◆(詩篇1、マタイ2:1-12)
「天を見上げ星を数えられるなら、それを数えよ。お前の子孫はこのようになる」先が見えなくなっていたアブラムはハッと気づいたはずです。神にできないことは何もない、と。この啓示をへて、彼の信仰は新しい段階「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」に入りました。(創世記15章)
星の光には不思議な力があります。昔から遊星や星座の運行は地上の運命と結びついていると信じられ、観察し研究する学者(マギ)たちは王や将軍の参謀でした。
マタイ2章には三つの生き方が描かれています。
第一は「ユダヤ王の星が昇るのを見たので」エルサレムへ向かったマギたち。主要な街道はありましたが長距離の旅は命がけで費用も莫大でした。そこまでしてなぜ、ユダヤ人の王を探し訪ねたのでしょうか。それは地上の運命(世界平和)を左右する「真の王」を確認するためでした。
第二はヘロデ王。イドマヤ人でありながらローマ皇帝に取り入ってユダヤ国守の座に居座り、たとえ后や王子であっても反逆の嫌疑があれば剣にかけた血なまぐさい男です。本当に「ユダヤ人の王」が生まれたのなら、まさに政敵です。「見つかったら教えてくれ。私も行って拝もう」の言葉とは裏腹に殺意を秘めていました。
第三はエルサレム市民や祭司長たち律法学者たちです。ヘロデを軽蔑していながら、国守の一挙手一投足に怯えて従っていたのです。律法学者は聖書の解釈に熱心で些末な規則を次々に生み出しましたが、真理を探求し行動する人ではありませんでした。
ところで、詩篇1篇によれば「さいわいなことよ」と神に喜ばれる生き方が書いてあります。避けるべき道、選ぶべき生き方が。
どんなに忙しい日々にも自由にできる時間があるはずです。その時間をどう使うかによって信仰生活は違ってきます。早朝に聖書を読み、ちょっとした時間を祈りの時間とし、感謝の祈りをして眠りにつく。この習慣を身につけると、嫌なことや苦しいことがあった日でも「幸せだなー」と思える一日に変わるはずです。
もし、ヘロデもことば通りに行動し、幼子の笑みに触れていたなら彼の晩年も変わったかも知れません。律法学者もエルサレムの市民も「ユダヤ人の王はどこに」という問いを自分のものにしていたなら、無益なおびえから解放され平和な日常を手に入れていたかも知れません。
マギたちは星に導かれて始めた旅の目的がかなっただけでなく、真の主に出会い、みことばを知って、それまでとは違う真理探究の人生が拓かれたに違いありません。
聖霊(星)に導かれた日々を感謝し、日々主に出会う喜びを求め、主のみことばを糧として、新しい年の人生を一緒に歩んでいきましょう。祈りの家で神の家族として。