2015.12.6 低い心、平和への道

◆(イザヤ60:1-7、ルカ福音書1:67-80)
道をふみはずしたことへの赦しは、人の痛みを知る神の心によるもの。
この神の心によって、天空のあけぼのの光は私たちを訪れ、
暗闇と絶望にしゃがみこんでいた私たちを照らし出し、
私たちの歩みを平和に向けてまっすぐにしてくださるのだ。
(本田哲郎訳:ルカ1章78-79節)
 クリスマスソングの季節。コンビニや公共施設のBGM。第九の合唱も間近です。ヘンデルのメサイヤは心を洗います。クリスマスコンサートをする教会もあります。
 意外な歴史を知りました。1785年にヘンデル生誕百周年を祝う演奏会が何度も行われていたとき、英国国教会牧師ジョン・ニュートン(アメージング・グレイス作者)は、メサイヤがブレイクしていることに疑問を感じ、歌詞に沿った50回の説教をしました。
 オラトリオという手法で”聖書”が人々に近づいたことは良かったのですが、演奏を楽しんでいる多くが、歌詞である”みことば”を深く味わう事がなく、歌詞によって語りかけられたイエスの声、聖霊の声を聞こうとしていないと感じたからだと。
 50回目の説教では「このオラトリオを何回も聞いた多くの人が、贖い主の愛に気づいておらず、主の命令に従うように導かれていないことに深い憂慮を感じている」と述べたそうです。
 メサイヤ冒頭の「慰めよ、慰めよ」はイザヤ書40章のみことばです。神に背を向けて堕落し続けたエルサレムが、今や神の懐に帰るように招かれている。その説教を語る牧師ニュートンの心には「驚くべき恵み、なんと胸をときめかす音の響きか。私のような無頼漢さえも救いたもうとは。私はかつて失われていたのですが、今や神に見いだされ、かつて目が見えなかったのですが、今や見ることが出来ます」と、かつての生きざまと神の赦しの招きが重なっていたに違いないと思います。
 ところで「御前に正しく生きてきた」祭司ゼカリアは、天使の前で、ここぞと言う場面で神の真実を信じられませんでした。けれども10ヶ月(子どもの誕生まで)の沈黙を強いられた後、聖霊に満たされて、神の預言がほとばしるように口から出てきたのです。
 「ほめたたえます。イスラエルの神、主を。主はその民を訪ねてくださり、代価を払って開放して下さった。敵の手から救い出された私たちが、恐れなく主に仕えることができるため、生涯、主の前で敬虔に、開放をめざして生きることができるため」
 ゼカリアがしゃべれなくなったのは神による強制です。しかしこの沈黙を過ごしたことによって低い心が得られたのです。
 水が低いところへ流れるように、神の恵みも低い心に注がれます。聖霊によって示された神との平和(和解)を受け入れ、沈黙してみことばを待ち、そして生きている限り主に従いたい。