2015.5/10 母はすべて心に留めていた

◆(列王上17:17-24  ルカ2:41-52)
 マリアはこのことを心にとめ、その意味を思い巡らしていた(2:19)
 イエスは言った「わたしを探したとは、どういうことですか。私が父の家にいるはずだと分からなかったのですか。両親にはイエスの言葉の意味が腑に落ちなかった。・・・・
イエスはナザレに行き、両親に従って暮らした。母親はこのことをすべて心に納めていた。
(2:49-51)(本田哲郎訳:ルカによる福音書)

 幼少期のイエスはどんな子だったのか、ルカだけが教えてくれます。12歳になったばかりの少年が、エルサレムのどこに興味をもっていたのか、自分が何者かを確かめたかったことが察せられます。数え切れないほどの羊や牛が次々と殺され、大量の血が溝の中を流れていくの見てどう感じたでしょう。こんなことを天の父は望んでいらっしゃるのだろうか。
 神殿の行事も終わり、ちょっとした時間を見つけて、年配者に律法の質問をしたり、質問されたりしてすっかり夢中になってしまい、約束の時刻を忘れたのかも知れません。
 村人と帰路にあった両親は、次の日イエスがいないのに気づいて引き返しながら、さんざん探して3日後、境内で議論の輪に加わっている息子を見つけたのです。
 マリアは叱ります「勝手なことして、どんなに心配したか分かっているの?」これに生意気な返事をする息子。しかし、マリアの受け取り方がとても興味深い。
 若くて慣れない土地でお産したばかりのマリアは羊飼いたちの不思議な話と体験を「すべて心に納めて思い巡らし」あれから12年。弟や妹の面倒をよく見る長男が、なぜあんな返事をしたのか。「神殿が父の家? いつか分かるはず」と心に納めた。
 わが子イエスを見失う(十字架の上で殺される)、さんざん探し回る(3日間の絶望)、そしてエルサレムで見つかる(復活の主)このエピソードにはキリストのモチーフが重ねられているのか。
 カトリック教会ではマリアは特別な聖人と見られている。キリストと並んで神に祈りをとりつぎ、人々を救う権威が信じられている。
 しかし福音書のマリアはそうではない。招かれた婚礼で葡萄酒が底をつきそうなのを知り、気配りしたマリアが息子に「葡萄酒がなくなりました(何とかして下さい)」と願う。ところが息子は「婦人よ、私と何の関わりがあるのです。わたしの時はまだです」とつれない。この時マリアはイエスに従い信じ切るよう求められている一人の女性なのです。フツウの母親ならばどう対応したでしょう。
 マリアが素晴らしいのは、神からの権威とか、肉親の情や親の権利でもなく、ただ信仰による絆へと導かれ、そして従ったことです。
 主イエスは死の直前「婦人よ、ご覧なさい。あなたの息子です」と弟子のヨハネを信仰の家族として新しく結びつけられたのです。

母の日
 「お母さん、いつも**ありがとう」とカーネーションや贈り物によって感謝を表す行事は大事な遺産です。しかし母の日の本来の精神はどこにあるのでしょうか。
 母の日は110年程前の米国で、亡き母クララ・ジャーヴィスを慕う娘アンナが礼拝堂をカーネーションで一杯にして記念会をしたことが始まりです。母親は26年間も教会学校で子どもたちに神の愛を教えました。特に十戒の第5戒「汝の父と母を敬え」は娘の記憶に深く刻まれ「母さん、信仰を受け継いだことは何よりの贈り物でした」そういう母への感謝が、教会から始まり、花を贈る習慣として商業的に拡がったのです。