2015.7/12 今日、救いがこの家を訪れた。

◆(ヨエル書2:12-14、ルカ19:1-10)
今日こそ、この家に救いがきた。なぜなら、彼もまたアブラハムの子だからだ。
実に、(人の子は)失われたものを探し、救うために来たのだ。(岩波訳:19:9-10)

 「救われた」と誰でも一回はつぶやいた覚えがあるでしょう。ほとほと困った時に助けられた経験のことばだからです。
 「救いが来た」は実に不自然な表現ですが、人生の「救い」は向こうからやってくるからです。人格的な出会いや出来事の場合もあります。本物の幸せを知らなかったザアカイに「救いが来た日」の話です。
 7月第2主日を日本基督教団は「部落解放の日」と定めて40年が過ぎましたが、教会では余り知られず、部落差別は身近にあり、日陰でしぶとくはびこっています。
 野中広務(ひろむ)という政治家がいます。自民党の重責を歴任した実力者ですが、若いときから部落出身を公言して生きてきました。「差別と日本人」という本で、在日韓国人の辛淑玉(しん・すご)さんとの対談は心を打たれます。激しい差別の中で懸命に生きてきた二人の生々しい歴史がユーモアたっぷりに語られます。彼は中学2年の時、級友が後ろで「あいつは部落の人間だよ」と囁くのを聞いて、初めて出自を知り「何くそ」と自分を意識して頑張ったそうです。決定的なのは「何であいつだけが出世するんだ」という職場の年長者の愚痴に「ここでは飛ぶ鳥落とす勢いだけど、地元に帰ったら部落の人」と心血注いで世話した同郷の後輩が陰口を言ったことでした。職場を去り郷里で町会議員に立候補。町長になって部落出身を逆手にとり同和事業を独占していた業者と対決。「そんなことしていては部落差別は無くならない」「差別された者こそ真面目に生きねば」という信念は78歳で政界を引退し、90歳になっても。
 イエスはエルサレムへ向かう途中、エリコに入り「通過しようと」していました。ところが、この町の外(18:35-43)と内で事件が起こります。失明した物乞いと金持ちの身の上に。さてザアカイは、イエスがどんな人か見ようとしますが背が低くてかないません。そこで木に登って待ち構えました。イエスは「そこを通り過ぎる」はずでしたが、ザアカイの真下(アンダースタンド(understand)に来ると、見上げて「今日はあなたの家に泊まる」と言われます。この日まで「何くそ」とお金に執着して身を立てていたザアカイは「失われた人」でした。しかしイエスを迎えた日、彼は本心に立ち返り、無一文になるほどの決心をします。それが「救いのおとずれ」です。そして「この人も、アブラハムの子」と呼ばれて、本来の名「純夫、正、義男」を回復したのです。