2015.9/20 今日、生かされている

(イザヤ38:16-20、使徒言行録9:32-35)
 命ある者、命ある者のみが、今日の、わたしのようにあなたに感謝し、父は子に、あなたのまことを知らせるのです。(イザヤ38:19)
 何年も床から出られない生活は、若かろうと、年老いていようと残酷な現実です。アイネアは「中風で8年前から」とあるので、他人の手を借りなければ食べることも排泄もままならなかったに違いありません。8年前とは8歳の時からとも解釈できる表現です。
 巡回伝道中のペトロはリダという街道町でクリスチャンの群れの中に彼を見つけました。この時、誰も「治して欲しい」とは言っていませんが、ペトロはいきなり「アイネア、イエス・キリストが癒やして下さる。起きなさい」と声を掛けました。すると、彼は言葉通り、起き上がったのでした。
 「聖書は良いことが書いてあるが、奇跡の話は嘘っぽい」と言う人がいます。奇跡の話は難しい箇所です。素直に信じる人には生きる力になりますが、説教では説明でお茶を濁し、受け入れやすい話にすり替えてしまう誘惑があります。
 アイネアは何年も前から病床でイエスさまの噂、メッセージを伝え聞いていたに違いありません。私たちはもっと詳しくイエス・キリストの知識を持っているはずです。ところが、大きな夢、弱点やこだわりから開放されたいという思いがありながら、イエスの言葉や出来事は「知識」に留まり、なかなか現実になっていません。
 ペトロが「アイネアよ」と直接呼びかけたように、イエスさまの聖霊が「・・よ」と語りかけて下さる時(その音にならない語りかけを聴く準備は必要)聴き逃さないで「主よ、聴きます。従います」と真実に答えられるなら、現実は変わります。
 今、「デボーション」を学びながら「みことば」を聴く訓練を数人で受けています。「この私への語りかけ」として以前よりずっと聖書が近くなり、はっきりと聴けるようになるに違いありません。そう、期待しています。
 アイネアは家族や隣人の世話なしには生活できない身体でしたが、愛されていた人です。病床でも、みことばを受け止められる素直な心が育まれていたのです。
 アイネアはその名が「称賛、讃美」である意味が今日、分かりました。「今日、主に生かされている」。この現実を見たからこそ「人々は皆主に立ち帰った」のです。

2015.9/13 祝福への招き

◎ヤコブの息子たちよ、集まって耳を傾けよ。お前たちの父イスラエルに耳を傾けよ。父は彼らを、各々にふさわしい祝福をもって祝福したのである。(創世記48:2,28)
◎私の言葉を聞いているあなた方に言う。敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6:27-28)
交換講壇だったので、島津牧師の松本教会での説教を記録
(創世記49:28、ルカ6:27-28)
 初めて松本教会と筑摩野教会で同じ「みことば」「讃美歌」による礼拝をしています。もちろん相談はしましたが、聖霊による一致を祈り求めてのことです。
 さて、私たちは必ずいつの日か死にます。不吉な話題でしょうか。「死を覚えよ」に従うなら一日一日が奇跡です。あと10年生きられれば3650日、87600時間あります。たったそれだけと焦るか、まだそんなにと感謝して奇跡の日々を生きるか、人それぞれです。
 主イエスはご自身が神を「アバ=父」と呼び「アブラハム・イサク・ヤコブの神」「生きている者たちの神」と教えて、神との交わりが人生を決めると教えられました。創世記のこの3人は神から祝福を頂き、祝福を子に手渡してきた代表です。
 創世記の終わりに、不思議で美しい祝福の場面があります。多くの苦難を味わい、エジプトで晩年を過ごしたヤコブは、ヨセフの子2人を養子にして「祝福」を与えます。
 ヨセフは当然長男のマナセが長子の特権を授かると考えて父の右手(力の象徴)側にマナセを立たせます。ところが父は腕を交差させ、エフライムに右手を、マナセに左手を置いて祝福の祈りをしました。
 かつてヤコブ自身、母リベカの計画に従い、目がかすんだ父イサクを欺き「長子の祝福」を奪いました。それは兄エサウとの確執と多くの苦難の始まりとなりましたが、歴史を導く神の深い計画によるものでした。
 臨終の床で12人の息子に与えられた「祝福」は驚きです。ユダとヨセフ以外の10人への言葉は、とても祝福とは思えない、むしろ裁きと呪いです。
 ところが、28節には「これは彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らを各々に相応しい祝福をもって祝福したのである」と締めくくられています。確かにこれらも祝福なのです。
 祝福とは何でしょうか。「旧約聖書において祝福するという動詞は、救済に満ちた力を付与する」とあります。
 最初は祝福の範囲は家族でした。しかし、アブラハムが「すべての民の祝福の源となる」と約束され、イサク、ヤコブへと受け継がれ、ついにイエスにより「永遠の命」という祝福への道が信じる人、全てにひらかれたのです。
 主イエスの言葉を聴き、真に受けるなら皆「祝福された」人です。「幸いなるかな・・・人よ。災いなるかな・・・人よ」イエスは決定的な「祝福」を約束されました。
 「敵を愛し、憎む者に親切を、呪う者に祝福を祈れ」この祝福に私たち、一人一人が招かれています。

2015.9/6 確かな基礎の上に

(ゼカリヤ書8:1-13、使徒言行録9:31)
 万軍の主はこう言われる。勇気を出せ。あなた方は万軍の主の家である神殿を建てるための礎が据えられた日以来、預言者たちの口からこれらの言葉を聞いているではないか。
(ゼカリヤ書8:9)
 いよいよ西隣の住宅が完成します。かつて焼き芋大会をした所に立派な家が建ちました。更地からコンクリートの基礎打ち、組み立て、建前、庭造りまで毎日の変化を見てきましたが、最近は早く建ちますね。幼い頃、老練な棟梁の隣に住んでいたので、学校がおわるや帰宅し、夕飯まで飽きもせず、その仕事ぶりを眺めて過ごしました。
 棟梁は単なる大工ではありません。完成図はもちろん、想定外があっても対応できる豊富な知識が「頭の中」にあって、大工や職人をまとめて、家を完成させます。
 さて、旧約の最後にあるゼカリヤ書とハガイ書は、ネヘミヤ記やエズラ書と同時代に働いた人々の記録です。彼らは紀元前450年前後に、預言者.行政官.祭司.律法学者として「みことば」を取り次ぎ、神殿と城壁再建をとおしてイスラエルの信仰を目覚めさせました。
 70年間も放置され、わずかに礎石が残った神殿と、崩れ落ちた城壁を再建するのは不可能に思えました。しかも妨害工作が繰り返しあったのです。それでも彼らは辛抱強くイスラエルの民を励まし、時に怒り、確かな基礎の上に工事を完成させました。
 こんなジョークがあります。中世のパリでノートルダム・カテドラルを建てていたときの話です。三人の職人が汗を流して石組みをしていました。
 「あなたは何をしているのですか」とそれぞれに尋ねました。一人目は「重い石を運んでいます。とてもきつい仕事です」とぼやきました。二人目は「一生懸命働いています。家族(賃金)のためです」と答えました。三人目は「カテドラル(聖堂)を建てています」と胸を張りました。同じ現場で同じ仕事をしていても、目的はずいぶん違います。
 では、神殿を建てるとか「信仰を建てる」とはどういうことでしょうか。私たちが「みことば」に出会い、神の思いと目的が解き明かされた時、「これこそ私の役割」と受け止めて働くなら、これ以外の人生「生きがい・喜び」があるでしょうか。

2015.8/30 生涯の友と出会う

恐れるな、わたしはあなたをあがなう。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。(イザヤ43:1-5、使徒言行録9:26-31)
 隣国同士の政府や一部の思い込みの強い人々が非難し合い、危険な状態になることがあります。けれども、そこに少数ではあっても相手の立場を理解しようと行動する人、あえて言えば、神に導かれて平和を創り出すために召された人たちがいます。
 この夏、出会った孫信一(ソン・シニル)牧師は茨城で生まれ育った韓国人三世です。献身して母国に留学し、日本でも韓国でもなくチェコのプラハで「日本語礼拝」に心血を注いでいます。妻の閔梅羅(ミン・マエラ)さんは人を活かす才能に恵まれた積極的で明るい人です。
 さて、若きサウロは生粋のユダヤ教徒の愛国者でキリスト教を憎みました。教会を迫害し、どこまでも信徒を追いつめて逮捕する使命を信じていました。そのサウロが「回心」して突然、命をも惜しまないキリスト伝道者に変わったのです。後に教会が「かつて我々を迫害した者が、滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と神を讃美したほどです。
 しかし「回心」直後はあまりにも鮮やかな変身ぶりに、「裏切り者」とか「スパイではないか」とユダヤ教からも教会からも疑いの目で見られました。普通なら、「ほとぼりが冷める」まで、じっとしているものです。ところがサウロはすぐさま伝道しました。それだけ「回心」は本物だったのです。
 この、どちらからも拒否された青年を「受け入れて」友となった人物がいました。バルナバです。4章36節で「慰めの子」と紹介され、何度も何度もサウロを助け、失敗した人のためにも労苦するのです。
 サウロが後のパウロとなるためにはダマスコのユダ、アナニヤ、エルサレムのバルナバを神は遣わされていますが、主人公でもなく有名になることもありません。
 パウロは晩年に「私を強くして下さることによって、どんなことでも出来る。それにしても、あなた方はよく私と困難を分け合ってくれました(フィリピ4:13,14)」と告白しています。その「あなた方」の一人に過ぎません。
 しかし、生涯の友とは「いつも一緒で気の合う仲間」ではなく、その人がいなければ今の自分はいない、めったに会うことさえなくても、神による真の友なのです。
 バルナバは「慰めの子」です。この慰めと訳された言葉は聖霊と同じ「共にいる、傍らにいる、励ます、弁護人」という意味です。
 真の友はキリストが差し向けて下さる聖霊の具体的な姿です。「行って、あなたも同じようにしなさい(ルカ10:37)」とイエスはおっしゃいました。友と出会うため行動するか、しないかは各人に任されています。

2015.8/23 ドレスデンの聖母教会を訪ねて

8月23日の主日礼拝は、
塩尻アイオナ教会の横田幸子牧師を迎えて子どもと合同の礼拝をしました。詩篇8編から「おさなごは神を讃美している」
出席した5人の子どもたちに一人一人に相応しい言葉を選んで「こども祝福」をして下さいました。
T姉妹と二人の子どもたちが、アフリカのマラウィに移り住むことになったので、神の守りと導きをいのりつつ、愛餐会と壮行会をしました。

ということで、今週の「みことば」欄は、島津牧師の旅行記の続きを記します。

ドレスデン聖母教会を訪ねて
 60歳の誕生日、7/27にドイツのドレスデンにあるフラウエン(聖母)教会を訪ねた。18世紀初頭、ザクセン公国のフリードリッヒ・アウグスト1世は自身はカトリックであるにもかかわらず、都にルター派の大聖堂として建てることを許した。その礼拝堂構成は、祭壇・講壇・洗礼盤を信徒の真正面に配置したプロテスタントの特質をもつ画期的なものだった。冷戦終結後はザクセン福音ルター派州教会に属している。
 数年前にBS番組として紹介されたその教会の物語にとても興味をもった。爆撃でドイツのほとんどの工業都市は焼き尽くされドレスデンも例外ではなかった。
 聖母教会は1945年の2月13日の爆撃に耐えた。その地下聖堂に逃げ込んだ300人もの人々の命を守ったが、65万発の焼夷弾の熱によって外壁は1000度に達し、翌日に大崩壊した。
 戦後は同市が東ドイツに属していたため再建はままならず、1985年になって再建計画が持ち上がった。
 冷戦終結後の1989年から20カ国を超える国で聖母教会の再建が呼びかけられ、2005年10月30日に聖堂前のルター像が見守る中、献堂式が行われた。
 聖堂頂上の十字架はイギリス軍爆撃手の息子・金細工人アラン・スミスが、ドイツ生まれのアメリカ人生物学者(99年生理学・医学ノーベル賞受賞)ギュンター・ブローベルが基金を創設し、賞金の大半を寄付したことで知られている。ちなみに再建費用は1億8千万ユーロ(250億円)。
 再建を可能にしたのは、8500もの崩壊した石材に帳票が付けられ整理保管されていたこと、19世紀の修復時の詳細な資料が残されたこと、CG技術によってがれきの配置が再現されたこと、さまざまな要因がある。
 期せずして、還暦の誕生日パーティーをこの聖堂脇のレストランで開いてもらった。300年をへた上に爆撃で黒ずんだ石材と、新しい技術で補完された石材とが不思議なモザイクを描いている。聖堂をながめながら、和解とは何かをしみじみ味わった。
 今、日本周辺では「和解と協力」に程遠い雰囲気で満ちている。だからこそ私たちはキリストに倣って身を低くして「和解と奉仕」を見つけたい。心を開いて見渡せば、私たちを必要としている働きの場は身近にあるのだから。

2015.8/16 神の真実を知るとき

◆(ダニエル書3:13-18、使徒言行録9:19b-25)
 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉からわたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手からわたしたちを救い出されます。
 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません。(口語訳3:17-18)
 戦後70年の特別企画がテレビでも街中でも盛んに行われています。昨日は、神風特攻で戦死した上原良司(現池田町出身)の「自由への憧れ」と「いまを生きる」をテーマに、戦時世代から高校生までの、世代を超えた発表を聞く機会がありました。
 生き延びるか殺されるか。このような世界で「その時」一個人として、人間として、どのように思い判断し行動するかは、普段から誰を信じ何を基準に生活しているか、どのような生き方をしているかが問われる真剣な問題です。
 「たといそうでなくても」という本があります。日本が1910年から敗戦まで南北朝鮮を併合した時期に、千を超える神社が建てられ拝礼が強制されました。会堂もろとも信徒が焼き殺された事件(提岩里教会)もあるほど過酷な弾圧で民衆が苦められました。ところが、日本の教会の代表は「神社参拝は国民儀礼」として拝礼をするよう現地に赴き説得していたのです。
 安利淑(あん・いすく)さんと数名が「帝国議会」の傍聴席から抗議の垂れ幕を投げ込み捕らえられました。その事件に至る民衆の苦しみと教会事情、真剣な祈りと行動が「たといそうでなくても」に記されています。韓国が8月15日を「光復節」として祝うゆえんです。
 「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます」の遺書で知られる上原良司の「自由への憧れ」と悲惨な戦争実態(結果的に被害者の立場で)を、いま語り継ぐ事はとても意義があります。
 しかし、それ以上に教会は過去の罪を知り、学び、告白しつつ、赦された罪人として「信仰の言葉」で自由と正義を語らなければならないのではないでしょうか。その内容の中心は「この人こそ、神の子である」です。
 若きサウロは徹底的にナザレのイエスを否定し、信じる者を弾圧するユダヤ当局の手先となっていました。そのサウロが復活されたイエスに出会って、自分の深い罪を知らされ、同時に赦されたことを悟りました。
 許されざる罪を示され、その深い罪を自分ではどうすることも出来ない弱さを自覚したとき、神の真実がその人をとらえ、イエスの力に頼って生きる人に生まれ変われるのです。それが自由への出発です。正義のよりどころです。

2015.8/9 100年後の収穫 ヤン・フスを訪ねて(2)

◆100年後の収穫(ヨシュア24:14、ヘブライ13:7)
  あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを思い出しなさい。
  彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。(ヘブライ13:7)
 「桃栗三年、柿八年。梅は酸いとて十三年」植栽して最初の果実が収穫できるまでを喩えて、辛抱することを教えたことわざ。注意深く苗を植え、水を注ぎ肥しを与え、季節ごとの手入れを繰り返して時を待つ。うまい果物の陰に農夫の忍耐と愛情がある。
 「神の言葉を語った指導者を思い出し、彼らの人生と信仰を見倣え」と命じられている。厳しい現実の前に立ち往生しているクリスチャンへの厳しい命令だ。しかし、その命令の前には「私は決してあなたから離れず、決して置き去りにはしない」と神の確かな約束があり、後ろには「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に代わることのない方です」の保証で挟まれている命令なのだ。
 クリスチャンは一人ぼっちで厳しい現実を生きていくのではない。イエスを先頭に、数え切れないほどの先輩に囲まれ、やがて私たちの信仰を後輩に証ししていく。
 そのようにして天国への旅は一人の人生の巾で到達点を見ることは出来ない壮大なものだ。ただ、信じ仰ぐのみ。
 今年はヤン・フス殉教六百年、二年後はマルチン・ルター95箇条提題から五百年。
 祖国の言葉で礼拝を守りたい、その願いで三十年以上もヨーロッパ各地で礼拝を守っている集会から二百人を超える人々がチェコのプラハに集まった。不思議な導きで私もそこにいた。
 「神の真実」を求めて命を絶たれたフスは、死に際に「あなた方は一羽のガチョウを焼こうとしているが、その灰から百年後に白鳥が現れるだろう。そして、あなた方はその白鳥を殺すことは出来ないだろう」(ケルン・ボン日本語キリスト教会 月報2015.3 「ケルン探訪 齋藤朗子」引用)と言い残したそうだ。
 いろいろ解釈はあるが「百年たっても真実を求める人がいなくなることはない」という確信ではないか。
 オランダのルター派教会のシンボルは、その白鳥をモチーフとしているとのこと。(同上引用)ルターがフスの百年後に出現したからだろう。
 しかし福音を真実に求め、生き、証しする教会であるなら、百年の巾で考えた時、私たちも確かに含まれる。この招きと幸いに生き抜こうではないか。

2015.8/2 平和聖日 ヤン・フスを訪ねて 「平和のリタニー」

◆ヤン・フスのこと
 60歳の特別なプレゼントを神さまと家族と教会の皆さまからいただいて、3週間の異文化体験をしています。お腹の心配、言葉の心配、過去最高の留守など心配ごとは嘘のように、毎日充実しています。一方、早起きと聖書朗読祈りのリズムが・・・
 スイスの山々、氷河、ハイジの故郷を訪ねたあと、水曜日から「第32回ヨーロッパ・キリスト者の集い・プラハ」に参加しています。日本からは特別ゲストや私などの少数派で、ほとんどは20年前後、ヨーロッパ各地で暮らしている日本人信徒や当地の人々。
 チェコ・フィンランド・ノルウェー・ルーマニア・ベルギー・オランダ(3グループ)・スイス・アイルランド・イギリス(6グループ)・フランス・スペイン・イタリア・オーストリア・ドイツ(9都市)から200人以上。準備とサポートは姉の通うプラハ・コビリシ日本語礼拝の教会:韓国人牧師家族4人と信徒3名ほどですべて担当されました。
 どの日本語集会も、移住した一人や夫婦が知り合いに呼びかけて始まり、現地の親しい外国人が加わり、そして転勤族が入れ替わるというケースが多いようです。いわば、信仰生活の最前線が異文化の町に点在しているわけです。実に励まされました。
 さて、7月6日はヤン・フス殉教600年で、ベツレヘム礼拝堂(ヤン・フスが説教した教会・1955年に改修されたが、基本的にその時代の建物。民族的財産であるため現在は工科大学が管理)でチェコの全教派と政府代表が記念会をしたそうです。その礼拝堂で、昨日31日に私たちも集会をしました。
 10月31日は「宗教改革記念日」です。1517年ドイツ人マルチン・ルターの行動が発端でヨーロッパ各地に信仰覚醒と教会改革ののろしがあがりました。その百年以上も前にイギリスでウィクリフが英語に聖書翻訳して改革の源になり、その精神をヤン・フスは引き継ぎます。農民出身の彼はカレル大学で学びつつ、聖書から純粋に福音を農民に親しく語り、大衆から愛され、その学識と説教は貴族にも支持されました。やがてカレル大学の総長になりました。神聖ローマ帝国の首都プラハに創設されたヨーロッパ最古の大学です。
 けれどルターと同様「贖宥:免罪符」販売を巡り教皇を敵に回してしまい、1415年ドイツ領コンスタンツに出頭を命じられます。当時、教皇が3人もいて、誰が正統かを協議する会議でしたが、分の悪い教皇が逃げ出し(後に処刑)事態は収拾。ついでに異端問題として目の敵の抹殺です。友人は猛反対しますが、ヨーロッパ中に福音の神髄を弁明したいと出頭。しかし弁明は1回も許されず裁判なしで焚刑(火あぶり)にされてしまったのでした。ちなみにルターや使徒パウロには弁明の機会がありました。
 乱世の露と消された人々によって、今も神さまは真実を語り続けられるのです。

牧師不在のため「平和のリタニー」を礼拝で唱和しました。

              十戒に基づいた平和のリタニー
司式者 主なるイエスは招かれます。
    平和を実現する人々は幸いである。
     その人たちは神の子と呼ばれる、と。
会 衆 主の平和が実現しますように。あなたの手と足にして下さい。

司式者 主よ、あなたの戒めを守ります。
    ただ、あなただけが私たちの神です。
    あなたは「私の子よ」と呼びかけて下さった。
会 衆 1,私たちには、あなたのほかに神はいません。

司式者 主よ、私たちをそそのかす声が聞こえます。
    良い人、能力のある人と思われなさい。
    競争を勝ちぬきなさい。人を従わせなさい、と。
    あなたは「奴隷の家」から救い出して下さった。
会 衆 2,私たちは、いかなる像も造りません。拝みません。

司式者 主よ、あなたのお名前だけが真実です。
    アバ、父よ。共にいてください。
    聖霊が、キリストの声を聴けるようにして下さった。
会 衆 3,あなたの御名を身勝手に唱えたりしません。
    あなたの栄光を不注意に傷つけたりしませんように。

司式者 主よ、私たちには本当の休息がありません。
    終わりのない仕事と断れない関係に囲まれて、
    一人になる時間も隣人を思いやるゆとりもありません。
    あなたは、奴隷の身分から自由にして下さった。
会 衆 4,あなたの創造のみわざと安息を覚えます。
    主の日を聖別します。御前に進み出て、安息をいただきます。

司式者 主よ、ゆがんだ競争と愛のない世界が心をむしばんでいます。
    あなたは神と人、人と人との正しい関係を示して下さった。
会 衆 5,私たちは父と母を心から敬います。
    あなたから与えられた命のつながりに感謝し、大切にします。

司式者 主よ、命が軽くされています。不注意や身勝手で人が殺されます。
    あなたは、尊い独り子をこの世に送って下さった。
会 衆 6,私たちはおたがいの命を愛します。
    隣人の命が危険にさらされているとき、見過ごしたりしません。

司式者 主よ、戦争は人間の魂を奪います。かつて隣国の多くの女性たちを辱めました。
    その事実を認めない、知らない人々がいます。
    今も、男女の関係を破壊し、性を欲望の道具にしています。
    あなたは「もう、罪を犯さないように」と赦して下さった。
会 衆 7,姦淫してはならない。あなたの戒めにおののき、
    私たちの過ちと弱さを告白できますように。

司式者 主よ、戦争や不当な契約で隣人のものをかすめ取った歴史があります。
    知らずに、この世の生活を楽しんできました。
    あなたは「今日、救いがこの家を訪れた」と祝福して下さった。
会 衆 8,盗んではならない。この罪から解放して下さい。

司式者 主よ、私たちは隣人の足を踏んでいても気づきません。
    踏まれた人の痛みを無視しただけでなく、嘘つき呼ばわりしています。
    あなたは、私たちの代わりに十字架にかかって下さった。
会 衆 9,偽証してはならない。隣人の声に耳を傾け、真実を語ります。

司式者 主よ、私たちの欲望には限りがありません。満足できません。
    「私の恵みは、あなたにとって充分です」と気づかせて下さった。
会 衆 10,隣人のものを欲しがってはならない。欲望から解放して下さい。
    あなたの恵みで満たされた生き方を選びます。

司式者 主よ、これらの戒めは、あらゆる恵みと命への道筋です。
会 衆 あなたが下さった自由と、希望と、赦しを心から感謝します。
    キリストの愛に支えられ、聖霊に身を委ねて、いま出かけます。

全員で アーメン

2015.7/26 ヨハンナ・シュピーリを訪ねて(2)

◆ヨハンナ・シュピーリのこと(2)
 7月23日夜9時頃ヒルツェル村に到着しました。Johannna Heusser Schriftstellerin ヨハンナ/ホイサー/シュリフツテラ-リンが1827年6月12日から14歳でチューリッヒに移るまで過ごした故郷です。
 松本に似たヒルツェル市街地に入ったとき、二世紀前の面影はないかと思いましたが、数キロ離れた丘の周辺には昔ながらの農村がひろがり、その中に教会と生家を見つけて感無量。夜でもフラッシュなしで撮影できる明るさですが、さすがに人通りはなくて、去ろうとしていた時、教会から老人が出てきて鍵を掛けていました。姉がドイツ語で「日本からシュピーリの故郷を訪ねて来ました」と言うとパウルさんというその人は喜んで礼拝堂へ入れてくれました。「あいにく牧師は2ヶ月ほどバカンスで不在だが何でも聞いて欲しい」と、あれこれ親しく話をすることが出来ました。
 教会堂は1600年代前期に建てられ、10年程前に改装したそうで、外側の重厚さと内側の快適そうでのびのびとした空間にパイプオルガン、現代的彫刻の聖餐台、素敵な洗礼盤がありました。座席は80から120。普段は30人ほどの出席で行事には若い人も集まり70-80人にはなるそうです。最近6人の幼児洗礼があったと、嬉しそうでした。
 ルター派教会のプレジデントだと自己紹介、筆頭長老という感じ。16世紀まですぐ脇の道を境にカトリックの勢力が迫って必死で追い返したんだと、スイスの歴史を垣間見る話もありました。ヒルチェルまでの道で鐘楼の形が違う教会が沢山ありました。教派で鐘楼の形が違うので、農村地域はカトリック、チューリッヒなど都市部は改革派、このあたりはルター派という棲み分けがあるのでしょうか。
 ヨハンナの父は、義務に忠実な医者として貧富の別なく献身的に患者を受け入れ、内科も外科もがむしゃらに仕事を増やします。とりわけ精神病患者を受け入れ家族のように世話をしますが、ぶっきらぼうな人柄で、実際の苦労はお母さんが一手に引き受けたようです。そんな父母の下で人の心と身体の世話する姿を見て育ったヨハンナの作品には、人が生きていくために自然の育み癒やす力と、愛と理解の助力が不可欠というテーマが、いつも主人公と周辺の人の言動に込められていったように思います。
 「ハイジ」中のゼーゼマン夫人が保養に滞在したラガーツ温泉の「高級ホテル」に泊まり、翌日マインフェルトの「ハイジ村」を訪ねました。土産物店にはここそこに日本人客が見られ、併設の「ハイジ・ミュージアム」は数十カ国語に翻訳されたハイジとその絵本が展示の中心で、ヨハンナ・シュピーリの作品や精神的遺産はちょっぴりで「テーマパーク」のようでした。本物の記念館はチューリッヒにあるそうです。

2015.7/26 ヨハンナ・シュピーリを訪ねて

この夏、島津牧師は7月17日から8月7日まで教会から休暇を頂いて、スイス、ドイツ、チェコ各地を訪ねました。
そこでのエピソード、思いを週報に記しましたので転載します。
◆ヨハンナ・シュピーリのこと
 1974年放送の「アルプスの少女ハイジ」は今でも人気のアニメで、当時、家族揃ってみたものです。しかし、原作の世界を知ったのはごく最近のことです。それからは邦訳の原作の虜となって、誰かれなく推薦しています。そこには、大人の都合で振り回されながらも、まっすぐに生きるハイジの心と信仰の成長、素朴な人間関係そして「児童文学の福音書」と言われるように、小さなハイジの信仰によって大人たちが自分を縛ってきた運命から自由にされていく姿が描かれています。
 シュピーリは「ハイジ」出版より10年あとに「誰でも、ひとを助けることができないほど小さくはない」という作品を63歳で書いています。どんな小さな子どもでも、人を助けることができるということは「ハイジ」に込められた作者の確信でしょう。 ヨハンナ・シュピーリの最初の小説は1871年、44歳の時です。
 その処女作「フローニーの墓の上の一葉」は、幼友達の薄幸な人生と墓に献げられた切ない回想の一葉でした。もともとシュピーリは明るい人で、作品は明るい終わり方になっているのですが、手放しの明るさではありません。苦しみと悲しみの中で、決して消えることのない、それを切り抜けた明るさです。
 シュピーリは結婚後の姓で、父はヨハン・ヤーコプ・ホイサー。寒村の貧しい農家に生まれ、苦労して医者となり、村の人々の健康に心を配りました。母マルガレータ(通称:メタ)はヒルチェル村の牧師シュワイツァーの娘で、物思いがちな穏やかな人でした。24歳の時に猛烈に口説かれて結婚をしています。積極的で果敢な父と、穏やかで詩作をたしなむ母から受け継いだ性格によって、ヨハンナの作品には、正反対の性格、つまり、芯の強さと融和的な優しさを併せもつ主人公が描かれているのです。
 さて、ヨハンナ・ホイサーの生まれたヒルツェル村は、大都会チューリッヒから東南へ30㎞あまり、海抜719㍍で松本と似ている。「シュピーリの生涯:高橋健二著、1972出版」によれば、斜面の牧草地に家がまばらに立っている風景だという。
 ホンダ・シビックで訪ねる小さな村に秘められた、おおきな楽しみを発見出来たらいいなーと願っています。もしかしたら、「特派員報告」ができるかも。