2016.4.24 この救いは私たちのもの

◆ (エレミヤ31:21-26、使徒言行録13:26-37)
同胞の皆さん、アブラハムの一族である方たち、また、あなた方の中にいて神をおそれる人たちもです。あの救いをもたらす出来事は、私たちに向けて起こったのです。(本田哲郎訳:使徒13:26)
 主イエスのご生涯と出来事は「私たちに向けて完成した」と、パウロは言います。
誰かに何かを差し上げる、ということはよくあることですが、熊本・大分の大地震の被災者に支援物資が送られる際に「嬉しい、助かった、感謝」と思えない物が混じる場合があります。「生もの、冷凍品、古着など」ちょっと考えれば分かることです。
 かつてバザーでもありました。くしゃくしゃで汚れた古着、汚れた雑貨、季節外れの品など。本当の求めは何か?。行為でも言葉でもお互いに考えなければと思います。
 「神はその独り子を与えるほど、この世を愛した」「彼を信じる人が一人も滅びないで永遠の命を受けるため(ヨハネ3:16-)」とイエスはこの世に来られました。けれども人間はイエスが来られた意味を理解しなかったのです。しかも、聖書に無知な人がでなく、権威あるはずの人々が聖書の意味を「知らなかった」のです。
 ところが神の愛はそうなると見抜いていながら実行されました。私たちは拒否されるかも知れない」という思いがあると「偽善的でテキトーな」物や言葉でその場をしのぐことがあります。自分が傷つかないためです。相手に本気で向かって行く人は、時に断定的に、時に一方的に、時に激しくなります。そして相手が理解できず反撃してきた時に受ける傷は深いものです。それでも、諦めないのが神のなさる方法です。
 私たちは、イエス・キリストのゆえに神の子とされています。そう信じられるとき、神の愛の深さ、尊さ、激しさ、そして赦しのプロセスと意味がだんだんと分かり、応えられるように成長させられていきます。そのプロセスは聖書がすでに教えていたことを学ぶのです。聖書を研究すればイエスが分かるのではなく、神に赦され、イエスに出会う(イエスの働きに遭遇する)ことによって聖書が分かってき、聖書をもっと知りたい、理解したいと願うようになれるのではないでしょうか。
 あぶないのは、エルサレムの指導者、律法学者のような形式主義者、そして一度はクリスチャンになったが神の愛から離れたような人間主義(まじめ頑張り屋)的な人。信仰を分かった気になることが、聖霊の働きに無感覚になるのです。
 聖霊よ、来て下さい。私たちが神の愛を心から感謝できるために。