2014.11/16 神に通らされる命への道

 わたしも女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから定めに反することではありますが、わたしは王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。(エステル記4:10-17)

 大祭司とサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。 (使徒5:12-26)


 「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」 と天使の命令。

 アナニヤ夫妻の事件以来、聖霊への畏れを経験した群れは「教会」と呼ばれます。その活動は、みことばの礼拝と12使徒が民衆の間に分け入ってなす癒しなどでした。
 ソロモンの回廊が礼拝の場、街は伝道と奉仕の場。教会には仲間が加わり、エルサレムだけでなく村々の民衆も「きっと、彼らは神のしもべだ」と言い合うようになりました。

 これに危機感を抱いたのが神殿の権威と商権をにぎっていた大祭司一族です。彼らは使徒たちを一網打尽にして牢にぶち込みました。ところが不思議なことが起きます。天使が夜の間に使徒たちを脱出させ、ご丁寧に牢の鍵は元通りにかけていきました。

 夜が明けるとすぐに、使徒たちは境内で「この命のことば」を語り出します。
 天使の命令だからと言うより、黙ってはいられなかったのです。牢からの開放、イエスキリストの十字架、罪の赦しと復活、聖霊の働き、すべて自分たちが経験した救いの証しです。
 神の救いのわざは、経験した人が語るとき人の心に伝わっていきます。その人は他の人の経験に共感します。つまり、聖書の物語も自分の経験と重ねて追体験できるのです。

 さて、エステル記は、紀元前5世紀のペルシャ王クセルクセス1世(アハシュエロス王)の時代を背景にした民族解放の物語です。
 ユダヤの孤児がペルシャ王に見初められ妃となって寵愛されます。王宮ではしばしば陰謀が繰り返され、その時々の身の振り方一つで出世することもあれば、身を滅ぼすことにもなる危険な場所です。王の寵愛を受けているエステル妃といえども、一つ間違えば命を落とすことになるのです。
 ある時、ユダヤ民族の絶滅計画が明らかになり、ユダヤ人のエステル妃に事の解決が求められます。しかしエステルは引き受けることをためらいます。
 その時、育ての親モルデカイが、「なぜ、口を閉ざすのか。この時のためにこそ(神によって)王妃に取り立てられたのではないのか」 と伝言を送ります。この言葉で彼女は決心を固め、王の前に立って事の次第を訴えたのでした。
 果たして形勢逆転。計画者ハマンは絞首刑となり、ユダヤ民族は救われたのでした。これが「プリム(くじ)祭」の故事です。

 これらは信仰の勇者の物語です。しかし聖書を丁寧に読んでいくと、名もない一人一人が神の守りの中で、その時代の決定的な役割を引き受けていることを発見します。力に対抗する勇気ではなく、素朴な信仰によって立ち振る舞い、神の働き、あるいは天使の助けと言えるような不思議な導きで「天命」を全うしているのです。
 私たち一人一人にも神のご計画があり、永遠の命への招きが確かにあります。その招きに応えて「救いを勝ち取る」のです。