10月20日 主日礼拝のご案内(聖霊降臨節第19主日)

10:35~11:40        *10:15~10:30 子供の礼拝

招詞:マルコによる福音書10章14節

 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはいけない。神の国はこのような者たちのものである。」

聖書:創世記15章1~8節

 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。私に何をくださるというのですか。私には子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐことのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の儀と認められた。 主は言われた。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」

   ローマ人への手紙9章6~18節

 ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫とみなされるのです。約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。それだけではなく、リベカが一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、良いことも悪いこともしてないのに、「兄は弟に仕えるだろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。 では、そういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思うものを憐れみ、慈しもうと思うものを慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。 このように、神はご自分が憐れみたいと思うものを憐れみ、かたくなにしたいと思うものをかたくなにされるのです。

讃美歌:子どもさんびか34④番、讃美歌21ー19番、202番、564番

説教題:神の言葉を出来事から知る

説教:島津牧師

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