2017.4.2 いわば、給仕する者として

 (イザヤ書57:14-21、ルカ22:21-34)
わたしは、高く聖なる所に住み、
心砕かれて、へりくだった人と共に住む。
「おかわりぃ」子どもが幼かったとき、喜んで応えていた。今いい歳をした娘から「半分おかわり」と椀を突き出されると何で?と思う。三度の食卓で妻にさしたる感謝も示さない私が、そんな心境になるこの頃です。
 食卓には交わりと教育という目的があると思います。食べることは肉体に欠かせませんが、食餌、孤食では空腹はしのげても心を温め、所属感を育むことはできません。
 最近、各地に開かれている「子ども食堂」は家族関係や社会の孤立化という貧しさの中でひもじい思いをしている子どもを具体的に知っている方々の愛情から生まれたと思います。そして、主イエスがその交わりの中にきっといてくださると思います。

 明日は十字架にかけられるという晩に、師であるイエスは、弟子たちと過越の食事をしました。過越は第一に奴隷から解放された歴史を魂に刻み祝う祭りです。その食事は子どもへ神の救いの歴史と信仰を継承し、友人を招いて同胞の結束を強める機会でもあるようです。
 一方、食卓は宗教的に清めれるべきと考えるユダヤ人は、接客に際して、その家の僕が客人の足を洗う水を提供し、手を入念に洗ったようです。また、穢れとみなした人とは決して食事を一緒にしなかったのです。民のリーダーたちがわざとらしい清めの儀式を好み人を分け隔てしたのに対し、ヨハネ福音書13章には師であるイエス自らが弟子の足を、一人一人、祈りを込めて洗って下さる姿があります。
 食事の終わりに、イエスは弟子の一人が裏切る(敵に引き渡す)腹を決めたと、はっきりと告げました。一体誰が?互いに顔を見合わせ、いつのまにか「誰が一番偉いか」と夢中になってしまった弟子たち。
 あの時の弟子たちも、現代に物質豊かさのあふれた世界に生きる私たちも、いったいイエスに何を求めているのでしょうか。社会の醜さや不合理を嘆き、理想を求めて従った弟子もいたでしょう。イスカリオテのユダはそのタイプだったかも知れません。
「神の国は近づいた」というイエスの宣言は「異邦人の間では王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と言われている。」そのような人間が互いに優位に立とうとして滅ぼし合っている時代の終わりを意味しているのではないでしょうか。
 イエスの弟子たちがなりたかった「上に立つ者」とは古い人間像で、今でも主流です。有能・実力者という実績を示し、それが虚像とは自覚できないで追い求め演じ続けられる人のことです。イエスが実証したリーダーとは「いわば給仕のように」食卓を整えて仕え、他者の秘められた価値を見いだし、そうして生まれる連帯や共存を、互いに愛し合える関係にまで育む人です。
 「あなた方の間ではそうであってはならない」「わたしはいわば給仕のように」という給仕という表現は「ディアコネオゥ:給仕する、執事」という教会を言い表すもう一つの表現です。