2015.3/29 この罪を彼らに負わせないで下さい

(イザヤ53:6-12、使徒言行録7:44-60)
ダビデは神の好意を得ていました。彼はヤコブの家(イスラエル)のために、まともな幕屋が欲しいと願いました。
そして、ソロモンがダビデの意思をついで立派な建物を建てました。しかし、崇高なお方は、人間の手で造ったものにはお住みになりません。(本田哲郎訳)

 街で学生に「上杉鷹山」「山田方谷」「二宮尊徳」って人、知ってる?と漢字の名を見せても「それ誰?読み方わかんねー」と言われかねない。
 若いアメリカ人宣教師から聞いた話。キリスト教への関心について渋谷でアンケートをしたら「イエスキリストって復活した人でしょ」と何人もが知っていて驚いていた。「じゃ信じる?」と踏み込むと「うち、仏教徒だし」と体よくかわされた。
 ユダヤの若者に「ダビデ、ソロモン、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、イザヤ、エレミヤ」と聞いたらどうだろう。世界のどこに住んでいても、我が子に宗教、歴史、偉人、伝統への誇りを徹底教育している民族だから、答えは明白だ。

 さてステファノは、アブラハムから預言者に至る歩みを「私たちの」と前置きして話してきた。しかし、今自分を訴えている人々の信仰との違いを,はっきりと言わなければならなくなってきた。
 預言者の生きた言葉ではなく、石の律法と石の神殿にしがみついている。だから「かたくなで,心と耳に割礼のない人達、あなた方はいつも聖霊に逆らっています」と信心の方向転換を訴えた。そこはユダヤ人の急所だった。
 アブラハムの神は、信仰によって「祝福の源」にすると約束をされた。アブラハムは勇気ある信仰者であったが不信仰な面もあったし、ダビデもソロモンも同じ轍を踏んだ。
 私たちは神の導きに素直に従うとき祝福される。しかし自分の心のままに行動するとき大失敗をするものだ。その時こそ預言者、聖霊が私たちに迫り、祝福へ連れ戻そうとされる。
 にもかかわらず「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に(2テモテ4:3)」してしまう。
 「父はアブラハムだ」とユダヤ人が主張した時、イエスは「それならアブラハムの業をしなさい(ヨハネ8:39)」と言われた。ステファノは全身全霊で悔い改めを迫って殺された。殺しに賛成した人々の中に律法の学徒がいた。のちのパウロその人だ。
 本物の信仰が命がけの証になることをステファノは示している。教会は「証し」と「殉教」を同じ言葉で表し、イエスの最後の祈り(ルカ23:34)を受け継いできた。
 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)」「一粒の麦」は地に落ちて死に、多くの日の後に、豊かな実を結ぶことを、先輩たちは証ししてきた。