2016.5.1 新しい命が拡がった

◆ (エレミヤ24:1-7、使徒言行録13:34-43)
 ダビデは同時代の人々のために、神の意向を実行に移したのち、眠りにつき 父祖たちの列に加えられて、体は腐敗しました。しかし神が立ち上がらせた この方は、腐敗を見ることはありませんでした。(本田訳:使徒13:36-37)
 ことわざに「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」とあります。虎の皮、人の死はこの世に何かを残します。諺はこの世を傍観者の目でとらえた知恵の言葉です。
 しかし聖書の言葉は全く反対です。ダビデは名家の息子でしたが跡継ぎや王になる可能性はありませんでした。ところが神はダビデを選び、いかにも勇壮な兄たちをよそに、預言者サムエルによって「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言わせます。末息子が次期の王として油を注がれ(任職・即位)たのです。
 ダビデが選ばれた理由はただ一つ。神にまっすぐだったからです。彼は決して完璧ではなく、王になって恐ろしい罪さえ犯しました。また妻や息子の愛し方を知らず悲劇を招きました。けれども、最悪の時にこそ神を求め一切を神に告白して、その身を神の手に(意思に)委ねた人でした。そして死んで王墓に葬られ、朽ち果てました。
 信仰の手本のような人も神の前に罪人であり罪により「死んで朽ち果てた」のです。ダビデが残したものは少なくなく、偉大ですが、すべて過去のものです。
  一方、イエスは預言者の一人と言われましたが、神の独り子として受け入れられず、十字架で(木に架けられ呪われ)殺されました。誰の目にも神に見捨てられたと映りました。
 けれども、ここに神の深い愛と知恵があります。私たちは本当に大切な人を傷つけ、大切なものを破壊し、取り返しがつかなくなってはじめて、大切さ、尊さを知るという「手遅れを繰り返してしまう」存在です。それが罪の結果です。
 失敗と悔いのどん底に至って、人は捨てられるか、それとも引き上げられるのか。
 福音は「低みに立って、やり直しなさい」という招きです。すべての人に向けられています。低みを拒否する人には遠い声になります。しかし、イエスの声に引き寄せられ、赦されたと宣言され、信じて生きようと決心するする人には、朽ち果てない(腐敗しない)永遠の命の約束です。
 約束は信じる人にだけ意味を持つものです。「信じない人は既に裁かれている(ヨハネ3:18)」信じない人と信じられない人は違います。信じない人は警告されます。信じられない人は「留まりなさい」と忍耐と愛をもって諭されています。それに気づくときがチャンスです。