2016.3/20 あなたなら、どうしますか

◆ (創世記45:1-8、マルコ12:1-12)
 これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。
 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に放り出してしまった。
 さて、このぶどう園の主人はどうするだろうか。
 しゅろの日曜日です。マルコ福音書は旅の最後の1週間を一日ごとに記しています。
 一行はエリコを出発し、午後にエルサレムに入られました。主イエスが、用意されたロバにまたがり城門をくぐられた時、過越祭の巡礼者たちは上着やナツメヤシ(しゅろ)の葉をイエスの足下に敷いて「ホサナー、ホサナー」と叫び続けました。「今、救って下さい」という意味です。
 ところがその人々が、5日後に祭司長たちに扇動されて「十字架につけよ、十字架につけよ」と総督ピラトを脅す群衆に変貌するのです。
 受難週は「わたしの罪」を覚え「イエスの苦難と赦し」に思いをはせる「終末の時」です。
 イエスの「終末」の喩えは、聞く人の立場を明らかにします。心で聴いて神さまに顔を向ける人となるか、聞き流して神さまに背を向け続けるかのどちらかです。
 このたとえ話では農夫は人間。主人は神。息子はイエス。ぶどう園は神が手塩にかけて手入れした世界です。
 私たちは「所有」にこだわる時、争いを引き起こしてしまいます。土地も食べ物も水も、すべてを分かち合うとき余りが生じるほど充分です。
 農夫たちに息子を殺されたぶどう園の主人はどうするだろうか、という問いです。主人は報復するに違いないとイエスは言われましたが、真意は全く違いました。人間なら2倍にして報復するでしょう。しかしイエスは十字架の上で「主よ、彼らをお赦し下さい。何をしているのか知らないのです(ルカ24:34)」と祈られました。
 「今すぐ救って下さい」の叫びは、人間世界の切実な願いです。しかし、神さまは人の要求とはまったく違う方法や時期に、救って下さる方です。救われた経験を持つ人は、ただ、起こった出来事のすべてに驚きをもって納得し、讃美するだけです。
 「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」プロの大工が使い物にならないと投げ捨てた石、それがイエスです。
 神は人間の価値観とはまったく違う方法で不動の家を建てられる大工だというのです。隅の石は日本では「大黒柱」のことです。
 創世記は「旧約の福音書」とも言われています。ヨセフ物語はその珠玉です。アブラハムが愛した末の息子、ヨセフの苦悩と栄光を通して、他の息子たちと子孫の救いが語られているのです。
 その鍵は、兄たちの罪の気づきにありました。罪のありようを教えてくれるのが十字架のできごとです。救いの十字架は復活につながっています。