2015.2/ 2 救いの原点

旧約聖書 出エジプト記1章
1:15 エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。 1:16 「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」 1:17 助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。
 1:18 エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」 1:19 助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
 1:20 神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。 1:21 助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。
 1:22 ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」

新約聖書 使徒言行録5章
5:27 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。 5:28 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」
 5:29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。 5:30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。 5:31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。 5:32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」
 5:33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。

「人間によりも神に従順でなければなりません。あなたがたが手を下して木にはりつけにしたイエスを、わたしたちの父祖の神は、立ち上がらせてくださいました。」(本田哲郎訳)
 カインがアベルを殴り殺したことが創世記4章にあります。神がカインに「アベルはどこか」と尋ねると、カインは「知りません、私は弟の番人でしょうか」と皮肉っぽく話をそらしてしまいます。
 英語でresponsible for は応答することですが、カインは神の問いに応えようとせず、抑えきれない感情で行動しました。
 もし、カインが「罪が戸口で待ち伏せしてお前を求める。お前はそれを支配せねばならない」と、なぜ言われるのか考える余裕があったなら、アベルへ抱いている嫉妬と殺意の心を自覚して、気持ちをコントロールできたかも知れません。神の言葉に注意を払わなかった結果、カインは人殺しという大きな罪を犯してしまったのです。
 一方、神を畏れない人は人殺しも平気です。モーセが生まれる前、エジプト王は「ユダヤ人に男児が生まれればナイル川に捨て、女児なら生かしておけ」と命じます。世間が王を怖れて従う中で、神を畏れ、王の厳命に反して命を救う人がいたのです。
 何百万人というユダヤ人をアウシュヴィッツ絶滅収容所へ送り込んだアイヒマンという将校が大戦後にイスラエルの裁判所で尋問された時「わたしは上官の命令に従った一官僚に過ぎず、ユダヤ人の死に責任はない」と主張しました。軍人や政治家が裁かれる時は同じような責任逃れをします。しかし神は「血の責任を必ず問う(創9:5)」と言われます。血を流した責任は誰が負わねばなりません。
 さて、ペトロたちは早朝からイエス復活の説教をしていました。前の日「その説教は二度とするな」と投獄されたのですが、夜中に天使が牢から助け出して「この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と命じたからでした。大祭司たちの「説教禁止」と天使の「命の言葉を残らず告げよ」のどちらに従うかは、命がけの決断であり、神への信頼しだいです。
 大祭司たちはイエスを殺した「血の責任」が責められていると受け取りましたが、むしろペトロは、イエスを裏切った臆病者だったが、復活されたイエスに赦されて立ち直っただけでなく、天使にも助けられ、証言しないではいられなかったのです。素直になって悔い改め(方向転換して)イエスに赦しを乞い、救い主と信じて命を受けなさい、と議会の重鎮たちを招いているかのようです。
 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、世を救うため。御子を信じる人は裁かれない。信じない人は既に裁かれている」とヨハネ3章に記されている通りです。
 復活のイエスは、救い主として、聖霊として私たちに臨み、イエスを信じて新しい命に生きるられるように助けて下さいます。日々新しく信仰を始めましょう。