2015.7/12 今日、救いがこの家を訪れた。

◆(ヨエル書2:12-14、ルカ19:1-10)
今日こそ、この家に救いがきた。なぜなら、彼もまたアブラハムの子だからだ。
実に、(人の子は)失われたものを探し、救うために来たのだ。(岩波訳:19:9-10)

 「救われた」と誰でも一回はつぶやいた覚えがあるでしょう。ほとほと困った時に助けられた経験のことばだからです。
 「救いが来た」は実に不自然な表現ですが、人生の「救い」は向こうからやってくるからです。人格的な出会いや出来事の場合もあります。本物の幸せを知らなかったザアカイに「救いが来た日」の話です。
 7月第2主日を日本基督教団は「部落解放の日」と定めて40年が過ぎましたが、教会では余り知られず、部落差別は身近にあり、日陰でしぶとくはびこっています。
 野中広務(ひろむ)という政治家がいます。自民党の重責を歴任した実力者ですが、若いときから部落出身を公言して生きてきました。「差別と日本人」という本で、在日韓国人の辛淑玉(しん・すご)さんとの対談は心を打たれます。激しい差別の中で懸命に生きてきた二人の生々しい歴史がユーモアたっぷりに語られます。彼は中学2年の時、級友が後ろで「あいつは部落の人間だよ」と囁くのを聞いて、初めて出自を知り「何くそ」と自分を意識して頑張ったそうです。決定的なのは「何であいつだけが出世するんだ」という職場の年長者の愚痴に「ここでは飛ぶ鳥落とす勢いだけど、地元に帰ったら部落の人」と心血注いで世話した同郷の後輩が陰口を言ったことでした。職場を去り郷里で町会議員に立候補。町長になって部落出身を逆手にとり同和事業を独占していた業者と対決。「そんなことしていては部落差別は無くならない」「差別された者こそ真面目に生きねば」という信念は78歳で政界を引退し、90歳になっても。
 イエスはエルサレムへ向かう途中、エリコに入り「通過しようと」していました。ところが、この町の外(18:35-43)と内で事件が起こります。失明した物乞いと金持ちの身の上に。さてザアカイは、イエスがどんな人か見ようとしますが背が低くてかないません。そこで木に登って待ち構えました。イエスは「そこを通り過ぎる」はずでしたが、ザアカイの真下(アンダースタンド(understand)に来ると、見上げて「今日はあなたの家に泊まる」と言われます。この日まで「何くそ」とお金に執着して身を立てていたザアカイは「失われた人」でした。しかしイエスを迎えた日、彼は本心に立ち返り、無一文になるほどの決心をします。それが「救いのおとずれ」です。そして「この人も、アブラハムの子」と呼ばれて、本来の名「純夫、正、義男」を回復したのです。

2015.7/5 神を讃美するために 

◆(列王記下5:15-19a、ルカによる福音書17:11-19)
さて、彼らの内の一人は、自分が癒やされたのを見て、大きな声で神を讃美しながら戻って来た。そして顔を(大地につけて)イエスの足下にひれ伏し、彼に感謝するのであった。しかし、彼はサマリア人であった。(岩波訳:ルカ福音書17:15-16)

「イエスさまー。先生ー。私たちの苦しみを分かって下さーい。」
「キリエ(主)・エレイソン(憐れみたまえ)」は、自分の罪に苦しみ、解放を心から願う人々の讃美です。
 「らい病」と訳されたレプラとかツァラアトは古代から世界中にあった病気で、激しい差別を生みました。これらは必ずしも「らい病」を意味するものではないので新共同訳では「重い皮膚病(王下5:1)」と改めています。一般的に「ハンセン(氏)病」と呼ばれます。
 奈良時代から「白癩びゃくらい」として忌み嫌われ、明治時代に入ると「無らい運動」と称して、患者を見つけ出し隔離する政策が徹底され、無数の家族が引き裂かれるという悲しい歴史を生みました。
 1941年に特効薬のプロミンが開発され、1960年代には治療法が確立していたのに「らい予防法」による隔離は続けられます。1996年にようやく廃止されて「ハンセン病を正しく理解する日」が制定されますが、現状はほとんど変わりません。ついに国の責任を明らかにし賠償を求める訴えが熊本でなされました。2001年に裁判所は訴えを全面的に認め、国は控訴を断念しました。当時の小泉首相、坂口厚労大臣が謝罪したことは記憶に新しいのではないでしょうか。それでもなお容易に故郷に帰ることの出来ない現実があるのです。
 イエスの時代もこの病気の人は、山間地に隔離され、接触を禁止され「私たちはケガレた者です」と遠くから叫ばなければなりませんでした。しかし、イエスは人々が恐れる「ケガレ」など気にも留めず、沢山の人に触れて癒やされ(5,7章)ています。
 17章は、イエスが十字架を覚悟してエルサレムへ向かう途上で起こった出来事です。10人のらい病人がイエスに「出会った」とあります。掟通り、遠くから、それでも必死で「イエスよ、憐れみたまえ」と叫びました。イエスは彼らを見て「行け。見せよ。その身を祭司に」と命じただけでした。言葉だけ?と思ったかも知れません。にもかかわらず彼らはすぐに出発しました。その10人は、途中で皮膚が清くされたことを感じてどんなに驚いたことでしょう。先を急ぎ祭司に体を見せ「完治した」と診断されれば、村へ帰ることが許されます。
 ところが、ここに例外的な一人がいました。清くされたことを感知すると、とてつもない大声で神を讃美しながら戻って来ました。そしてイエスの足下にひれ伏し感謝を表しました。イエスは他の9人はどこへ行ったのか、と問いかける一方で、この一人を祝福しました。この人はユダヤ人から軽蔑されていたサマリヤ人でした。
 この出来事は礼拝者の姿を示しています。神はいつでも苦しむ人の叫びに耳を傾けておられ、一番良いときに叶えておられるのですが、それが叶うとたちまち神を忘れてしまうのが人の罪深さ・さがです。感謝と讃美をたずさえて、繰り返しイエスのもとに返ってくる人への恵みは違います。
 主イエスが「立って(復活の意)、行け(この世へ)。あなたの信仰が、あなたを救い続ける」と宣言されました。単に病気が治っただけでは本当の社会復帰は出来ません。神に愛されているという希望と確信が宿ってこそ、人は名誉を回復し、この世の荒波にも立ち向かう人にされるのです。その姿が、神の栄光を輝かせる讃美と礼拝です。

2015.6/28 新しく見えてくること 教会創立記念日

(ヨブ記42:1-6、使徒9:19b-22)
 サウロは数日の間、ダマスコにいる弟子たちと共にいて、すぐに諸会堂で、イエスのことを「この方こそ神の子である」と宣べ伝えた。これを聞いた人々は皆あっけにとられた。(岩波訳 9:19b-22から)
 きょう、私たちは教会創立24周年を迎え、幼子からお年寄りまで神の家族として礼拝しています。血のつながらない人々が神に招かれて家族となれたことは奇跡です。
 もし、ある時代にある人が「神のことばに圧倒されて」人生が変わらなかったなら、松本教会も筑摩野教会もなかったに違いありません。その一人はサウロであり、名も知られない一人のクリスチャンであり、宣教師であり、私たち一人一人なのです。
 バプテスマを受けたサウロは、聖霊に満たされて新しい人になりました。あれほど激しくイエスを否定し、信じる人を憎んだのに、自分がイエスに赦されたことを肌で感じました。アナニヤやダマスコの信者たちが「兄弟」として接してくれたからです。
 これまで誰よりも熱心に神の命令を守り、神に逆らう人を許さず、氏素性にプライドをもっていたサウロでしたが、どこかで神を恐れていました。律法違反や神に罰せられることはないかと。監視の目を自分にも向けていたサウロは、悔い改めて罪を赦された(神の愛に戻る)ことが、どんなに素晴らしいか、はっきり分かったのです。
 神の赦しを確信したサウロは早速、安息日(土曜)に会堂へ出かけて証をしました。「イエスさまは、こんな私をすっかり赦して下さった。この方こそ、神の子です」と。
 面食らったのは居合わせたユダヤ人です。「あの男は、つい先頃までイエスを呪い、信者たちを捕まえるのにやっきになっていた張本人ではないか。それが手のひらを返したように、イエスが救い主だと論じている」
 しかし、幼いときからしっかりと聖書を学び、ガマリエル門下生として修行したサウロの話には説得力がありました。素直に聞く人にはサウロの話は、真実だと分かったのです。
 けれどもサウロは古い仲間にとって裏切り者になったのです。サウロの伝道は苦労の連続でした。行く先々で彼の証を受け入れて救われる人がある一方で、どこまでも自分たちの言い伝えや伝統に縛られてサウロを殺そうとする勢力がいました。
 「私の名のためにどんなに苦しまなければならないか」とイエスさまは常にそばにいてパウロとくびきを担ったのです。
 けれども、神の言葉は閉じ込められたりしません。自由な霊はサウロに力を与え、世界中に伝道者を送り出し。そして日本にも、この松本にも、そして私たちに。

 140年程前、一青年が横浜に出て行きました。彼はアメリカの宣教師に出会い、福音を伝えられて入信します。松本に来て聖書販売のかたわら伝道を始めました。
 明治初期のキリスト教週刊雑誌「七一雑報」に「(**)河邨天授、コルレルの講義を聴く。・・・・大いに感発し・・・・志を抱いて松本に帰り・・・・」そのコーレル宣教師の報告書には「私の横浜のバイブルクラスのメンバーで、先ごろ郷里の信州松本に帰った男(**)から、1877年の初秋、手紙が届き、松本に来てほしいと懇願された。故郷で伝道を試みたが自分の非力を感じ、応援を求めた。」とあります。(**)は、ある記録には長沢弥左衛門、別の記録には原田弥右衛門、1926年の教会報には長沢弥右衛門。(**)本当は誰?
 「七一雑報」にある河邨天授こそ、1878年創立の松本教会で初代牧師となった人です。
 私たちも、いま教会に来て礼拝している。イエスを主と信じるようにされた。でも、最初にイエスさまを紹介してくれたのは誰?最初に教会へ誘ってくれたのは誰?最初に私のために祈ってくれたのは誰?かけがえのない、その一人の人が誰だったのか正確に思い出せない人は多いのではないでしょうか。

 私たちの伝道所は、それから百年後の1978年、松本市南部への伝道が幻として与えられた松本教会が、13年間も北原町でクリスマス会、子ども会や聖書を読む会を続けて、ついに、1991年4月に12人の信徒が志願して最初の会員になり、礼拝が始まったのです。
 聖霊の風が吹いています。心の窓を開いて、イエスさまの聖霊を迎え入れましょう。

2015.6/21 見えなくされ、見えるようになる

(ヨブ記38:1-6、使徒言行録9:10-19a)
 「兄弟サウロよ、主がわたしを遣わされたのです。あなたがここに来る途上で、あなたに現れた、あのイエスが。それは、あなたが再び見えるようになり、また聖霊に満たされるためなのです。(岩波訳 使徒言行録9:10-19a)
 「あなたの敵を愛しなさい」主イエスの生き方、従う人への命令です。しかしアナニアは訴えます。「主よ、私はこの男について多くの人から聞きました。彼がエルサレムであなたの聖徒たちにどんな害を加えたか」それでも主は命じます。「行け」と。
 17日の夜、米南部チャールストンの黒人教会で起きた悲劇。21歳の誕生日に父からプレゼントされたピストルで、聖書を学んでいた牧師と信徒9名を撃ち殺した白人。19日の裁判では「あなたを赦します」と何人かの遺族が呼びかけました。信仰なしには「美談・茶番」に映るかも知れません。肉親を無残に殺されて犯人を赦せるものでしょうか。ある遺族は「神が彼を救済することを願う」とも言っていました。
 ヘイトクライム(憎悪犯罪)は感染力の強い病気です。相手への恐れと不安な心が虚言と憎しみの連鎖を引き起こします。始末が悪いことに「自分は正しいことをしている」という確信犯なのです。「愛は多くの罪を覆う(1ペトロ4:8)」と示されているように「信仰による赦し」だけが、傷ついた双方の魂を癒やす可能性を持っています。
 さて、すでに仲間のユダはサウロたちを家に迎えていました。アナニアは着くやいなや「兄弟サウル、主イエスが私をよこしました。見えるようになり聖霊を受けよ」と手を置いて祈りました。するとサウロの「目から鱗」のようなものが落ちました。
 目から鱗の喩えはここからきています。ものの見方が正反対になって得る認識です。サウロは強い光に打たれ伏し、見えなくなり、絶望の中でもがき祈りました。誰よりも律法に従い、誰よりも正(義)しい人間として神に認められるはずが、なぜこんな目に遭うのか。三日間、神は答えてくれませんでした。しかしアナニヤはこうも言ったのです。「私たちの先祖の神が、お前を選んだのだ。それは御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせ、証人となるためだ。(22:14-16)」と。
 家柄、教育、律法遵守の熱心さを自負していた頃のサウロ(22:3-5)は、イエスに従えなかった真面目な金持ち(ルカ18:18-30)と似ています。あれもこれも持っているし守っている。なのに決定的な何かが足りないという不安。あるいは反対に「あの人にはあれもこれもあるのに、どうして私には何もないのか」という不満。
 そのような「足りない、情けない」という不安や不満は、立場の違う人への敵意となりやすいのです。「目から鱗」の経験が思いがけないところに用意されています。
 子どものような心で神の国を求めて招きに応える。これなら家柄も教育も健康にも関係なく、神の子になれるのです。

2015.6/14 子どもも大人も一緒に

(サムエル記上3:1-9、マルコ10:13-16)
 「アーメン、あなたたちに言う。神の王国を子どもが受け取るように受け取らない者は、決してその中に入ることはない。」 そして彼(イエス)は、子どもたちを両腕に抱きかかえたあと、彼らに両手を置いて深く祝福する。(岩波訳 使徒言行録9:15-16)
 6月第2日曜を「花の日・こどもの日」として守っています。母の日と同様に北米の宣教師によって伝えられた意義ある行事ですが、最近はあまり知られていません。
 誰にでも「子ども時代」があります。赤ちゃん、乳児、幼児、少年時代色々ですが、大人になって思い出せるのは、せいぜい物心ついてからの出来事かも知れません。
 しかし、思い出せない時期の毎日の経験こそ、大切ではないでしょうか。家族とどのように過ごし、褒められたり叱られたり、笑ったり泣いたりしたか。反対に親の考えや都合に振り回されて、自由に遊べなかったり放置(ネグレクト)されたり。
 150年程前、米国東部のメソヂスト教会で、会堂を花で飾って子どもを真ん中に迎えた祝福礼拝を始めました。親には神の恵みと戒めの下で養育するよう勧めたのです。
 その頃、ヨーロッパもアメリカも経済成長のまっさ中で、子どもが働き手として期待され、家族が一緒にいる時間は失われ、信仰を軽んじる風潮が拡がっていました。
 イエスの時代も、子どもの立場は今とそんなに違わなかったようです。男に生まれるか、女に生まれるかは決定的でした。さらに職業の違いや貧富の差、健康か病気か、神の掟を守っているか守っていない(守る余裕がない)か。
 イエスは村々を回りながら、毎日のように病気を癒やし、教え、忙しい毎日でした。ある日、子どもを連れた人々がイエスの周りに集まってきました。父親や母親たちはわが子のために、手を置いて祈って欲しいと願ったのです。
 手を置くという動作は、神さまの恵みがあるようにという祝福のしるしです。次から次へと親子が近づいてきて大変なさわぎです。
 これを見た弟子は、この人たちを追い払い始めました。
「先生はお疲れだ。お前たちにかまっている暇はない」と考えたのでしょう。その時、大きな声がしました。イエスさまが本気で怒ったのです。
 「この子たちを私のところに来るままにさせておけ。邪魔をするな。なぜなら、神の王国はこのような者たちのものだからだ」
 ひどく叱られて、本当にびっくりした弟子たちですが、この出来事は忘れられない記憶になりました。イエスの懐に真っ直ぐに飛び込む、子どものような、この親子のような求めをイエスは喜ばれます。今日も一緒に祝福を求めましょう。

2015.6/7 古いものが壊れるとき

(エレミヤ書18:1-6、使徒言行録9:1-9) 

 サウロは立ち上がって、目を開けたが、何も見えなくなっていた。同行の人たちが、彼の手を引いて、ダマスコまで連れて行った。サウロは見えないまま三日間、食べも飲みもしなかった。(本田哲郎訳:使徒言行録9:8-9) 

 一人の青年がいました。「サウロはステファノの殺害に賛成し・・・サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢へ送り(8:1-3)」「サウロは、なおも主の弟子たちを脅迫し殺そうと・・ この道に従う者を見つけ出したら男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行する(9:1-2)」ひどい人物の印象を受けます。 

 ステファノが怒り狂う民衆に殺された時、サウロは乱暴者の脱ぎ捨てた上着の番をしていました。先祖から伝えられた信仰を純粋に信じて、何よりも神殿と律法を大事にしてきたサウロにとって、勢いを増して各地に拡がった「ナザレのイエス派」の教えは、人々の心を惑わす危険な教えだと考えていました。「木に架けられて」呪われたイエスを「神の子」だの「救い主」だのと宣伝されることに我慢がならず、何よりも神を汚す教えとして、叩きつぶさねばならないと使命感に燃えていたのです。 

 エルサレムから逃げ出した信者たちが、サマリアよりもっと遠い(230㎞)ダマスコで増えていると聞いたサウロは、信者を逮捕し連行する役を買って出て、逮捕状を持って、血気さかんな仲間と一緒に、ダマスコに向かいました。その途上の出来事です。 

 長い旅も終わりに近づき、もうすぐダマスコ、という時。サウロたちは天からの強烈な光に照らされて地面に叩きつけられました。焼け付く真昼の太陽より何倍もまぶしい光の中で、サウロは不思議な声を聞きました。「サウル(シャーウール)、サウル。なぜわたしを迫害するのか」「そうおっしゃるあなたはどなたですか?」「わたしはあなたが迫害しているイエスだ」信じられない。あのイエスという男は確かに死んだのだから。それとも、よみがえったという噂は本当だったのか。一瞬の間にいろいろと頭を巡りました。その時、仲間にはただ「意味の分からない声」が聞こえただけでした。 

 「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」サウロは地面から立ち上がり、目を開けましたが何も見えません。サウロだけが見えないのです。仲間の手に引かれて、やっとダマスコの町に辿り着きました。それからの3日間は、とても苦しい日々でした。今まで信じてきたことが確かでなくなり、何も食べず何も飲まず、自分の身に起こった出来事を思い巡らしました。かつて目の前で祈りながら死んでいったステファノの最期がまぶたの裏に映りました。自分たちを呪ってはいなかった。かえって「彼らの罪をお赦し下さい」と神に赦しを祈っていたのだと。 

2015.5/31 聖霊がなすままに

(サムエル記下7:1-10、使徒7:44-53)
 交換講壇・波田教会での説教要旨
 先週私たちは、今年のペンテコステを祝いました。祈りの家である教会に集まり、いにしえのペンテコステを思い、一人を救うために神は一人遣わして神の民として受け入れて下さることを学びました。聖霊はペンテコステで初めて登場するのではなく、創造の初めから神の業としてずっと働いておられます。
 モーセの時代(前13世紀頃)人々は「証しの幕屋」に出向いて礼拝し(出エジプト25章以下)ダビデの時代(前10世紀)も「神の箱」は幕屋(テント)の中にありました。
 ダビデは神が未だにテント暮らしでは申し訳ないと立派な神殿を建てる決心をしました。けれども、神はそんなことは望んでいなかったのです。神殿を実現したのはソロモン王でした。
 テント時代と神殿時代の大きな違いが聖書のいたるところに描かれています。宇宙を創造された神は人間の手による「家」に収まるはずはありません。そこは共通しています。
 決定的な違いは、「あって、ある者」「超越的な自由者」である神の前での人間の態度でした。
 モーセ時代も、ダビデ時代も神の前に人間は赤裸々でした。神の命令や意思に逆らうとき、人間は打ちのめされ、滅びの瀬戸際まで追いやられています。そこではじめて悔い改め、最初からやり直す謙虚さがありました。またささげ物をするときにはありったけの感謝を込めてしていました。
 ソロモン王は確かに世界屈指の贅沢な神殿を建てましたが、民の強制徴用と属国からの貢ぎ物によってでした。不思議なことに詩篇はともかく、歴史書に賢者ソロモンが神の前に悔い改めたという場面が見当たりません。
 晩年のソロモン王は意外にも、みじめでした。神自ら二度も現れて信仰に立ち帰るように戒めましたが無駄でした。信仰を受け継がなかったレハブアムはもっと哀れです。父を支えた忠臣の嘆願にもかかわらず、甘やかされ傲慢に育った仲間と共に、王国を分裂と破滅へ向かわせてしまったからです。それが聖霊に逆らうということです。
 今、筑摩野教会は大きな仕事をしようとしています。実質10人前後の会員でその責任を負うことは無謀に思えます。しかし、二月から祈るように導かれ、祈りの中で大きな決心を与えられ、一緒に携わる人が会員以外にも次々と与えられています。
 「恐れるな、小さな群れよ」「求めなさい。そうすれば与えられる」「天の父は求める者には聖霊を与えて下さる」実感です。

2015.5/24 ペンテコステ 喜びにあふれ、旅は続く

(イザヤ書53:11-12、使徒言行録8:32-40)
 ふたりが水から上がると、主の霊はフィリポをよそへ連れ去った。
 宦官はフィリポを見失ったが、喜ばしい気持ちで旅を続けた。
(本田哲郎訳:使徒言行録8:39)
 イースターから50日目のペンテコステに教会が誕生しました。
 「父の約束を待ちなさい」「まもなく聖霊のバプテスマを受ける」「聖霊が降ると力を受ける」とのイエスの言葉を信じて、母マリアや使徒たち120人もの弟子たちが祈っていると「彼らの上に炎のような舌が一人一人の上に留まり、聖霊によって世界各地の言葉で神のわざを語り出した」のです。(1-2章)
 12人から始まった弟子は劇的に増えて、エルサレムで大きな働きを始めました。ところが、その働きは迫害という予想外の力によって散らされてしまいました。けれどもそれは「あなた方の上に聖霊が降ると、力を受け、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで私の証人となる」の実現だったのです。そして伝わり伝わり、ついに私たちにも届きました。
 さて、フィリポは巡礼帰りのエチオピア人の願いに応えて聖書の意味を説き起こします。この場面はルカ福音書24章13-31節にそっくりです。
 自分の人生や世の中が良くなることを願い、その実現を誰かに期待するものです。しかし、神の思いを除外した期待は見事に裏切られます。エマオへ向かう弟子たちも「まさか、イエスさまが殺されてすべてが元通りになるとは」と失望を背負って歩いていたからです。
 その時、見知らぬ人が近寄ってきて「何の話をしているのですか」と話しかけてきました。そしてモーセから始めてイエスの十字架と復活にいたる聖書の目的を懇切丁寧に教えられました。二人の心は失望から希望へ、心が燃え始めたのでした。
 フィリポの解き明かしによって宦官は、今まで読んできたみことばが、私に向けられ、私を招いている言葉として聞こえてきました。罪を自覚できない人間から誤解され、ののしられながら十字架で死んだ「僕イエス」が、神により復活させられ栄光に入ったことを。罪人はまさに私のこと。イエスの命が取り去られたことはまさに私のためだったと。
 「ここに水があります。バプテスマを受けてもいいですか」
 振り返ると、初めて聖書を手にした日、エルサレムに行きたいとカンダケ女王に申し出た日、毎年巡礼に出かけるものの、神が分からなかった日々がありました。
 そして今日、ついに「私の救い主・イエス」を確信したのです。言われるままに水に入り「父と子と聖霊の名によって」バプテスマを受け水から上がると、いつの間にか先生(フィリポ)の姿が見えなくなっていました。
 聖霊は一人の人を選んでイエスに結びつけ、人生を導き、祝福して下さる働きです。

2015.5/17 誰かが導いてくれなければ

◆(イザヤ書52:13-53:3、使徒言行録8:25-31)
 そこで、霊がフィリポに「行って、あの馬車にぴったりつきなさい」と言った。
 (本田哲郎訳:使徒言行録8:29)
 小鳥の雛がふ化する瞬間にたとえ「啐啄そったく同時」という言葉があります。中国に鏡清禅師という方がいました。弟子が「私は充分に悟りの機が熟しています。今まさに自分の殻を破って悟ろうとしています。どうぞ先生、外からつついて下さい」と言ったところ、「つついてやってもいいが、本当のお前が生まれてくるのか」と。「もし悟れなかったら世間に笑われます」との答えに「この煩悩まみれのタワケ者めが」と一喝されました。禅宗の碧巌録(へきがんろく)にあるエピソードだそうです。
 旧約のコヘレト3章に「すべて定められた時がある」とあります。「良いときも悪いときも」神の手の中にあります。ステファノもフィリポも、迫害の中で神によって導かれ、彼らにしかできない仕事を全うしました。それが天命であり天職でした。
 迫害で追われてサマリアに来たフィリポは、そこでみ言葉の種を蒔き、耕しました。しかし収穫はペトロとヨハネに委せます。
 つぎに「南に向かい、荒れた地へ行け」と聖霊はフィリポに命じます。彼は「すぐさま出発し」エルサレム、ヘブロン、ベエルシェバ、そして地中海に面したガザへの街道を下りました。
 ガザは昔から南の勢力と北の勢力が奪い合った交易の要衝で、その当時、古いガザは荒れ果てていました。
 すると前方に立派な馬車が見えす。聖霊は「行け、あの車を追え」とフィリポを促します。やっと追いつくと聖書の一節が聞こえてきました。イザヤ書の「苦難の僕」のところです。
 馬車にぴったりついて小走りしながら声を掛けます。「読んでいることが分かりますか」「いや、さっぱり。手引きをしてくれるといいんですがね」と声の主。こうして、はるばるエチオピア(現在の南スーダン)からエルサレムへ来たカンダケ王朝の高官は、フィリポを通じて「ついに分かった」という経験をしたのです。
 「すべてに時あり」ギリシャ語でカイロス(時)は、事が成る瞬間を意味します。フィリポと高官は一期一会でしたが、まさに「啐啄」が起こったのです。
 お仕着せの「教え」ではなく、煩悩まみれの「悟り」でもなく、まっすぐな者同士の出会いによって神の「時」が成就する。これこそが聖霊の働きです。
 私にとってフィリポは誰だったのか。教会にとって「宦官:求道者」は誰なのか。
 私たちの人生も、「散らされ」「出会わされ」「適任者に委ね」「すぐに出かけ」「ぴったりついて走り」「臆せずに声をかけ」神の国への道を喜びに溢れて進んでいくのです。

2015.5/10 母はすべて心に留めていた

◆(列王上17:17-24  ルカ2:41-52)
 マリアはこのことを心にとめ、その意味を思い巡らしていた(2:19)
 イエスは言った「わたしを探したとは、どういうことですか。私が父の家にいるはずだと分からなかったのですか。両親にはイエスの言葉の意味が腑に落ちなかった。・・・・
イエスはナザレに行き、両親に従って暮らした。母親はこのことをすべて心に納めていた。
(2:49-51)(本田哲郎訳:ルカによる福音書)

 幼少期のイエスはどんな子だったのか、ルカだけが教えてくれます。12歳になったばかりの少年が、エルサレムのどこに興味をもっていたのか、自分が何者かを確かめたかったことが察せられます。数え切れないほどの羊や牛が次々と殺され、大量の血が溝の中を流れていくの見てどう感じたでしょう。こんなことを天の父は望んでいらっしゃるのだろうか。
 神殿の行事も終わり、ちょっとした時間を見つけて、年配者に律法の質問をしたり、質問されたりしてすっかり夢中になってしまい、約束の時刻を忘れたのかも知れません。
 村人と帰路にあった両親は、次の日イエスがいないのに気づいて引き返しながら、さんざん探して3日後、境内で議論の輪に加わっている息子を見つけたのです。
 マリアは叱ります「勝手なことして、どんなに心配したか分かっているの?」これに生意気な返事をする息子。しかし、マリアの受け取り方がとても興味深い。
 若くて慣れない土地でお産したばかりのマリアは羊飼いたちの不思議な話と体験を「すべて心に納めて思い巡らし」あれから12年。弟や妹の面倒をよく見る長男が、なぜあんな返事をしたのか。「神殿が父の家? いつか分かるはず」と心に納めた。
 わが子イエスを見失う(十字架の上で殺される)、さんざん探し回る(3日間の絶望)、そしてエルサレムで見つかる(復活の主)このエピソードにはキリストのモチーフが重ねられているのか。
 カトリック教会ではマリアは特別な聖人と見られている。キリストと並んで神に祈りをとりつぎ、人々を救う権威が信じられている。
 しかし福音書のマリアはそうではない。招かれた婚礼で葡萄酒が底をつきそうなのを知り、気配りしたマリアが息子に「葡萄酒がなくなりました(何とかして下さい)」と願う。ところが息子は「婦人よ、私と何の関わりがあるのです。わたしの時はまだです」とつれない。この時マリアはイエスに従い信じ切るよう求められている一人の女性なのです。フツウの母親ならばどう対応したでしょう。
 マリアが素晴らしいのは、神からの権威とか、肉親の情や親の権利でもなく、ただ信仰による絆へと導かれ、そして従ったことです。
 主イエスは死の直前「婦人よ、ご覧なさい。あなたの息子です」と弟子のヨハネを信仰の家族として新しく結びつけられたのです。

母の日
 「お母さん、いつも**ありがとう」とカーネーションや贈り物によって感謝を表す行事は大事な遺産です。しかし母の日の本来の精神はどこにあるのでしょうか。
 母の日は110年程前の米国で、亡き母クララ・ジャーヴィスを慕う娘アンナが礼拝堂をカーネーションで一杯にして記念会をしたことが始まりです。母親は26年間も教会学校で子どもたちに神の愛を教えました。特に十戒の第5戒「汝の父と母を敬え」は娘の記憶に深く刻まれ「母さん、信仰を受け継いだことは何よりの贈り物でした」そういう母への感謝が、教会から始まり、花を贈る習慣として商業的に拡がったのです。