2015.5/31 聖霊がなすままに

(サムエル記下7:1-10、使徒7:44-53)
 交換講壇・波田教会での説教要旨
 先週私たちは、今年のペンテコステを祝いました。祈りの家である教会に集まり、いにしえのペンテコステを思い、一人を救うために神は一人遣わして神の民として受け入れて下さることを学びました。聖霊はペンテコステで初めて登場するのではなく、創造の初めから神の業としてずっと働いておられます。
 モーセの時代(前13世紀頃)人々は「証しの幕屋」に出向いて礼拝し(出エジプト25章以下)ダビデの時代(前10世紀)も「神の箱」は幕屋(テント)の中にありました。
 ダビデは神が未だにテント暮らしでは申し訳ないと立派な神殿を建てる決心をしました。けれども、神はそんなことは望んでいなかったのです。神殿を実現したのはソロモン王でした。
 テント時代と神殿時代の大きな違いが聖書のいたるところに描かれています。宇宙を創造された神は人間の手による「家」に収まるはずはありません。そこは共通しています。
 決定的な違いは、「あって、ある者」「超越的な自由者」である神の前での人間の態度でした。
 モーセ時代も、ダビデ時代も神の前に人間は赤裸々でした。神の命令や意思に逆らうとき、人間は打ちのめされ、滅びの瀬戸際まで追いやられています。そこではじめて悔い改め、最初からやり直す謙虚さがありました。またささげ物をするときにはありったけの感謝を込めてしていました。
 ソロモン王は確かに世界屈指の贅沢な神殿を建てましたが、民の強制徴用と属国からの貢ぎ物によってでした。不思議なことに詩篇はともかく、歴史書に賢者ソロモンが神の前に悔い改めたという場面が見当たりません。
 晩年のソロモン王は意外にも、みじめでした。神自ら二度も現れて信仰に立ち帰るように戒めましたが無駄でした。信仰を受け継がなかったレハブアムはもっと哀れです。父を支えた忠臣の嘆願にもかかわらず、甘やかされ傲慢に育った仲間と共に、王国を分裂と破滅へ向かわせてしまったからです。それが聖霊に逆らうということです。
 今、筑摩野教会は大きな仕事をしようとしています。実質10人前後の会員でその責任を負うことは無謀に思えます。しかし、二月から祈るように導かれ、祈りの中で大きな決心を与えられ、一緒に携わる人が会員以外にも次々と与えられています。
 「恐れるな、小さな群れよ」「求めなさい。そうすれば与えられる」「天の父は求める者には聖霊を与えて下さる」実感です。