2015.2/8 歴史を導く神のことば

旧約聖書 出エジプト記2章
 2:11 モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。 2:12 モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。
 2:13 翌日、また出て行くと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが、「どうして自分の仲間を殴るのか」と悪い方をたしなめると、 2:14 「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った。
 2:15 ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした。

新約聖書 使徒言行録5章
 5:33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。
 5:34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、 5:35 それから、議員たちにこう言った。
 「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。 5:36 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。 5:37 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。
 5:38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、 5:39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」
 一同はこの意見に従い、 5:40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。
 5:41 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、 5:42 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。


 「ああいう思い、ああいう生き方が人間から出たものなら自滅するだろうし、もし神から出ているものであれば、彼らを滅ぼすことはできません。まかり間違っても、神への反逆者になっていたということに、ならないで下さい。」 (本田哲郎訳)

 モーセは若い頃、労働現場で同胞のユダヤ人がエジプト人からひどい扱いを受けているのを知り、同胞愛と正義感からエジプト人を殴り殺して死体を埋めてします。
 ところが皮肉なことに、同胞に目撃されていたのです。モーセは処罰を逃れるため遠いミデアンに旅立ちます。
 この物語から二つの真理を見いだします。一つは、感情的な正義はひどい罪を犯すということ。にもかかわらず、神はモーセをミデアンに逃し、そこで召命の時までさまざまな訓練をしたということです。

 「神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできない」という真理は、立場を代えれば「神が見方であるなら、誰が私たちに敵対できようか(ローマ8:31)パウロの言葉」という勝利の保証でもあります。
 ガマリエルは「ファリサイ派の律法教師」です。当時ファリサイ派は二つの学派に分かれていました。その代表はラビ・シャンマイとラビ・ヒレルです。シャンマイ派はとにかく律法に厳格、融通が利かないゴチゴチ頭。ヒレル派は非常に寛大で建前ではなく律法の精神を日常に生かそうとしました。
 ガマリエルはヒレルの愛弟子です。そのガマリエルの愛弟子が、後のパウロです。若きパウロはシャンマイ派であるかのようなガチガチの律法主義者だったのですから、人生は分からないものです。
 ガマリエルは「使徒たち」を退室させて事柄を慎重に扱うよう勧告し、その頃起こった革命運動やテロリストたちを例に挙げ、今彼らはどうなったか問います。そして「あの者たちから手を引きなさい。放っておくがよい」と方法を示します。
 彼の真意は「あれほど禁止し、捕縛して牢に入れてもなお、口をふさぐことがない」熱心さはどこから来ているのか。「もし人間からなら」やがて廃れる。しかし「神から出たものなら」どうなるか。元の表現では「神から出たものなのだから」を意味しています。
 歴史とは、人間の思いや行動、栄枯盛衰、神を求め神に背いてきた足跡です。
 神がいるならどうしてこうなんだ、と言いたい人の気持ちも分かります。けれども、心を静めて現実を観察するならば、赦しと恵みに囲まれていることが分かるはずです。
 神の赦しと祝福の言葉はすぐ隣、目の前にあり、神の愛は誰にでも注がれているのです。