2023.10/15 目的地は天のふるさと

 今日は礼拝に続いて修養会「老いと教会生活」があります。それでヤコブの最後の日々のやりとりをモデルに、私たちが最後を迎えるときを考えてみます。
 147歳になったヤコブは、世を去るときが近いことを悟り、最愛の息子ヨセフを呼んで「私が死んだらエジプトには葬らないで欲しい。遺骨は必ず、祖父たちが授かった土地へ運び出し、先祖と共に葬って欲しい」と遺言しました。そして「必ずそうする」とヨセフに誓わせました。
 間もなく、ヤコブが床に伏しているとの知らせがあり、ヨセフは息子のマナセとエフライムを連れて枕辺に駆けつけました。
 この時、ヤコブは力を振り絞って体を起こし、ヨセフの二人の息子をもらいたい伝えました。つまり養子にするのです。この時二人はヤコブのそばにいましたが、目がかすんで見えませんでした。それで「これは誰だ」と尋ねます。ヨセフは「これが神がこの地で授けて下さった、私の息子たちです」と答えました。
 この状況、最近ではとても珍しい、実現が難しい看取りの場面です。病院で色々な機械やチューブにつながれたまま「ご臨終です」と言われるのではなく、ヤコブのように家族に囲まれ、感謝の言葉と希望の証しをするチャンスが欲しいなーと、思うような年齢になりました。
 こうして目がかすんだヤコブは、孫を膝の間にかかえて口づけし、抱きしめました。ヤコブはしみじみと、自分の歩んできた道を振り返りました。
 「お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、何と、神はお前の息子たちをも見させて下さった」と。聖書はこの場面を「イスラエルはヨセフに言った」とあります。
 ヨセフは父の言葉と自分の人生と重ねて思い巡らしていたかも知れません。なぜなら、この親子はとても似た性格の持ち、似たような境遇を歩みました。
 振り返るとヤコブは若い頃、老いて目がかすんでいた父イサクを欺して兄エサウから長子の特権を横取りしました。これを知ったエサウは弟の命を奪うほどに腹を立て、ヤコブは故郷を追われる身になりました。
 旅の途上で夢を見ました。天まで伸びている梯子を天使が上り下りしているのです。そこに神が現れて言いました。「私はお前の父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。見よ、私はお前と共にいる。お前がどこに行っても、わたしはお前を守り、必ず父祖の地に連れ帰る。この約束は必ず果たされ、決してお前を見捨てることはない」と。
 目がさめたヤコブは「ここは何と畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家だ。ここは天の門だ」と叫んで、枕にしていた石を記念碑として立て、先端に油を注ぎ、その場所をベテル(神の家)と呼びました。
 寄留した叔父ラバンの家では、ひどい扱いを受けました。しかし、そこで叔父の娘レアとラケルと家庭を持ち12人の息子と一人の娘を授かります。こうして20年も叔父にこき使われますが、持ち前の知恵によって立ち回り財産を蓄え、全財産と家族を携えて遠い故郷に帰ろうとしたのです。
 そして、あのベテルまで来たとき、何と再び、神が現れて告げました。
「お前の名はヤコブである。しかし、今からイスラエルと呼ばれる」と。
ヤコブとは「神は守って下さる」という意味でしたが、彼の若いときの行状から「人の足をひっぱる狡猾」という意味が加わりました。そして、新しい名イスラエルとは「神と闘うとか、神と共に支配する」という意味になりました。
「私は全能の神である。産めよ増えよ。お前から多くの民の群れが起こり、お前の腰から王たちが出る。わたしはアブラハムとイサクに与えた土地をお前に与える。それはお前に続く子孫も同じだ」と。驚きと希望を抱いたのも束の間、故郷を目前に、愛する妻ラケルは難産で死んでしまいました。
 それから十数年後、穏やかな日々が突然、悩みの日に変わりました。ラケルが産んだ子ヨセフが行方不明になってしまったのです。兄たちは、野獣に食われてしまったと父ヤコブに報告しましたが、それは真っ赤な嘘でした。父の好意を独り占めにしていた弟への妬みがありエジプトに売り飛ばしたのです。
 面白いことに、若い頃のヤコブもヨセフも、野心家であり、苦境にあっても知恵で立ち向かえる逞しい人物ですが、信仰面では「神を利用する」タイプでした。けれども神はそのような人を選び、苦しめて訓練し、性格も信仰も作り替えて、特別な使命を与え、祝福を与える人にされたのです。
 それだけではありません。妬みと偽りでバラバラだった家族を再び一つにして下さいました。ヨセフは兄たちに言いました。「もう、私を奴隷として売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために神は私をお兄さんたちより先にエジプトにお遣わしになったのです。わたしが異国に連れて来られたのは、神の大いなる救いのためなのです」
 話しを元に戻します。ヤコブは両手を伸ばして二人の孫の頭に手を置き、ヨセフを祝福します。この場面を新改訳で読んでみます。
「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。
今日の今日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ。
すべての禍から私を贖われた御使が、この子供たちを祝福して下さるように。私の名が先祖アブラハムとイサクの名と共に、彼らの内に受け継がれますように。また、彼らの地のただ中で、豊かに増えますように」
 以上が旧約時代の祝福ですが、新約時代になると祝福は、イエス・キリストの十字架による罪の赦しと復活の命を信じるという信仰によって、民族や立場を超えて拡大されました。再び新改訳で読みます。
「これらの人たちは皆、信仰の人として死にました。約束のものを手にいれることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。このように言っている人たちは、自分の故郷(ふるさと)を求めていることを明らかにしています。もし、彼らが思っていたのが、出てきた故郷だったのなら、帰る機会はあったでしょう。しかし、実際に彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」
 天の故郷(ふるさと)に向かう旅とは何でしょう。原文では天にある市民権を、あたかも地上で手に入れたかのように喜ぶ人々を表現しています。
 この世では寄留者でありよそ者に過ぎませんと宣言する人を、神は喜んで迎えて下さいます。そのように神に向かって歩む人は、ヤコブやヨセフのように思いがけない試練に翻弄されることもありますが、その中で導かれ、思わぬ出会いによって、生まれながらの性質を徐々に打ち砕かれ、この世から神のご支配の方に買い戻されるのです。ヤコブはヨセフの二人の息子を養子にしていますが、キリストを信じて生きる決心のバプテスマは、それまでの人生に区切りを付け、神の養子とされ、つまり神の子とされて、十字架のイエス・キリストを兄として生きる恵みへ入れられていくのです。
 こうして、互いに励まし合い、遙かに目的地を見定めるという信仰を抱きながら子や孫を祝福し、神の家族に連なる人に宝を相続させ、体一つになって平安のうちに、命の息を神さまにお返しします。
 どんなに優秀な人にも、信仰の篤い人にも、自分の力ではどうすることもできないのが命と死の問題です。ただ、イエス・キリストの送って下さる聖霊の働きに身を委ねる人において、無償で実現するのです。