いました。弱い者小さな者力なき者を神の力が覆う。それを体験して宣べ伝えよだったのです。 だからペンテコステは聖霊による新しい人間の創造物語でもあります。人はキリストに出会い捉えられて以前と全く違う人間になります。ある人は一晩で、ある人は長い葛藤の中に投げ込まれ、そして聖霊のバプテスマが訪れます。それがいつであるのか、どのようにしてかは誰にも分かりません。天地創造のようにです。 方向性を失っている人生に世界に、突然「光あれ」と神の宣言が響きます。しかし聴く人は少数で、手段は秘密にされています。 数千年前の表現ですが、科学的な視点で読んでも真理だなーとつくづく思います。今日は、この大きな絵本や児童向けの聖書を用意しました。 レギーネ・シントラーさん、脇田晶子さん、中村妙子さんの作品です。何度も読み返してました。女性として母親として我が子に、見えない世界を愛情と信仰と希望で語っています。それでは、中村妙子さんの「創世記ものがたり」から一部を朗読してメッセージを終わります。 さて、六日目のことです。神さまは天と地をつくづく見まわされました。かがやく太陽、みどりの木、うれしそうにあそぶものたち、ぴちぴちおよいでいる魚たち。
「ああ、よくできたな」神さまはまんぞくそうににっこりなさいました。でもまだ、なにかものたりないようです。
「この地の上に、わたしのよろこびをよろこびとし、わたしの心を知ってくれるものがいたら、どんなにいいだろう。わたしのことばにこたえてくれる声がきこえたら、どんなにうれしかろう」そこで神さまは、人間をつくろうと、決心なさったのでした。
神さまは人間を、ごじぶんのすがたににせておつくりになりました。人間にはライオンや、とらのようなきばも、わしや。たかのようなつばさもありませんでした。
人間は、土でできた、もろい、かよわい生きものでした。けれども、神さまはこの土をとくべつにえらび、ごじぶんの命の息をふきいれてくださったのです。
「空の鳥、海の魚、けもの、虫、草木、わたしはすべてをおまえにまかせよう。かしこく地をおさめるがよい」神さまはこうおっしゃいました。 祈ります。わたしたちの世界は恐れと不安で押しつぶされそうです。あなたは「光あれ」の一言で無から有を創り出されました。新しい秩序を与えて下さい。私たちを聖霊で包んで新しく生まれさせて下さい。聖霊の力に包まれて、家族のもとに、この世に送り出して下さい。主イエスキリストの名によって祈ります。アーメン
2020.5.24 神は言われた。光あれ
今朝は「新しく生まれる」ということを考えてみたいと思います。
昨年の1月から2月にかけて毎朝のように日の出前の東の空を見上げていました。木星と金星と土星とさそり座の赤いアンタレスが一望でき、毎朝それらがお互いの位置を変えていくのを見ていると不思議な思いに満たされるのでした。ずいぶん前、深夜に豊田市からの帰路、真っ暗な山道で吸い込まれるような天の川を見た時は、車を止めて放心状態になりました。今は南の空で火星と木星と土星が一望できる時期ですし、まさに今日24日は日の入り直後に金星と水星と細い三日月が西の空に三角形になって見えるはずです。
皆さん最近、夜空を見上げることがありますか。大人になると幼い時の感動や不思議さが薄れてしまいがちです。中途半端な知識が邪魔をして、不思議さを感じる心を失ってはいないでしょうか。
来週は聖霊降臨日・ペンテコステですから、天地創造の物語から聖霊について考えてみましょう。
創世記を旧約の福音書と呼ぶ人もいます。わたしもそう思います。1章から11章までは、無から有が生まれる太古の創造物語で、アブラムの生い立ちで終わっています。12章からはイスラエルの族長、つまり聖書の民の誕生物語です。この50章におよぶ物語を貫いている確信は神の愛と赦しです。つまりご自分が造った存在に対して徹底的に関わろうとする意思、忍耐強い思いを証言しているのです。
ヨハネ福音書の書き出しは創世記にそっくりです。「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。万物は言葉によって成った。」ヨハネ福音書の言葉は言語としての言葉ではなくて、思いとか意思とか秩序を意味する「ロゴス」という表現です。
ところで、最初に「天を見上げる」というわたしの話をしましたが、普通の人にとって「天を見上げる」というのは、ちょっとしたきっかけだと思います。見ようとして見上げたのではなく、ふと視界に光るものが見えた。何だろう?と思った。「気づき」ではないでしょうか。
アブラハムは深い悩みの中で、「天を見上げて星の数を数えよ」と神の言葉を聴きました。天の川を数えられるはずはありません。その時、ふと気づいたのです。「神さまが約束されたのだから、うそがあるはずはない。今ではないが必ず約束の時は来る」深い心の闇の中に光が差し込みました。天を見上げることは神の悠久の不思議さに引き込まれるようなものです。自分の考えがちっぽけだと分かるときです。そして、神の思いを知りたい、神の計画へ導かれたいという、人間としての本物の目標が生まれる時なのではないでしょうか。
創世記を読んでみます。「はじめに、神は天地を創造された。地は混沌であって闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」
主の祈りで「天にまします」という時、天とは、創造主が完全に支配している領域、王国のことです。そして「我らの日用の糧を」という領域は不完全でお互いに争っている領域です。だから「天になるごとく」は神の支配が我らの地上世界を完全に包み込んで平和になるというイエスさまの信仰であり、そう祈る私たちの究極の希望なのです。
はじめに神は天と地を造られた。しかし、地は混沌とし、水で覆われ、闇が深い溝を埋め尽くし、茫漠として価値あるものはなかった。その世界で、水の面を神の霊が動いていた。何とも奇妙な表現です。しかし、これは神の霊(聖霊)が神の言葉(命令)を待っている姿です。
「光あれ」ここで光は明るさや暖かさをもたらす太陽の光のようでもありますが、闇に光がさすとき、絶望に希望が生まれ、混乱に秩序が生まれ、争いに平和が訪れる時にも、光が差すと表現します。
光の性質はこうです。昔の家では朝になると雨戸の隙間や節穴から一条の光が差し込みました。経験的に分かることです。しかし光の中に闇の一筋を通すことは不可能です。また、光は方向を示します。ヨハネは証言しています。「光は闇の中で輝いている」人間世界はどこに向かうべきか、イエスキリストの到来を示しています。
光を生んだのは「神の言葉」でした。ヨハネ福音書と調和します。
創造主である神は光を見て「それで良い」と喜ばれました。
地は光によって照らされ、闇の領域と光の領域に二分されます。それで闇を夜と名付け、光を昼と名付けられました。夕があり朝があった。面白い表現です。日本語に朝夕という言い方はありますが、夕朝とは決して言いません。聖書の民は、一日は夜から始まるのだと知りました。夜は神が働かれる世界で、昼は人間や命あるものが活動する世界であると発見したのです。人間にとって夜は闇です。不可能が待ち伏せしている不安な世界です。一度目をつぶったら再び起きられないかも知れません。しかし、信じる人に朝はきます。
このように神の言葉によって、まず光が生まれ、夕があり、朝があり第1日と呼ばれました。そして神は再び言われました。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」第2日です。第3日は地上に植物が生まれます。種を持ち実を結ぶ草と木です。非常に単純な話ですが、命が連綿と続いていく様子を活き活きと表している表現です。
さて、先週の木曜日は昇天日でした。イエスはこの世界に残こしていく弟子たちに「高いところからの力に覆われるまでは都に留まっていなさい」と命じられました。それから10日後に突然、聖霊が一人一人の上に現れたのがペンテコステです。
上からの力こそ、聖霊です。そして創世記で混沌とした天地に命の光を呼び出した神の言葉を思い起こします。
「光あれ」この一言がすべての始まりです。私たちは何のために生まれたのか、なぜ聖書を読むのか、どこへ行こうとしているのか。
光であるキリストが送って下さる聖霊によって日々示されるのです。


2019年1月17日
午前6時12分47秒
村井北から高ボッチ方面(南東)

1月17日6時12分
木星は左下に
1月23日6時12分
木星が右上に上昇
1月26日6時06分
3つがほぼ水平に
日の出は6時30分頃だが松本では
山影で7時過ぎ
2020.5.17 彼は彼、あなたは私に従いなさい
今朝は「神と私」ということを御言葉から考えてみたいと思います。
ペトロは「あなたは私に従いなさい」と命じられました。単純な話です。ここであなたとはペトロ、私とはイエスで、1対1の会話です。浜辺には7人の男がいたのですから「あなたがたは私に従いなさい」と言われる可能性もあったはずです。しかし、この時イエスさまは、ペトロ一人に顔を向け「あなたは私に従いなさい」と言われました。
教会とはイエス・キリストを信じる人の集まりですが、キリストを追い求めて弟子になった人はいないと思います。不思議な導きでキリストを知り、人生のどこかで「わたしについてきなさい」という声を心で受け止め、教会の仲間として「わたしは」ここにいるのです。
しかし「あなたは」と特別に呼ばれた時、おそらく誰も準備は出来ていません。ペトロもそうでした。「あの人はどうなるのですか」と他の人のことが気になって、目をそらしてしまうものです。
ペトロは弟子たちのリーダー格です。教会の伝承によればエルサレム教会を組織し、アンティオキア教会の監督になり、小アジア・現在のトルコ一帯のパウロが開拓した教会を指導し、ローマで殉教したと伝えられています。
一方、ヨハネはペトロの殉教後も長生きをして、迫害の中で離散したり混乱していく教会を見据えて、パトモス島に幽閉された身で黙示録を書いたと言われています。若い時のヨハネとヤコブは雷の子とあだ名されたほど気性が激しい野心家でした。しかしヤコブはエルサレム教会の指導者であるとき12弟子で最初の殉教者になりました。
ヨハネは歳を重ねていくにつれて、一つのことしか言わなくなりました。「子らよ、互いに愛し合いなさい」と。そのため弟子たちはこの教えに飽きてしまい「先生、どうしていつもこれを言われるのですか」と聞きました。するとヨハネは「これは主の命令である。そして、もし、ただこれのみが行われるならば、それで充分である」と答えました。ヨハネは主の愛の戒め以外は忘れてしまったと伝えられています。
新約聖書は弟子のプロフィールや消息を詳しく語りません。むしろ12弟子の中には名前が紹介されているだけでどういう人であったかすら書かれていない人もいます。
しかし、それでいいのです。聖書が主張することは、神はどんなに人間を愛したか、なぜイエスをこの世に送り出したか、イエスは旅をし多くの人に出会い、全く違う環境に生まれ育った人が呼び集められ、神の愛の働き人になったかを伝えるのです。
大事なのは、その時その時にイエスさまの「あなたは、私に従いなさい」という声に応えて決心することなのです。そうすれば人生にかけがえのない意味が与えられるのです。
さて、「わたしと神」に関係して一つの歴史を紹介します。週報に記しましたが、信徒の友には全国17教区から2つの教区が選ばれて、そこの教会のために祈ろうというページがあります。5月号は神奈川教区と東海教区から選ばれ、東海教区では喬木教会と神山教会です。
「神の山」と書いて「こうやま」と読むのですが、静岡県の御殿場にある国立ハンセン病駿河療養所の施設内にある教団の教会です。1951年の7月に設立され、今年で69年周年になります。
この教会に関連する歴史を調べてみると、明治時代まで遡ってフランス人宣教師ドルワール・ド・レゼー神父の名が出てきます。レゼー神父はカトリック教会が運営する神山復生病院の第5代院長でした。この病院は日本で最初に作られたハンセン病の療養所です。
ハンセン病とはライ病の名で数千年前から知られる皮膚病で、皮膚の小さな赤い斑点から始まり抹消神経がやられて感覚がなくなります。やがて肉や骨まで崩れていくので非常に恐れられ、患者は隔離されました。イエスの時代は勿論、日本書記や古事記にも登場しています。
19世紀の終わり頃にノルウェーのハンセン博士によって「らい菌」が発見され、20世紀になると特効薬が開発されて完治する病気になりました。しかし日本では特効薬で完治するにもかかわらず、元患者の強制隔離は続けられ、療養所では断種手術がなされたり、自由を求める行動に対して厳しい罰が与えられたりした歴史があります。
1996年に「らい予防法」が廃止された今でも、元患者の人権の回復も社会復帰への道も険しいままです。故郷に帰ることを阻み、家族に患者がいたことを知られまいとする根深い差別は続いています。
私は医療関係の仕事をしていた時、東京や群馬県の療養所で患者さんを見かけたことがあるし、神学校で学んでいた時期に岡山県の療養所にある教会の礼拝に出席した経験がありましたが、患者さんの人権を真剣に考え関わったたことがありませんでした。
考えて見るとコロナウィルスに感染した人やその家族、治療に関わる病院や医療者への心ない仕打ちは、理解できない対象への恐怖心や、差別の歴史を教えられなかった教育の偏りや、立場の違う人への想像力の欠如がそうさせるのではないでしょうか。
さて、レゼー神父の時代に英語教師になったばかりの22歳の女性がハンセン病と診断されて神山復生病院に入所しました。1919年のことです。その人の名は井深八重さんです。八重は入所させられ悲しみと恐ろしさで心が一杯でしたが、やがて、患者をとても大切にするレゼー神父の生き方を知って共感し、一生懸命に手助けしました。3年後、再検査で誤診と判明します。皆が別れを惜みながらも送りだそうとしましたが、八重はそこに留まって看護婦の資格を取り、生涯にわたって患者に仕えました。遠藤周作の「わたしが捨てた女」のモデルになった人です。
ちなみにソニーの創立者である井深大(まさる)さんは八重の親戚で、障害がある娘さんがいたことで、エンジニアであると同時に障害者が自立でき生きがいを持って働ける会社を立ち上げました。また早稲田大学時代の恩師と共にパラリンピックの普及にも力を注ぎました。
話を元に戻して、神山教会は駿河療養所に入所していた患者さんたちのために2キロほど離れた神山復生病院から神父さんが足を運んでくれて生まれた教会です。その後も宣教師や近隣の牧師が訪問して聖書の学びや聖餐式、礼拝を守ってこられました。
代務者である宮本義弘牧師によると、現在、教会員は4名で、ハンセン病の後遺症のために目も耳も足も不自由になっているけれど、背中に説教題を指で書いてもらい、共に主の祈りを祈り、使徒信条を告白し、聖餐にあずかる礼拝を守っています。十字架の上のキリストが「あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいる」との御声が響き渡っています。「終焉を迎えるまで主日礼拝を守る」ことが皆さんの祈りです。
人間としてこの世に生を受け、初めから身体的に、経済的に、人間関係で重荷を負っている人もいます。順風満帆と思えた人生の中でイエスの内なる声を聞いて別の道を歩み始めた人もいます。そして私は、幼いときから親子で教会に通っていましたが自我の強い子として大きくなり、何度も挫折を味わいながらも、伝道者としての道を示され、遣わされた地で家族を与えられ、信仰の仲間に出会い、毎朝御言葉によって支えられています。
「あなたは私に従いなさい」と言われたイエスは、目には見えない、触れることは出来ないけれども、私たちの心に不思議な暖かいものを注いで下さり、時に間違いを厳しく指摘してくださり、祝福につながる道を選ぶようにさとされます。
祈ります
主よ、生まれながらの重荷も、自ら請け負った大きな責任も、あなたは突き放して一人で負えとは要求なさいません。「わたしはあなたと共にいる」と聖霊の働きを通して励まして下さいます。
わたしを私として正確に理解して下さるあなたにすべてをお委せします。今週も一人一人を養い励まし、あなたの声についていける人にして下さい。コロナの引き起こす災いを恐れないで、あなたを愛し、家族や隣人と共に生きていきます。
主の名によって祈ります。アーメン
2020.5.10 死ぬまで続けなさい
5月第2日曜日は多くの国で母の日として覚えられています。母への感謝としてカーネーションが贈られますが、花言葉は「母の愛情」とか「純粋な愛」と言われています。母の日をネットで調べると、まずプレゼントの情報が沢山出てきます。
しかし、母の日とはもともと、母から娘へ受け継がれた神の愛という遺産から生まれた行事なのです。
人は死んで愛する人々に何を残せるでしょうか。どんな人でも残せる素晴らしい遺産があることを、今朝は考えてみましょう。
母アンはメソジスト教会で20年にわたって日曜学校で教えたので、娘アンナも母のメッセージで育った一人でした。母アンは南北戦争の時、傷病者を敵味方なく看護する会のメンバーで、戦争が終わると和解の働きをしました。1907年5月12日、追悼礼拝でアンナは母の教えを振り返り十戒を紹介し、礼拝堂を飾った白いカーネーションを配りました。これが評判になり、デパートで母の日キャンペーンが流行しました。1913年には青山学院の女性宣教師が紹介しています。
今朝の御言葉は「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」です。これは復活のイエスがペトロ一人に向けて言った言葉です。
少し先週のおさらいをします。場所はガリラヤ湖畔。7人の弟子たちは、どういう訳か、漁師に戻っていて一晩の漁をしました。しかし1匹も獲れません。夜が明けると「舟の右側に網を打ちなさい」という声があり、大量の魚がかかりました。声の主は復活のイエスです。イエスさまは既に岸辺で火をおこし魚をあぶり、パンも用意しておられました。そこに獲れた魚も足して、弟子たちは腹一杯になりました。彼らはこのパンと魚をどんな気持ちで味わったのでしょうか。
「ヨハネの子シモン」とイエスは呼びかけます。ペトロのことです。それはイエスがつけたギリシャ語なまりのあだ名で岩を意味します。イエスさまは彼の目をまっすぐ見て言われたのでしょう。どきっとする場面です。近くにいた6人の仲間にも聞こえたはずです。
本名で呼び捨てにされるのは、親や尊敬する先生から親しみと信頼を込めつつも、厳しい内容を聞かされる時ではないでしょうか。
「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」
なぜそう問われたのか瞬時に分かりました。先生が十字架に付けられた前の晩「わたしの行くところに、あなたは今ついて来ることは出来ないが、後でついてくることになる」と言われた時、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」「たといみんながつまずいても、わたしは躓きません」と力を込めて言ったことは忘れもしません。「あの時、先生について行って死ぬつもりだった。でも俺はつまずいて先生から離れた」わたしがペトロなら色々言い訳を考えます。
けれどもペトロは「わたしが先生を慕っている気持ちは先生が一番ご存じだ」と素直に応じました。そこでイエスは言われました。「わたしの子羊を飼いなさい」と。
けれども、それが3回も続いたのでペトロは悲しくなりました。「鶏が鳴く前に、あなたはわたしを3度知らないと言うだろう」という先生の言葉が本当であったこと、あの時、情けなくてさめざめと泣いたことを思い出したからです。
イエスはそもそも「これと思い定めた人(マルコ3:13)」を弟子にしました。その理由は一つです。イエスが彼らを選んだのです。
教会はこれを結婚にたとえました。結婚関係、人間関係はそれぞれの願いや暗黙の約束から生じます。しかしその約束は不完全で悲惨な結果になることもあります。だからこそイエスとの関係を基準にして、結婚関係、人間関係が導かれていく、そういう順序でないと続きません。
たとえば、連れ合いが真剣に、ある場合には泣きながら「あなたは本当に私を愛しているの」とか「君はぼくを本当に理解しているのか」と言い合う時、やり直したい願望と期待が入り混じっていると思います。もし信頼も希望もないなら「あの時、約束したじゃないか。どうしてしなかったのか。嘘つき」という責任追及、有罪判決のようになるでしょう。イエスはそのようにされません。
イエスは腕利きの大工でした。何を造るにも修復するにも根本からやり方を見極めたことでしょう。その時だけ直ったように見えても、すぐにまた壊れてしまう仕事があります。人間関係もそうです。
かつて、ペトロがそんな事があってはならないとエルサレム行きに反対したとき、イエスは「退け、サタン」と激しく言い放ちました。
今回は仲間の聞いている場で、一番親しい名前で呼びかけ「シモン、わたしを愛しているか」と3度も念を押すように聞いたのです。情けなさと悲しみが伴います。自分に絶望して初めて悟ることがあります。
このやりとりの背景には、後のペトロの姿が投影されています。何度も生きるか死ぬかの経験をし、何度も不思議な力で救出され、何度も卑怯な態度を指摘され、何度も何度も赦されて立ち直り、最後にはローマで大勢の信徒をまとめる立場になりました。その時に必要な真理が、この岸辺で与えられた「愛と赦し」の原則でした。
生まれも育ちも環境も全く違う人々が一つになるための原則です。一番初めに世に出たイエス物語はマルコ福音書ですが、晩年のペトロは孫のようなマルコをそばに置き、イエスと行動を共にした時期の若気の至りも、思い上がりも、きつく叱られたことも、大失敗したことも包み隠さずに語りました。マルコはその話を活き活きと描きました。
その続きの物語を私たちは生きるのです。命が天に移される時まで「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれている(1ペトロ)」
信仰の稔り、魂の救いを手にして、それをこの世に残していきたい。主は「私を愛しているか」と今も私個人に、私たちに語りかけます。
写真 会堂前に咲く、あじさいと紫蘭
2020.5.3 三度目の召命
今朝、示されたのはイザヤ書42章とヨハネ福音書21の前半です。共通している内容は「召命」。アジア的に言うと「天命」です。「お前の命を使うから差し出せ」というすごい内容です。
召命は vocation ボケ―ションの訳語でvoc [声]とate [生じる]とion [こと]で、神の声が現実を生むという意味です。ヘブル語で言葉を「ダーバル」と言うのですが、それは「出来事」と同じ意味もあり、神の声が現実になるというボケーションと同じです。
さて、召命は使命につながります。まさに神に「召された」私の命(いのち)が、神によって「使われる」命になるのです。
まず旧約の時代ですが、イザヤは暗黒時代に「光とまっすぐな道」があると預言しました。光であり道であるイエス・キリストが到来することを預言しています。ここを新改訳聖書で読んでみます。
「見よ、わたしが支えるわたしの僕、わたしの心が喜ぶわたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に裁きを行う。彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。痛んだ葦を折ることなく、くすぶる灯心を消すこともなく、真実をもって裁きを執り行う。衰えず、くじけることなく、ついには地に裁きを確立する。島々もその教えを待ち望む」とあります。
次にイエスの時代に飛びます。「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と召された人たちはどうなったでしょうか。
21章の最初にある「その後」という一言が気になります。20章の29節のトマスが「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白した直後のことでしょうか。そうではないようです。
弟子たちは「魚を獲る漁師」に戻っていました。ティベリアス湖はガリラヤ湖の別名で、ローマ皇帝ティベリウスに献上された名です。
復活のイエスに会った弟子たちはどこにいたのか、分からないことがあります。マタイ福音書ではイエスは弟子たちに「わたしはあなた方より先にガリラヤに行く。そこで会うであろう」と言われて、ガリラヤの山の上に集まった11人の弟子に伝道の命令を授けています。一方、ルカ福音書は「聖霊の力に覆われるまでは都に留まっていなさい」と言われた弟子たちは、エルサレムに留まり、50日目に聖霊が注がれたのがペンテコステで、エクレシア(集会)の始まりです。
この矛盾しているような記述は、「その後」という時間経過に理由があるのではないかと考えられます。
最初の召命は「わたしに従ってきなさい」とイエスの声に応えて、ある人は漁師をやめ、ある人は律法の教師を、徴税人を、テロリストをやめイエスの後に従いました。そして3年近くイエスと一緒に旅をして、イエスの言葉とわざのすごい力を目の当たりにしました。けれども十字架は彼らの信念を吹き飛ばてしまいました。
二度目の召命は、部屋の戸を閉め切っておびえていた弟子たちの真ん中にイエスが立った時です。「あなたがたに平和があるように。聖霊を受けよ、罪の赦しの福音を宣べ伝えよ」と送り出されました。
50日後、聖霊を受けた弟子たちの働きはめざましく、後に教会と言われるエクレシアとなっていきました。男も女も、奴隷も自由人の区別もなく、喜びにあふれて伝道し、仲間が増えていきました。
そして三度目の召命が「ティベリアス」湖畔の出来事です。弟子たちは漁師に戻ってしまい、仲間は7人になっていました。ペトロが「俺は漁に行く」と言うと「俺たちも」と後に従いましたが、網を打っても収穫はなく、あたりはすっかり明るくなってしまいました。
その時、岸辺から声がありました。「子たちよ、何か食べ物はあるのか」と。彼らは「何もない」と答えました。それで「舟の右側に網を打ちなさい。獲れるはずだ」と声がしました。テレビでガリラヤ湖の投網を見たことがあります。2-3メートル離れた水面に網が拡がるように投げるのです。網を打つタイミングによって獲れたり獲れなかったりします。弟子たちは言われる通りに網を打ちました。思いもかけない豊漁です。一人が「あれはイエスさまだ」と気づき、ペトロは大急ぎで上着を羽織り、飛び込んで岸に急ぎました。
岸では火がおこしてあり、魚があぶられ、パンも用意してありました。それでもイエスは彼らの魚を何匹か持ってくるように言われました。
これこそがイエスと弟子の関係です。
第1にイエスは彼らの徒労と空腹を知っていたからこそ「何か獲れたか」ではなくて「何か食べる物があるか」と、まず彼らの状態を気遣われています。
第2に「舟の右に網を打て」これにプロの漁師が素直に応えました。「すべてが益になる」とパウロが言っているように、徒労に思えることもイエスは生かして下さいます。要は素直になれるかどうかです。
第3にイエスが食事を整えておられます。そこに弟子たちの獲物が加えられます。イエスのわざに弟子のわざが参加するイメージです。
第4に「さあ来て、朝の食事をしなさい」食卓はイエスとの交わりの要です。イエスがパンを割かれるとき、天の恵みが分かち合われます。イエスの魚に弟子の魚が加えられ、そして配られます。主の声に応えて働く人は食卓にあずかり、力をつけて今日を生きることが出来ます。
最後に、イエスが死者の中から復活「させられて」後、弟子たちに現れたのは、これで三度目である。
イエスは「これと思った人」を弟子にされます。その基準は私たちには分かりません。しかし、私たちは何度でもイエスに召されます。
神は、イエスはご自分のわざを単独で行われません。人間を用います。
何度でも失敗し落胆して道に迷うかも知れません。しかし、何度でもイエスは弟子の前に現れて「さあ来て、朝の食事をしなさい」と招いて下さる食卓の主なのです。
「ありません」と言えたからこそです。