2015.6/21 見えなくされ、見えるようになる

(ヨブ記38:1-6、使徒言行録9:10-19a)
 「兄弟サウロよ、主がわたしを遣わされたのです。あなたがここに来る途上で、あなたに現れた、あのイエスが。それは、あなたが再び見えるようになり、また聖霊に満たされるためなのです。(岩波訳 使徒言行録9:10-19a)
 「あなたの敵を愛しなさい」主イエスの生き方、従う人への命令です。しかしアナニアは訴えます。「主よ、私はこの男について多くの人から聞きました。彼がエルサレムであなたの聖徒たちにどんな害を加えたか」それでも主は命じます。「行け」と。
 17日の夜、米南部チャールストンの黒人教会で起きた悲劇。21歳の誕生日に父からプレゼントされたピストルで、聖書を学んでいた牧師と信徒9名を撃ち殺した白人。19日の裁判では「あなたを赦します」と何人かの遺族が呼びかけました。信仰なしには「美談・茶番」に映るかも知れません。肉親を無残に殺されて犯人を赦せるものでしょうか。ある遺族は「神が彼を救済することを願う」とも言っていました。
 ヘイトクライム(憎悪犯罪)は感染力の強い病気です。相手への恐れと不安な心が虚言と憎しみの連鎖を引き起こします。始末が悪いことに「自分は正しいことをしている」という確信犯なのです。「愛は多くの罪を覆う(1ペトロ4:8)」と示されているように「信仰による赦し」だけが、傷ついた双方の魂を癒やす可能性を持っています。
 さて、すでに仲間のユダはサウロたちを家に迎えていました。アナニアは着くやいなや「兄弟サウル、主イエスが私をよこしました。見えるようになり聖霊を受けよ」と手を置いて祈りました。するとサウロの「目から鱗」のようなものが落ちました。
 目から鱗の喩えはここからきています。ものの見方が正反対になって得る認識です。サウロは強い光に打たれ伏し、見えなくなり、絶望の中でもがき祈りました。誰よりも律法に従い、誰よりも正(義)しい人間として神に認められるはずが、なぜこんな目に遭うのか。三日間、神は答えてくれませんでした。しかしアナニヤはこうも言ったのです。「私たちの先祖の神が、お前を選んだのだ。それは御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせ、証人となるためだ。(22:14-16)」と。
 家柄、教育、律法遵守の熱心さを自負していた頃のサウロ(22:3-5)は、イエスに従えなかった真面目な金持ち(ルカ18:18-30)と似ています。あれもこれも持っているし守っている。なのに決定的な何かが足りないという不安。あるいは反対に「あの人にはあれもこれもあるのに、どうして私には何もないのか」という不満。
 そのような「足りない、情けない」という不安や不満は、立場の違う人への敵意となりやすいのです。「目から鱗」の経験が思いがけないところに用意されています。
 子どものような心で神の国を求めて招きに応える。これなら家柄も教育も健康にも関係なく、神の子になれるのです。