2015.5/3 ただただ、感謝して

(申命記8:11-18、使徒言行録8:14-25)
 神の贈り物を財貨で手に入れられると、おまえは見くびっている。こういう事柄に関して、おまえが関与する余地はまったくない。おまえの心は神にまっすぐ向いていないからだ。
 おまえのそういう間違った考え方を、低みに立って見直しなさい。おまえの心のそういう思いを、なんとか赦してもらえるように、主に祈りなさい。 (本田哲郎訳:使徒言行録8:21-22)

 魔術師シモンは、フィリポの語る福音と徴を信じてバプテスマを受けました。神を信じ、イエスの十字架の赦しを受け入れて新しく生きはじめたということです。しかし、シモンは自分の能力と、強烈な個性、支配欲のために大きくつまずきます。
 フィリポの伝道によってサマリアでぞくぞくと信者が生まれました。11章19節によると、伝道対象はユダヤ人のみで、異邦人伝道はまだ先のことです。そこへペトロとヨハネがエルサレム教会から派遣されて、彼らが聖霊を受けるようにと祈りました。
 二人がそれぞれ信者の頭に手を置いて祈ったのでしょう。すると信者たちに聖霊が与えられました。
 これを見て「その素晴らしい力を私に買わせて下さい」とシモンは大金を差し出したのです。魔術本が金で買えたように、聖霊を与えるわざも同じと考えてのことです。
 ただちにペトロは「お前も金も消え失せろ」と激しく断罪します。ちょうどペトロが(マルコ8:33)「サタン、引き下がれ。お前は神のことを思わず、人間の判断をしている」とイエスから激しく叱られたようにです。
 けれども、ペトロの激しい断罪は救を指し示しています。「お前の心が神の前に正しくないからだ。悔い改めて主に祈れ。そうすれば赦されるかも知れない」
 愛があるからこそ、はっきりと言うのです。そして、それにも応じない人には、本当の裁きが訪れるのです。
 私たちは教会で「父と、子と、聖霊の名によって(マタイ28:19)」バプテスマを受けるのですが、新約聖書には
①ヨハネの(水の)バプテスマ、
②イエスキリストの名(キリスト)のバプテスマ、
③聖霊のバプテスマ、
④聖霊と火のバプテスマなどが記されています。
 聖霊は神の見える働きです。聖霊を表す言葉として風とか息が用いられてきました。目に見えない働きが、働きを受けた対象の変化によって知ることができるからです。
 たとえば、空の雲が流れ、木々の葉が揺れることによって風の働きや大きさが分かり、息をしているかどうかによって生きているかどうか、大丈夫かどうか判断できます。
 聖霊は、神さまからの自由で好意を込めた働きかけであり、贈り物です。ただただ感謝して受け、心をまっすぐに神さまに向けて命を頂く。そこに人生があるのです。

憲法記念日
 67回目の憲法記念日です。日本国憲法は1946年11月3日に交付され47年5月3日に施行され48年には「国民の祝日」で祝われるようになりました。
 今、平和主義、主権在民、基本的人権はどうなっているでしょうか。聖書はすべての民の歴史を示します。

2015.4/26 聴く耳のある人、ない人

(イザヤ書52:7-10  使徒言行録8:5-13)
 ところで、シモンという男がこの町で以前から魔術を行い、サマリアの人々を驚かし、 自分を何か大いなる者のように言いふらしていた。(岩波版:使徒言行録8:9)

 Tさんは「リンゴが赤くなると、医者が青くなる」の喩えをあげ「自分は医者だけれど、僕たちにできることはほんの少しで、病気を治せるのは神様だけなんだよ」と子ども礼拝でよく語っておられました。その方とは伝道や平和の方法で少し意見が違って、たびたび礼拝後も夕方まで喧々がくがく論争したことが懐かしい思い出です。
 エルサレムを追い出されてサマリアにきたフィリポは「神の国とキリストの名」を告げて回りました。体の不自由な人、心を病む人が次々に癒やされる「しるし」は評判となって拡がり、その町に大きな喜びが生まれました。
 かつて主イエスが井戸の傍らで一人の女性と交わした信仰問答がきっかけになり、サマリアで大歓迎された状況(ヨハネ4章)にそっくりです。「しるし」は人々を興奮させます。
 サマリアには魔術で人を驚かし「大いなる者」と自称するシモンという男がいました。町の人はシモンの魔術を「大いなる力」と呼び、魔術の虜になっていました。
 ところが、フィリポが町にやってきて、イエスキリストの名の福音を説き、バプテスマを受ける人が増えてくると、シモンも「信じて?」バプテスマを受け、フィリポの「大いなるしるし、わざ」に驚嘆して付きまとうようになりました。
 「金や銀はない。イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい」とペトロに命じられて歩けるようになった男(3章)に似ていますが心根は全く違います。下心があったのです。
 「魔術=マジック」は特殊な技術で、高価な秘密です。19章に祈祷師が聖霊によってひどい目に遭い、悔い改めて高価な魔術本を焼き捨てる記事があります。
 サマリアの人々もシモンもそう簡単には信仰に入れません。「徴を見せて欲しい。そうしたら信じられる」という本音は信者になってからもあります。
 その高慢と誘惑から自由になるには、何度も主の赦しを経験し、真心からイエスに従うしかありません。
 イエスは「主よ、主よと私を呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。私のもとに来て、私の言葉を聴き、それを行う人が皆、どんな人に似ているか教えよう」(ルカ6:46-)と言われます。
 「大いなる者」ではなく「聴く耳のある人」でありたい。

2015.4/19 いのちの種を蒔こう

(イザヤ書60:14-22、使徒言行録8:1-8)
 その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散らされていった。(使徒言行録8:1)
 イエスは「彼を信じる人が一人も滅びないで、永遠の命を得るため(ヨハネ3章)」にこの世にお生まになりました。
 神の意志をあらわすために、この世の知恵や常識では矛盾としか思えない神の命令に徹底的に従われました。民の指導者の理不尽な仕打ちにさえ耐えて。
 そうしたイエスを主と仰いで従った人々が、同じような不名誉や死を甘受したこと、同胞のユダヤ人から弾圧され虐殺されたことが新約聖書に記されています。これは神の失敗、神の誤算なのでしょうか。
 福音とはうれしい知らせ、を意味します。元々は戦争に勝った知らせのことです。敗者となれば名誉を奪われ奴隷とされ国は消滅しました。勝利したその時は福音でも、恐ろしい経験を忘れてしまえば、戦争を繰り返し、死の恐怖におびえなければなりません。
 福音は、教会によってずいぶん違う意味で使われるようになりました。神が死の恐怖から永遠に解放して下さったという喜び、一人を救うために自分を差し出すことができる喜びです。福音を拒む人には、ステファノの生き方や死に方は理解できないでしょう。
 さて、ステファノへの暴力はギリシャ系信者への弾圧にエスカレートしました。本当に理不尽なことです。けれども、この受け入れがたい事実が、神の計り知れない計画と結果を教えてくれます。
 狭いエルサレムで爆発的に教会は大きくなりました。組織も整い信者も増え続け、献金もどんどんささげられるようになったとします。その時、指導者はどんな展望を持つでしょうか。みことばを忘れるなら、そこに立たないなら、権威的でこの世的な教会になっていくに違いありません。
 神さまは、麦に喩えて福音の拡げ方を示されます。食べてしまえばおしまいの穀物の種。農夫は大切な種を畑に蒔きますが、豊作になるかどうかは、あらかじめ分かりません。ただ「蒔かぬ種は生えぬ」です。
 イエスは言われました。「アーメン、アーメン。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ(ヨハネ12:24)」その言葉へ信頼し従うのが信仰生活です。
 散らされた人々は着の身着のままだったに違いありません。ここで「散る」という単語は「種をまき散らす」というパレスティナでの農作業風景をあらわしています。
 エルサレムを追われた信徒たちが持ち出せたものは「イエスの名、福音の種」だけでした。そして逃亡先はユダヤ・サマリア地方。
 そこはイエスがすでに耕されていた畑(ヨハネ4章)でした。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる(詩126)」が実現し始めています。
 私たちは25年目の歩みへと押し出されました。今、吹いてくる風に載せて「福音の種」を蒔きにでかけましょう。

2015.4/12 主の言葉を思い出しなさい

(創世記15:1-6、ルカによる福音書24:1-12)
 ああ、ものわかりがわるく、心のにぶい人たちだ。預言者たちが告げたことを、あなたたちは信頼をもって受けとめようとしていない。キリストはこういう苦しみを受けてこそ、栄光に入るはずではなかったのか。(ルカ24:25 本田哲郎訳)

 3月21日「四日市公害と環境未来館」がオープンしましたが、開館までの道のりはとても険しかったそうです。
 1960年頃からの飛躍的な工業化で経済発展した日本各地では、コンビナートの煤煙や自動車の排ガスで空はかすみ、喘息患者が続出しました。私が中学の頃の教科書には、工業化の光と同時に陰の部分も書かれてはいましたが、患者たちの日々の苦しみや救済は後回しにされ、公害防止が制度化され青い空が回復しても「公害の歴史と教訓」を伝える会館の建設は、政治的には邪魔者だったのです。
 命に関わる大事なメッセージなのに、人々の心に届かない。大切な人の遺言なのに遺された人々がその意味をくみ取れない。
 しかし、時が満ちると「いのちの言葉」は必ず人々を動かし始めます。イエスの復活の出来事は、それを証言しています。
 イエスを慕う女性たちが、週の初めの日の出前、準備していた香料を携えてイエスの墓に行きました。すると墓の「大きな丸石」が脇にあり、中に入り確かめると遺体がなくなっていました。せめてイエスをきれいにしてあげたい、思いがかなわず途方に暮れていると(原文には、見よ)二人の天使が現れました。突然、輝く見知らぬ人が目の前にいれば誰だって怖くなります。「なぜ、生きた方を死人の中に捜すのか」
 主イエスは、わずか数ヶ月前「必ずこうなる」と何度も弟子たちに言われました。それは恐ろしい内容でした。私たちは望まない話を何度聞いても、真に受けられないのです。恐ろしい話の結末が喜びでも、前半の内容に耳をふさいでしまい、全体を聞き損ねています。けれども、幸いなことに大好きなイエスさまの声が耳に残っていました。「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」そして何が起こっているのかじゅうぶん分かっていないのに、喜びのあまり飛んで帰って「主はよみがえられた」と報告しました。ところが、男弟子には相手にされなかったのです。これも現実。
 イエスの弟子を片っ端から捕まえて死に追いやっていた青年サウロは復活のイエスに出会って180度変えられました。「最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは、私も受けたものです。すなわちキリストが聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと。葬られたこと。また聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです。次いで・・そして最後に・・私にも」と。

2015.4/5 わたしは今日、あなたと共にいる

(ヨブ記19:21-27、ルカ23:39-43)
 わたしは知っている。わたしをあがなう方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚がそこなわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。他ならぬこの目で見る。(ヨブ記19章)

 機長は相棒がまさか全員を奈落の底へ突き落とすとは思いもよらず「ちょっとトイレに、いいかな?」と、運命を<死にとりつかれた人>に託してしまいました。
 子どもたちが旅行するとき、無事帰る日まで何度も祈ります。「神さま、わが子の故に同じ飛行機、列車に乗る全ての人をお守り下さい」と、私にはそれしか出来ません。
 格安旅行が危険で、さまざまな対策をした交通機関が絶対安全とは限りません。
 また、この瞬間は健康そうでも次の瞬間に死んでいるかも知れない、生きていること自体、奇跡の連続ではないでしょうか。
 仮に望まない結果であっても「いのちを支配されている方」を信じる人には「生きるにも死ぬにもキリスト」という平安があります。
 主イエスの十字架の両脇に磔された強盗が言いました。一方は「お前はキリストだろう。なら俺らもあんたも救って見ろ」と。もう一人は「何てこと言うんだ。お前は神を恐れないのか」と相棒をたしなめて「イエスよ、あんたが自分の国に行く時には俺のことも思い出してくれよ」と頼みました。少し前まで二人は同じやくざ者でした。
 前者はイエスに期待もせず、罪も知らず「救って見ろ」と凄んだだけ。後者は
①「お前は神を恐れないのか」(神の裁きを認め、死んだらどうなるかまじめに考えた)。
②「俺たちは自業自得なのだから」(罪の自覚と告白)。
③「この人は何も悪いことはしていない。イエスよ・・思い出して」(主がどこから来たかへの期待と信頼)があり、
十字架に釘づけられても(自業自得も、不運も含め)イエスに委ねた、その違いです。
 生きていることは、数限りない選択の連続です。何が正しく何が間違いか、その時には分からないもの。
 しかし、決定的な選択の場面は必ず訪れます。強盗たちも生きるためにさまざまな選択をし、自分の良心を置き去り、なるがままに成り下がって、十字架はりつけられました。しかし、そこに最後の選択が用意されていたのです。
 復活とか永遠の命とは、真実な人格にしっかりとつながる出来事。人間の側からはそれを要求することは出来ません。
 ただ、差し出された招きの手に、自分の手を差し出し、しっかりと受け止めてもらうだけです。
 主イエスは救いを願う人を誰も拒みません。あの強盗にも「わたしは今日、あなたと共にいる」と約束して下さったのです。

2015.3/29 この罪を彼らに負わせないで下さい

(イザヤ53:6-12、使徒言行録7:44-60)
ダビデは神の好意を得ていました。彼はヤコブの家(イスラエル)のために、まともな幕屋が欲しいと願いました。
そして、ソロモンがダビデの意思をついで立派な建物を建てました。しかし、崇高なお方は、人間の手で造ったものにはお住みになりません。(本田哲郎訳)

 街で学生に「上杉鷹山」「山田方谷」「二宮尊徳」って人、知ってる?と漢字の名を見せても「それ誰?読み方わかんねー」と言われかねない。
 若いアメリカ人宣教師から聞いた話。キリスト教への関心について渋谷でアンケートをしたら「イエスキリストって復活した人でしょ」と何人もが知っていて驚いていた。「じゃ信じる?」と踏み込むと「うち、仏教徒だし」と体よくかわされた。
 ユダヤの若者に「ダビデ、ソロモン、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、イザヤ、エレミヤ」と聞いたらどうだろう。世界のどこに住んでいても、我が子に宗教、歴史、偉人、伝統への誇りを徹底教育している民族だから、答えは明白だ。

 さてステファノは、アブラハムから預言者に至る歩みを「私たちの」と前置きして話してきた。しかし、今自分を訴えている人々の信仰との違いを,はっきりと言わなければならなくなってきた。
 預言者の生きた言葉ではなく、石の律法と石の神殿にしがみついている。だから「かたくなで,心と耳に割礼のない人達、あなた方はいつも聖霊に逆らっています」と信心の方向転換を訴えた。そこはユダヤ人の急所だった。
 アブラハムの神は、信仰によって「祝福の源」にすると約束をされた。アブラハムは勇気ある信仰者であったが不信仰な面もあったし、ダビデもソロモンも同じ轍を踏んだ。
 私たちは神の導きに素直に従うとき祝福される。しかし自分の心のままに行動するとき大失敗をするものだ。その時こそ預言者、聖霊が私たちに迫り、祝福へ連れ戻そうとされる。
 にもかかわらず「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に(2テモテ4:3)」してしまう。
 「父はアブラハムだ」とユダヤ人が主張した時、イエスは「それならアブラハムの業をしなさい(ヨハネ8:39)」と言われた。ステファノは全身全霊で悔い改めを迫って殺された。殺しに賛成した人々の中に律法の学徒がいた。のちのパウロその人だ。
 本物の信仰が命がけの証になることをステファノは示している。教会は「証し」と「殉教」を同じ言葉で表し、イエスの最後の祈り(ルカ23:34)を受け継いできた。
 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)」「一粒の麦」は地に落ちて死に、多くの日の後に、豊かな実を結ぶことを、先輩たちは証ししてきた。

2015.3/22 私たちはこうして救われた(2)

旧約聖書 申命記18章
 18:15 あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。 18:16 これはあなたが、ホレブであの集まりの日に、あなたの神、主に求めたそのことによるものである。あなたは、「私の神、主の声を二度と聞きたくありません。またこの大きな火をもう見たくありません。私は死にたくありません。」と言った。
 18:17 それで主は私に言われた。「彼らの言ったことはもっともだ。 18:18わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。 18:19 わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。

新約聖書 使徒言行録7章
 7:17 神がアブラハムになさった約束の実現する時が近づくにつれ、民は増え、エジプト中に広がりました。 7:18 それは、ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者となるまでのことでした。
 7:19 この王は、わたしたちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。 7:20 このときに、モーセが生まれたのです。神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、 7:21その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです。 7:22 そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。
 7:23 四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。 7:24 それで、彼らの一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです。 7:25 モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。
 7:26 次の日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとして言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。』 7:27 すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。 7:28 きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』 7:29 モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をもうけました。
 7:30 四十年たったとき、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れました。 7:31 モーセは、この光景を見て驚きました。もっとよく見ようとして近づくと、主の声が聞こえました。 7:32 『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』と。モーセは恐れおののいて、それ以上見ようとはしませんでした。
 7:33 そのとき、主はこう仰せになりました。『履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。 7:34 わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。』 7:35 人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。 7:36 この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。
  7:37 このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』 7:38 この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。
  7:39 けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、 7:40 アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』 
 7:41 彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました。
 7:42 そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました。それは預言者の書にこう書いてあるとおりです。
 『イスラエルの家よ、/お前たちは荒れ野にいた四十年の間、/わたしにいけにえと供え物を/献げたことがあったか。 7:43 お前たちは拝むために造った偶像、/モレクの御輿やお前たちの神ライファンの星を/担ぎ回ったのだ。だから、わたしはお前たちを/バビロンのかなたへ移住させる。』


 モーセは….いのちのことばを受け、私たちに伝えてくれた方でした。このモーセに対して、われらの父祖たちは素直であろうとはせず、かえって反発して、エジプトに思いをはせるのでした。(本田哲郎訳)
 「親の心、子知らず」父である神は子である人間に絶えず心を傾け、無くてならぬもので養って下さいます。幼い時はその愛を素直に受け入れていたのに、自我が心の主人になってしまうと、目には見えない親の愛を忘れ、うっとうしいと思い、顔を避けて没交渉にさえなります。アダムとイブ、その子カインと続く物語に表れています。
 ステファノはモーセの時代を振り返ります。「神がアブラハムと交わした約束の時が近づくにつれ」と記されています。
 こんな状況があります。「いよいよ完成か」という時に、神の意地悪、神にだまされた、とさえ思うような誘惑や試練がやってくるのです。まっとうな親は子が<試練を乗り越える強さ>を身につけることを願うはずです。<誘惑と挑戦の違いを見極める知恵>も持たせたいでしょう。ところが金に余裕が出来ると親は子どもの要求するまま熟慮なしに与え、増長した子はもっと無理な要求をするようになり、間違いに気づいて対応を変えても、手遅れになることが多いのではないでしょうか。まさにステファノは<神との仲介者モーセ>に逆らう選民の堕落を思い出させました。
 ここで、道は決定的に分かれます。「どうすれば良いのか」真剣に自問し助けを求めるか、差し出された手を拒み、真実と心にふたをして、堕落の道を突き進むかです。
 愛をもって厳しいことを言ってくれる人はめったにいません。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を好んだ。それが、もう裁きになっている」(ヨハネ3:16-21)
 残念なことに100㌫、私たちは闇を愛する性分が捨てられません。自分の決心や力ではどうすることも出来ません。しかし、闇から解放される道が示されています。
 「光を受け入れ、光が来たと信じて」何度も何度もやり直す生き方です。人生の最後まで「未完成ではあるけれど、行くべき方向を目指して」歩く生き方です。
 モーセは民の運命を背負い、生まれてすぐに殺されるところでした。しかし、不思議な導きで王女の養子となり、国王の王子として育てられました。立派なエジプトの後継者となれる矢先に、あの事件を起こし、「人間を恐れて」荒れ野に逃亡したのです。
 40年後、逃亡先の荒れ野で神と出会います。荒れ野は人生の墓場ではありません。裸一貫の身になった時、神の声に出会い、神を信じるチャンスに恵まれる場なのです。

2015.3/15 私たちはこうして救われた(1)

旧約聖書 出エジプト記3章
 3:7 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。 3:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。 3:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。 3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
 3:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」 3:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

新約聖書 使徒言行録7章
 7:1 大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねた。 7:2 そこで、ステファノは言った。
「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、 7:3 『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。 7:4 それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。
神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、 7:5 そこでは財産を何もお与えになりませんでした、一歩の幅の土地さえも。しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです。 7:6 神はこう言われました。『彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐げられる。』 7:7 更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。』
 7:8 そして、神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイサクをもうけて八日目に割礼を施し、イサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長をもうけて、それぞれ割礼を施したのです。 7:9 この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。しかし、神はヨセフを離れず、 7:10 あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりました。そしてファラオは、彼をエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣に任命したのです。
 7:11 ところが、エジプトとカナンの全土に飢饉が起こり、大きな苦難が襲い、わたしたちの先祖は食糧を手に入れることができなくなりました。 7:12 ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まずわたしたちの先祖をそこへ行かせました。 7:13 二度目のとき、ヨセフは兄弟たちに自分の身の上を明かし、ファラオもヨセフの一族のことを知りました。
 7:14 そこで、ヨセフは人を遣わして、父ヤコブと七十五人の親族一同を呼び寄せました。 7:15 ヤコブはエジプトに下って行き、やがて彼もわたしたちの先祖も死んで、 7:16 シケムに移され、かつてアブラハムがシケムでハモルの子らから、幾らかの金で買っておいた墓に葬られました。


 兄弟たちよ、父たちよ、聞きなさい。(島津・逐語訳)
 丹精込めて育てたウイスキーの原酒倉庫が爆撃されようとした時、「命がけで守る」と主人公はその場に踏ん張ります。しかし社長を尊敬し慕う部下が「死んだらおしまいじゃ」と叱りつけて避難させた朝ドラの一場面。「命がけ」の価値あるものとは?
 当局にしょっ引かれて弁明するステファノ。大祭司を前にして「聞きなさい」と。これが被告の態度でしょうか。新約聖書で一番長い(10分で読める)説教です。いまは受難節、主イエスの十字架への道行き、苦難を黙想する期間です。主はかつて弟子たちに教えました。「総督や王の前に引き出され、彼らや異邦人の前で証をすることになる。その時、何をどう言おうかと心配するな。言うべきことは教えられる。話すのはあなたがたの中で語って下さる父の霊である」まさにステファノに起こった事です。
 主イエスは大祭司カイアファの前では沈黙を通され、しつこく自白を迫る大祭司に向かって「あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座し、天の雲に乗って来るのを見る」と言った後は沈黙されました。その一言が決定的な冒涜として死が宣告されたのです。
 一方、ステファノは語り続けました。それは自分たちの信仰の歴史でした。アブラハムに現れ、約束の地に導き、信仰と祝福の相続人として育てようとされた神の計画、忍耐をもって寄り添った神の慈愛についてです。しかしそれは耳に痛く、聞きたくない先祖の態度でした。旧約聖書のエッセンスを凝縮した民の栄光と挫折の物語です。
 「聞きなさい」生きるか死ぬかの時に、丁寧語で言われたりはしません。相手が誰であろうと、緊急を要するときは「命令形」です。あんな言い方をしてしまった、と後悔するのは、相手に猶予を与えて、結果的に死んでしまった時です。
 ステファノは大祭司をも含めて「今こそ主イエスの名によって罪を赦していただきなさい。イエスを死に定めた罪を、ローマ人の手によって十字架につけて殺した罪を、神の再三の呼びかけを無視した罪を、かたくなな心を」と、たたみかけるように、イスラエルの歴史に現れた神の救いの手と言葉を語ったのです。
 けれども結果はイエスと同じでした。この裁判には証人の他に、一般の人が傍聴していたのでしょう。ステファノの説教がイエスのことに及ぼうとする直前に「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりし」ついに彼を殺したのです。「こうして救われたのではなかったですか」ステファノの声が耳に響いています。

2015.3/8 神の好意と力にあふれて

旧約聖書 出エジプト記34章
 34:1 主はモーセに言われた。「前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。 34:2 明日の朝までにそれを用意し、朝、シナイ山に登り、山の頂でわたしの前に立ちなさい。 34:3 だれもあなたと一緒に登ってはならない。山のどこにも人の姿があってはならず、山のふもとで羊や牛の放牧もしてはならない。」
 34:4 モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。
 34:5 主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。 34:6 主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、 34:7 幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」
 34:8 モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、 34:9 言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」

新約聖書 使徒言行録6章
 6:8 さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。 6:9 ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。 6:10 しかし、彼が知恵と”霊”とによって語るので、歯が立たなかった。
 6:11 そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。 6:12 また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。 6:13 そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。
「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。 6:14 わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」
 6:15 最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。

 ステファノは神の好意と力をいっぱい受け、ふしぎなことやたいへんな奇跡を民のあいだで行っていた。(本田哲郎訳)
「人は変われる」ということを聖書はたくさん示しています。よく知られているのはパウロの物語です。今朝は、ステファノに起こった物語を聴きましょう。
 ステファノの名が知られるのは、神を信じる家族が急激に大きくなったころ、「霊と知恵に満ちて、証が知られている人」が七人選び出され「執事」が生まれたときです。
 この七人の名前は、どれもギリシャ人の代表的な名前です。イエスさまを信じる人たちの日常会話は、アラム語とギリシャ語、それにラテン語だったでしょう。
 なぜなら、主が十字架に付けられたとき、十字架の上に3つの言語で「ユダヤ人の王」と皮肉を込めてピラトが書かせたからです。(ヨハネ19:20)
 さて、ステファノは「恵みと力に満ちて」執事の仕事、つまりギリシャ系の未亡人や貧しい人々のお世話をしていました。それが、単に熱心で親切なだけではなく「すばらしい不思議な業と徴」を伴っていたからすごいことです。
 神さまの「不思議な業と徴」に対して必ず楯突く人が生まれるものです。いわば、サタンの働きです。その手先になった人々は、皮肉なことにステファノと同じように外国から帰郷し、熱心に神殿に通う人々でした。
 真っ正面から衝突するのは「全く立場が違う人」ではありません。ほとんど立場が同じなのに、決定的に違うことで衝突するのです。
 この後、彼はイエスや使徒たちのように「民の議会:サンヒドリン」に連れて行かれ、尋問を受けます。その時、彼は大胆な証しをしています。彼の歴史理解は預言者のようでした。だからこそ「こんな奴は殺してしまえ」と人々が歯ぎしりしたのです。
 自分にとって不都合な真実を突きつけられると、人は二種類の反応をします。耳をふさぎ認めない人。その不都合な真実の前に、打ち砕かれ新しくなる人です。
 私たちは、どちらでしょうか。私が考えるにステファノは自分を憎み迫害する人と同じような過去を持っていた人です。その過去の過ちをイエスの十字架と使徒たちの愛によって贖われ、新しい人となったのです。
 神は打ち砕かれ新しくなった人に、溢れるばかりの好意と力を注がれました。
 誰でも主のみ言葉によって打ち砕かれ、新しくなるなら、ステファノのように「神の好意をいっぱい受け、不思議なこと、奇跡を行な」えるのです(ヨハネ14:11-14)

2015.3/1 神の言葉は蒔かれ成長する

旧約聖書 出エジプト記23章
 23:14 あなたは年に三度、わたしのために祭りを行わねばならない。
 23:15 あなたは除酵祭を守らねばならない。七日の間、わたしが命じたように、あなたはアビブの月の定められた時に酵母を入れないパンを食べねばならない。あなたはその時エジプトを出たからである。何も持たずにわたしの前に出てはならない。
 23:16 あなたは、畑に蒔いて得た産物の初物を刈り入れる刈り入れの祭りを行い、年の終わりには、畑の産物を取り入れる時に、取り入れの祭りを行わねばならない。
 23:17 年に三度、男子はすべて、主なる神の御前に出ねばならない。
 23:18 あなたはわたしにささげるいけにえの血を、酵母を入れたパンと共にささげてはならない。また、祭りの献げ物の脂肪を朝まで残しておいてはならない。 23:19 あなたは、土地の最上の初物をあなたの神、主の宮に携えて来なければならない。あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない。
 23:20 見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。 23:21 あなたは彼に心を留め、その声に聞き従い、彼に逆らってはならない。彼はあなたたちの背きを赦さないであろう。彼はわたしの名を帯びているからである。 23:22 しかし、もしあなたが彼の声に聞き従い、わたしの語ることをすべて行うならば、わたしはあなたの敵に敵対し、仇に仇を報いる。

新約聖書 使徒言行録6章
 6:1 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。 6:2 そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。
「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。 6:3 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、”霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。 6:4 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
 6:5 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、他にフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、 6:6 使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
 6:7 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。

 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。
 上方いろはカルタの「蒔かぬ種は生えぬ」は誰もが知っている諺。英語の故事にも、Harvest follows seedtime.(収穫は種蒔きの後に来る)がある。
 主イエスの種まきの話は「よく聴きなさい。種を蒔く人が種まきに出て行った」で始まっている。蒔かれた種がどうなったか気になるが、マルコ福音書(4:3)では種蒔きそのものに重点があるように思える。そして、種の確かな「生命力」にも。
 聖霊に押し出されて、打たれても打たれても神の言葉を語った弟子たちの周りにはいつの間にか、大勢の弟子たちが生まれていた。一方で、衣食住を共にする仲間たちの間に問題が生じたことが、5章から紹介されている。今回は「苦情」について。
 「苦情」と訳されている言葉は「つぶやき」とも訳される。同様に「分配」は「もてなし」、「軽んじ」は「見過ごし」、「ないがしろ」は「後回し」、「好ましくない」は「御心にかなわない」と訳した聖書もある。
 仲間が増えたのは喜ばしいけれど、思いが「人との関係」に向き始めている。言葉や習慣の違いもあってか、ギリシャ語を話す仲間の未亡人が「見過ごされる」例が増えてきたらしい。そのような雰囲気が「つぶやき」として表れてきた。
 12使徒は、まず優先順位を仲間全体で確認した。私たち個人も家族の生活も教会などの共同性も、小手先の対処療法ではあとになってひどい破綻がくる。
 使徒たちは「祈りとみことばの奉仕」を第一にします。パンの分配方法ではなく、神の向き合う生活、その上で人に向き合う生活に順序を正しくしたこと。そのために、「あなた方の中から霊と知恵に満ちて」証をしている7人選び、使徒は「祈って、手を置き」ました。
 先週水曜日、T教会のI牧師が「押しかけて」来られて、デボーションの学びをして下さった。デボーションとは献身のこと。「祈りみことばの奉仕」のことです。特別な人だけのものではなく、クリスチャン全員が第一にすべきことです。
 まだ、始めたばかりですが、朝早く起きる習慣を身につけ、まず神の前に自分を置いて今朝の御言葉を聴く。語られている言葉を蓄えて一日を過ごす。確かな祝福です。