2023.10/22 神の思いは人を超えて

 先週は「老いと教会生活」というテーマで修養会をしました。共通の話題として、「老いの心配」「老いの迎え方」について実情と思いを語りました。特定の結論に結びつける意図はありませんが、それなりに、家族の理解と支えがあるから、教会の仲間と信仰生活を続けていけること、信仰の遺産をどうやって言葉や好意で渡していけるか等のヒントになったと思います。
 その点で創世記は大変興味ある物語です。時代背景は大きく違いますが、アブラハム、イサク、ヤコブが生身の人間として晩年をどのように過ごしたのか、神から授かった使命をどのように生き、子どもたちにバトンタッチしたかを見せてくれる壮大な物語です。
 ヘブライ人への手紙の11章13節以降には「これらの人々は皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげた」と記されています。人生の最後に「はるかに行き先を見定め、それが喜び」というのが信仰生活を支える力です。
 さて、父親に最後の時が迫っているという知らせがあってヨセフは息子のマナセとエフライムを連れて駆けつけました。兄たち10人も続きました。
 ヨセフに呼び寄せられたヤコブは、17年もエジプトで暮らしました。
「お前の顔を見ることができようとは思わなかったのに、何と神はお前の子どもたちをも見させて下さった」と感謝が溢れています。とうとう、お別れの時がやってきました。悲しい場面ですが、ヨセフには何より大切な仕事が残っていました。それは、父から祝福を受けることです。
 古代の人々にとって、あるいは、明日はどうなるか分からない世界に暮らす人々にとって、祝福とは「いのちの力」を授かることです。神からの祝福を支えに生きてきた親から、今度は自分や子孫が神から特別な力を授かって生きていくために「言葉による保証」がどうしても必要なのです。
 ヤコブは孫の二人を膝の間に抱きかかえて口づけをしました。それから、ヨセフは目がほとんど見えなくなっていた父親が間違わないように、長男のマナセをヤコブの右手側に、次男のエフライムを左手側に立たせました。
 この時、思ってもみないことが起きました。父が腕を交差して、右手をエフライムに、左手をマナセの頭の上に置いたのです。長男として特別な祝福を受けさせるため右側にマナセを立たせたのに、ヤコブは腕を交差させて左手を置いたのです。思わずヨセフは「お父さん、それは違います」と言って、父の右手をマナセの頭に移そうとしました。
 ところが、父はそれを払いのけて「いや、ちゃんと分かっている。間違ったのではない。この左手のマナセも祝福されて大きくなり繁栄するに違いない。しかし、弟のエフライムは兄より大きな祝福を受け継ぐのだ」と言って祝福の祈りをしました。20節以下です。直訳すると、
「お前たちの名をもって、イスラエルは祝福するであろう。神があなたをエフライムとマナセのように据えて下さるようにと。」つまり、この孫への祝福はずっと後の子孫の間で、このように兄と弟が入れ替えられたように、人の思惑とは違った仕方で、あなたを祝福する」という預言にもなりました。
 振り返って見れば、神はアブラハムの長子イシュマエルを退けて、2番目の息子イサクを祝福しました。ヤコブは父イサクを欺いて兄エサウから長子の特権を横取りしました。その意味が分かるためには長い長い苦労の人生が必要でした。
 そして、ヨセフはマナセが右手で祝福されることを願いましたが、弟のエフライムが右手の祝福を授かったのです。
 こういう逆転の物語は旧約聖書に沢山あります。ダビデは8人兄弟の末っ子でしたが、ユダ王国の王になり、信仰においてはイエスの先祖となりました。
 臨終の床であった出来事は、人が神の祝福に関わるときに、決して無視してはならない警告を示しています。神の聖なる祝福を、人間の序列や利害で与えたり、受けるべき人から奪ってはならないという、神の御心が示されているのではないでしょうか。
 さらに別の視点から考えると、この時ヨセフはファラオに次ぐ権力者であり、国家祭司の一族になっていますから宗教の頂点にも立っていたのです。
 そういう意味で、死にかけている羊飼いの老人から祝福される必要はなかったはずです。ところが、父からの祝福を何より重要と考えたことは、この世の権力者に上り詰めながらも父の神、イスラエルの神を忘れたことがなかったからではないでしょうか。
 それゆえに、異境の地で生まれ育った二人の息子に、世を去っていく祖父の姿をしっかりと見せ、目には見えないけれども歴史の神の存在を教えたかったのだと思います。新共同訳では省略されているのですが、「見よ」という注意を喚起することばが、1節、2節、21節と3回も挟まれています。
 さて、旧約聖書の世界では、祝福は父から子へ、男から男へという物語になっていますが、イエス・キリストの到来によって、民族も、身分も、男女の違いも越えられています。おばあちゃんの信仰を見て息子が信仰に出会い受け継ぐことも、おじいちゃんの信仰を見て、孫娘や息子の連れ合いが信仰の生活に入ることもたくさんあります。血のつながらない人々の間で、信仰が受け継がれていくことも、珍しいことではありません。
 神は混沌とした世界に光をもたらし、正義のないところに神さまの御心を打ち立てられます。そのために、この世で無に等しい身分の人から世界を変えていく人を選び出し、経済力や知識で人を支配する者を最後には追い出されます。
 私たちの幸いは、この神の自由な決定と選びにかかっているのですが、その真実から目をそらすのが人間であり、それが罪の姿なのでしょうか。
 最後にパウロの言葉を聴きましょう。コリント教会で、モーセの掟とキリストの福音の間で揺れ動かされていた信徒たちに「あなた方は、キリストご自身があなたがたの心の板に書いた手紙です」と言っています。このたとえは、2枚の石の板に刻まれ重んじられていた十戒に象徴される律法に「ねばならない」と受け取って「文字に縛られて」いないで、キリストから送られる聖霊が「心の板」に祈りを通して示される生きた律法によって生きなさいと励ましているのです。誰の推薦も必要ありません。キリストに選ばれたという信仰が大事なのです。
 誰でも肉体も気力も衰えていきます。しかし、土の器ではありますが、神の宝を宿し、そこから発せられる光が、私たちのひび割れや欠けから漏れ出すように、欠点でさえ神の恵みを証しする光として用いられ、この世を照らす小さな光となるのです。本当に感謝な人生です。