2015.1/25  神の恵みによって育つ

出エジプト記2章
 2:1 レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。 2:2 彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。 2:3 しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
 2:4 その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、 2:5 そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。 2:6 開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。
 2:7 そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」 2:8 「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。 2:9 王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、
 2:10 その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」

ルカによる福音書2章
 2:39 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。 2:40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

「親子は、主の律法どおりにすべてをすませると、ガリラヤの自分たちの町ナザレにもどった。幼子はたくましく成長し、知恵にみち、神の好意がこの子に向けられていた。」
(本田哲郎訳 ルカ2:39-40)
 ユダヤの家庭に子どもが生まれると、その喜びは大きく、村中にうれしい出来事を知らせ、親戚はもちろん友人や隣人を招待してあらん限りのごちそうをするそうです。
 「子どもは神からたまわった嗣業(分け前)であり、胎の実は報いの賜物」と詩127篇が告げているとおり、天の恵み、神からの祝福のしるしです。
 とりわけ初産で男児が誕生すると「ベコル」と呼び「父の勢いまた命の力の初穂(創49:3)」として未来の家長と定められ、相続権と同時に一族の繁栄に責任を負うのです。
 イエスも8日目に割礼を受けてユダヤ人の「印」を付けられ、40日目に初子として神に献げられました。
 一方、現代は「子どもを作る作らない」「いるいらない」とか平気で言い、生殖医療の進歩で「デザイナーズ・ベイビー」すら望まれているのです。悩ましい時代です。
 イエスの父ヨセフは「正しい人(マタイ1:19)」と伝えられています。伝統的な価値観を持つ人だと思いますが、律法主義者ではなかったでしょう。
 「この親にしてこの子あり」と言いますが、生活の背骨として律法には厳しく、同時に「何が神の意思で、何が善であるかを見分ける知恵」つまり、柔軟さも幼い頃から示して育てたのでしょう。
 イエスは成長し、会堂(シナゴーグ)で律法を学び、両親からは信仰生活を学びました。それは暗記と実行でした。
 神の意思をあらわす律法を徹底的に暗記し、成長に応じて実行させられたのです。それを繰り返すことで、苦労し悩みながらも主の律法の深みを味わい、本当の父は神であると確信していったのです。
 それはちょうど主イエスが「わたしを主よ主よと呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか(ルカ6:46)」「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される(ルカ7:35)」と教えられているようにです。
 どのような人になるかは、生まれながらの気質や環境の影響が大きいと考えられますが、何より「愛されていること、その存在に関心と好意を持たれていること」が不可欠で「神から授かり、託された子」として大切にすることを神は期待されています。

 今朝から、数年ぶりで子どもの礼拝を始めます。どうぞ、主の恵みに包まれて子どもたちが成長していけるようにお祈り下さい。最も良いものをおささげください。

2015.1/11 祝福を手渡す人生

旧約聖書 創世記48章
48:15 そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。 48:16 わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に/祝福をお与えください。どうか、わたしの名と/わたしの先祖アブラハム、イサクの名が/彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に/数多く増え続けますように。」
 48:17 ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。 48:18 ヨセフは父に言った。「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」
 48:19 ところが、父はそれを拒んで言った。「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。」 48:20 その日、父は彼らを祝福して言った。「あなたによって/イスラエルは人を祝福して言うであろう。『どうか、神があなたを/エフライムとマナセのように/してくださるように。』」彼はこのように、エフライムをマナセの上に立てたのである。
 48:21 イスラエルはヨセフに言った。「間もなく、わたしは死ぬ。だが、神がお前たちと共にいてくださり、きっとお前たちを先祖の国に導き帰らせてくださる。 48:22 わたしは、お前に兄弟たちよりも多く、わたしが剣と弓をもってアモリ人の手から取った一つの分け前(シェケム)を与えることにする。」

新約聖書 ルカによる福音書2章
2:36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、 2:37 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、 2:38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

「アンナという女預言者がいた。非常に歳をとっていて、若いとき嫁いでから7年間、夫とともに暮らしたが、夫に死に別れ、84歳になっていた。」(ルカ2:36-37)
 乳児イエスがシメオンに抱かれて祝福されたとき、すぐそばにアンナもいた。イエスに近づくと(その瞳は喜びに輝き、力強い)感謝の祈りがくちびるからほとばし出た。すぐさま祈りの仲間たちに、いま見た赤子のこと、示された救いについて語った。
 イエス誕生のできごとは高齢者の信仰を受け皿として語られている。歳をとり弱ると、かえって若い頃には見えなかった、感じなかった何かが分かるのだろうか。
 先日、「止揚」の「終刊号」が送られてきた。知恵に重い障害がある人たちが暮らす止揚学園と学園を支える人たちを結ぶ小さな雑誌だ。
 代表の福井達雨さんはもう82歳になられた。私は若い頃に「アホかて生きているんや」を読んで、生きている価値を問われるような強いショックを受けた。
 福井さんは42年間を振り返りながら「老人になる喜び」について書いておられる。「もっと深みを持った老人としての歩みをせんとあかんのやないかなあ」 齢をとる寂しさの原因を、あれやこれやと探りながら、更に自分の心に問い、
 「齢をとってくると包むものが弱くなってきて、その包みを破って心の奥深くに存在していた寂しさが一気に吹き出してくるのだと思います」「寂しさは喜びや楽しさ、悲しみや苦しみよりも、もっと深淵な心の動き、心の本質なのです」「その寂しさや弱さは闇を与えるものではなく、若いときには持てない新しい人生を目の前に出現させ、齢をとって持つ不安や悲しみを解き放って生きがいを持たせてくれるものなのです」「この頃、希望を捨てず一歩一歩と前に進む勇気を創り出してくれるものは信仰以外にあらへん。僕はイエスさまに信仰を与えられて、ほんまに良かったなあと思い、感謝することが多くなってきました。この心は、若い、強い時は余り持てなかったものです」「82歳になり、寂しさに心を揺さぶられるようになり、信仰が生き返ってきました」「イエスさまが与えて下さった寂しさ(それがイエスさまの愛なんや)が、これからの未来の輝く光となっていく、真の寂しさは、ほんまに素敵なものやなあーと、しみじみと実感し、未来に心を躍らせている私です」と。
 イスラエル(ヤコブ)は、波瀾万丈の人生を振り返り、ヨセフと孫に祝福を手渡していく。それは若い時に追求した知恵と力で「勝ち取っていく祝福」ではなく、最後まで自分の羊飼でいて下さった、神に対する深い信頼と感謝で悟った「祝福」だった。

2015.1/4 神が用意して下さる人生

旧約聖書 創世記22章
22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、 22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
 22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
 22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。 22:15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。 22:16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、 22:17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。 22:18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

旧約聖書 レビ記12章
 12:1 主はモーセに仰せになった。 12:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。 12:3 八日目にはその子の包皮に割礼を施す。 12:4 産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。
 12:6 男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。

旧約聖書 出エジプト記13章
 13:1 主はモーセに仰せになった。 13:2 「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」

新約聖書 ルカによる福音書2章
2:21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
 2:22 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。 2:23 それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。 2:24 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
 2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 2:26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 2:27 シメオンが”霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。 2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
 2:29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。 2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 2:31 これは万民のために整えてくださった救いで、 2:32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
 2:33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 2:34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 2:35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」


「さて、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は解放を志す敬虔な人で、イスラエルがふるい立つ時を待ち望んでいた。そして主であるキリストに会うまでは死なない、と聖霊の示しを受けていた」
(本田哲郎訳 ルカ2:25~ヌンク・ディミットゥス)

 ルカの記録によれば、イエスが生粋のユダヤ人で、しかも貧しい庶民の長男であったこと(レビ記12章、出エジプト記13章)が、生後40日目に受けられた赤児奉献のようすで示されている。
 ここに証人として二人の高齢者がいた。84歳の女預言者アンナ、シメオンもかなりの歳だろうから、若い頃にハスモン王家の血なまぐさい相続争いを聞き、内紛に乗じて都になだれ込んだポンペイウス将軍の軍旗を情けない思いで見たに違いない。
 更に悪いことに、エドム人のヘロデが漁夫の利で王座につき、ユダヤをほしいままにするさまに「神よ、なぜなのですか」と絶望したかも知れない。
 だが、どの愛国運動もエルサレムに平和をもたらすことはなかった。そして、ずいぶんと時が流れた。

 「置かれた場所で咲きなさい」の渡辺和子さん(修道女・ノートルダム清心学園理事長)が新春対談でこんな風(一部略)に語っておられた。
 「膠原病の治療では薬の副作用で骨粗しょう症になり身長が(16センチも)縮んでしまいました。でも発想を転換することも習いましてね。『なぜ』ではなくて『何のために』か。
 最初、なぜ私が、なぜ、なぜと神様に不平を・・でも病気を経験することによって、ある学生が自殺未遂をした時に『私もうつ病になったことがある』と寄り添ってあげることができた。
 あの時苦しんだのは、そのことのためだったと思えたのです。・・そういうことを『人生の穴』と表現しています。
 病気やもめ事、失敗など様々な理由で、私たち一人一人の生活や心の中に『人生の穴』がぽっかり開くことがあります。すきま風が吹いてきます。
 だけれども、穴が開くまでは見えなかったものが、穴が開いたがゆえに、その穴から見えるということがある。思ってもみなかったことが尊いと思えるようになった、そう感じることがある」と。

 シメオンはいつものように境内にきて座った。その時「聖霊に導かれて」とルカは証言している。
 いつの日か、祖国と同胞に確かな光が昇る、そんな希望が示されていたらしい。だが世間が期待する形ではない。
 では、どんな形で? マリアから赤児(無力の徴)を託されて抱いたとき突然分かった。
 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりに、この僕を安らかに去らせて下さいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。」
 シメオンの人生は「何のために?」
 キリストを待ち、キリストに出会い、万民に証しするためにあった。私たちも「本当に幸いな人生」を同じように締めくくれる。

2014.12/28 イエスという名

旧約聖書 イザヤ書 61章1-3節
61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。 61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め 61:3 シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。

新約聖書 ルカによる福音書2章21節
 2:21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。


「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい(1:31)」
「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた(2:21)」
 今日から降誕節です。受難節の始まり2/18までの8週間「人間として生まれた(受肉された)神の独り子イエスさまの救いを黙想する期間」です。
 誰にでも名前があります。戸籍名のほか、通名で暮らす人もいます。誕生から14日以内に出生届を出すよう戸籍法第49条に定められています。戸籍に登録されると日本国民として権利と義務が生まれます。
 ところが今、500人以上の無戸籍の人がいます。出生届を出さない、出せない事情はさまざまですが、乳児検診も小学校入学も健康保険も住民としての諸権利も保障されません。アルバイトや就職も結婚も、部屋を借りるにも壁が立ちはだかります。海外旅行は不可能です。納税義務だけはあります。
 さて、マリアが産んだ子はヨセフに認知され、生後8日目に割礼が施されました。あらかじめ天使が告げたとおりにイエスと名付けられ、神の民の一員になりました。長男として神殿税が課せられ、ローマ帝国からは人頭税が搾り取られます。天上の神の子がユダヤ人として生まれ、ローマの支配下で重税と理不尽な扱いを受けながら家族を養う責任を引き受けられたのです。
 神が独り子を地上のマリアとヨセフに託すことは大きな賭でした。二人の信仰と勇気と知恵が試されました。けれども互いを信頼し、それぞれの立場で決断したとき、神は命じたことをやり遂げられるように、不思議な助けと勇気を与えてくれました。
 イエスはギリシャ発音でイェシュース(カトリックではイエズス)、ユダヤ名はイェホシュア、英語ならジーザス。「ヤハウェ(神)は救い」という意味です。では、どのような救いなのでしょう。そもそも救いとは何でしょうか。
 嫌なこと苦しみにあうと「助けて、逃げたい」と思い、切羽詰まって「死にたい」とふさぎ込む場合があります。しかし、期待するような「救い」はまずありません。
 祈っても、礼拝に出ても何の得もない、神は助けてくれない、そんな「ぼやき節」のクリスチャンもいます。イエスさまの救いは、全く違う方向からやってきます。
 「イエスさま、あなたを主として受け入れます。私を打ち砕き御心のままに用いて下さい」と祈りましょう。マリアもヨセフも力と知恵を授かりました。
 神に身を任せて、弱さも不都合も恵みとして受け入れると「イエスという名」が内から働くのです。

2014.12/21 たましいの喜び

旧約聖書 出エジプト記15章19-21節
 15:19 ファラオの馬が、戦車、騎兵もろとも海に入ったとき、主は海の水を彼らの上に返された。しかし、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだ。15:20 アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。 15:21 ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。
主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。

旧約聖書 サムエル記上2章1-10節
 2:1 ハンナは祈って言った。
「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。 
2:2 聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。 2:3 驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神/人の行いが正されずに済むであろうか。
 2:4 勇士の弓は折られるが/よろめく者は力を帯びる。 2:5 食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子をもつ女は衰える。 2:6 主は命を絶ち、また命を与え/陰府に下し、また引き上げてくださる。
 2:7 主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。
 2:8 弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの/主は世界をそれらの上に据えられた。
 2:9 主の慈しみに生きる者の足を主は守り/主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。 2:10 主は逆らう者を打ち砕き/天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし/王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられる。」

新約聖書 ルカによる福音書1章46-55節
 1:46 そこで、マリアは言った。
 1:47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 1:48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、 1:49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、 1:50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。 1:51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、 1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、 1:53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。 1:54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、 1:55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
 1:56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い(片隅の)、この主のはしためにも目を留めて下さったからです。
 一日の仕事に疲れ、しかもヘマをしてやり残したとき。批判され責められて、落ち込んだとき。ふと「メサイヤ」をヘッドフォンで聴きたくなる。テノールが
「慰めよ、慰めよ、わたしの民を(イザヤ40章)」と歌い出すと、2時間40分の安息に包まれる。

 田舎娘のマリアが、あとあと「マニフィカート」と呼ばれる、壮大で力強い信仰詩を歌う場面を想像してみる。ヨセフとの平凡でささやかな幸せを待っていた娘がとつぜん神により重大な使命を負わされる。
 あり得ない、なぜわたしに?と自我が抵抗する。
「神に出来ないことは何もない。」と天使が告げると
「わたしは主の僕です。お言葉通り、この身に成りますように。」
神に降参した人の何とすがすがしいことか。
マリアの叫びは、いにしえのハンナの喜び、ミリアムの歓喜につうじる。連綿と受け継がれてきた神の勝利をたたえる歌。

 魂を震わせる喜び、霊を踊らせる歓喜はどこから来るのか。
魂(プシュケー)は息・命・心。霊(プニューマ)は気・風と言える。人間の本質であり、神からの贈り物。
 マリアはエリサベツから祝福されて神の思いを改めて体で感じた。神が先祖との約束通りに世界を新しくされる。わが身(魂と霊)を通して始まったのだと信じ歓喜する。
 もはや自分の貧しさや人々の偏見を恐れる必要はない。とは言えマリアにもイエスにも、この世は立ちはだかる。
「見よ。この子はイスラエルの多くの人が倒れ伏し、そして立ち上がるために、すなわち対決を迫る徴として据えられる方。あなた自身の心も剣で刺し貫かれる(ルカ2:34本田哲郎訳)」とシメオンが預言した通りに。

 聖霊が魂と霊に働きかけると、私たちは神の主導権に信頼し耐える力をいただく。
 私が生まれた年、1955年12月1日、42歳の黒人女性の「ノー」が歴史を動かし始めた。
 仕事帰りの混んだバス。黒人専用席最前列に座っていた彼女に運転手が立つように命じた。白人席が満席になったときは黒人席の一列全席を空ける規則になっていた。彼女は従わず逮捕され留置された。この人はローザ・パークス。確かに身体は疲れていたが「唯一の疲れは、屈服させられることに疲れていたのです。」
 この小さな抵抗はモンゴメリーの黒人たちの尊厳を呼び覚まし、バスボイコット運動が始まった。市民の75%の足であったバスを横目に支持者は徒歩で職場に通い続けた。さまざまな謀略や脅しがあった。11ヶ月後に連邦最高裁がアラバマ州の人種分離法が違憲であると断定するまで徒歩運動は続いた。
 この時、一緒に先頭に「立たされてしまった」のが、この町に着任したばかりのMLキング牧師であった。ローザは92歳まで生きて証しし、キングは39歳で凶弾に倒れて証しした。

 クリスマスは、神が小さく弱い者を立てて下さるとき。「新生」させて下さる神のわざ。その徴としての神の独り子イエスを、我が身に迎える「たましいの喜び」のとき。

2014.12/14 神の道を通せ

旧約聖書 イザヤ書40章1-5節 
40:1 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。40:2 エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。
40:3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。40:4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
40:5 主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。

旧約聖書 サムエル記上16章4-7節 
16:4 サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」
16:5 「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。
16:6 彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
16:7 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

新約聖書 マタイ1章18-25節 
1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

呼びかける声がある。
主のために、荒れ野に道を備え、私たちの神のために、荒れ地に広い道を通せ
イザヤ(ヤハウェは救い)は、今から2800年程前の預言者です。北と南の大国にはさまれて、内憂外患の時代に活動しています。王も国民も神殿礼拝を盛んに行いますが、心に神はいませんでした。イザヤはただ一人、声をあげ神に立ち帰れと訴えますが聴く人はありません。ついに紀元前587年、バビロニアに滅ぼされてしまいます。エルサレムは異国の民が主人になり、王家をはじめ多くの国民がバビロンで数十年(数え方によって50年、70年)の寄留生活を強いられました。
人間は本来の生活から離れても、良い意味でも悪い意味でも環境に順応します。バビロン捕囚と言っても、牢獄生活だった訳ではありません。
こんな思い出があります。松本少年刑務所で年に1度、クリスマス礼拝に一般人が参加できるときがあります。教誨師が囚人にこう語りかけました。「お前らな、この檻(おり)から出ることだけ考えているだろうがな、この檻から出ても別の檻に囲まれているんだぞ。」兄貴分として慕われた牧師だからこそ言えた台詞です。
刑務所の数年間を、出所の瞬間だけを目的に過ごす囚人は、その時迎えに来る「本物の兄貴分」の手下に舞い戻ってしまうのです。最近は、高齢者の再犯率が非常に高く、刑務官を悩ましているそうです。
さて、イザヤはバビロンで生活している同胞に、苦渋から解放された「後のこと」を冒頭の呼びかけとして命じます。自由になれたら「どんな生き方をするのだ」と自問しろということでしょう。実際、地図の上ではエルサレムまでの道は大河に沿って曲がりくねった荒野の道です。まさか砂漠を横切るハイウエーを造れという意味ではないでしょう。古代の精鋭部隊ですら、道に迷い砂漠で屍になったからです。
では、荒野に「谷を埋め、山を削り、狭い道をひろく」とはどんな工事になるでしょうか。大事なのは目的です。イザヤは「主のために、私たちの神のために」と呼びかけています。やがて、主なる神が通られるための道を通せということです。

 ヨセフは妻マリアの妊娠を知って、悩みに悩みました。普通のユダヤ人なら離婚か、法に訴えて処罰するかも知れません。
ヨセフは「義しい人」でした。律法の示す正しさと、自分の大切な人を護る方法はないか求める愛(情)の正しさの間で毎晩悩んだのでしょう。そこに天使が夢に現れて告げたのです。
「ダビデの子、ヨセフよ。恐れず、妻マリアを迎えよ。胎の子は聖霊によるからだ」と。
目の前の難題も、神の御旨によって起こっている、そう信じて引き受けるときに「神の道」が拓けてくるのです。

2014.12/7  この身に成りますように

旧約聖書 イザヤ書11章1-5節
11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。11:3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。11:4 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。11:5 正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。

新約聖書 ルカによる福音書1章26-38節
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。1:37 神にできないことは何一つない。」1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

「この身に成りますように」
「ご覧下さい。私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」
とても力強いマリアの返事です。この女性はどんな素性の人なのでしょうか。ただ「ナザレに住むダビデ家のヨセフのいいなずけ」としか知り得ません。
一方「時が満ちると、神はその息子を女から、しかも律法の下に生まれた者として(ガラテヤ4:4)遣わし」とパウロが告げたように、神の律法(思い)の下でマリアは母とされたのだと。
 新共同訳では「見よ」という重要な言葉が抜けています。原文では「見て下さい、わたしは・・・です」と天使に答えているのです。「仕方がありません。納得できませんがお引き受けしましょう」ではなく、腹を決めて大胆に引き受けているのです。
 最初、天使が現れたとき、マリアは「戸惑い」「何のことか考え込み」ました。さらに天使がこれから起こることを告げると「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。断じてありません」と精一杯の弁明と抵抗をしています。
ところが天使が「聖霊があなたに降り・・・神に出来ないことは何もない」と3度目のお告げをすると、「ご覧下さい。わたしは主の(女)僕です。お言葉どおり、この身に成りますように」と急に受容し、しかも積極的な返事になっていきました。
 実際に天使とマリアとの間にどんな会話が交わされたのか誰も知り得ません。ただ、ルカは「私たちの間で実現したことについて・・・すべてのことを初めから詳しく調べ、順序正しく書き、確実であることを理解して欲しい」と書いていることからも、信じるに足る記録なのです。
 何が正しく何が間違っているかは、送り手と受け手の真剣さにかかっています。送り手である神が、天使(神が信頼する伝達者)を通して、受け手であるマリアに意思を伝えた。
最初マリアは自分の尺度、価値観でお告げを理解できませんでした。けれども、彼女は「律法の下で生きていた」ので幼いときから神の言葉で育てられています。自分の民の歴史をよく聞かされていたはずです。そして、「聖霊によって」すべては劇的に結びつけられました。
 マリアには叔母エリサベツが備えられていました。神は重要な仲間を与えてくれます。そして、ここで起こった変化のように、数知れない無名の信仰者が神の僕となってこの世に仕えてきました。
私たち一人一人も「マリアであり、ヨセフ」なのです。 そう信じて行動できるのは聖霊によるのです。「ご覧下さい。わたしも主の僕です。あなたのご意志が私に成りますように。(Let it be)」そう応答したいものです。

2014.11/30 神の思いが実るとき

新約聖書 マタイ福音書1章1-17節
1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。1:2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、1:3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、1:4 アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、1:5 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、1:6 エッサイはダビデ王をもうけた。
  ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、1:7 ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、1:8 アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、1:9 ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、1:10 ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、1:11 ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
1:12 バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、1:13 ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、1:14 アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、1:15 エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
1:17 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。

旧約聖書 ルツ記4章11-22節
4:11 門のところにいたすべての民と長老たちは言った。
「そうです、わたしたちは証人です。あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。また、あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。4:12 どうか、主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツの家のように、御家庭が恵まれるように。」
4:13 ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。
4:14 女たちはナオミに言った。
「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。4:15 その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」
4:16 ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。
4:17 近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。
4:18 ペレツの系図は次のとおりである。ペレツにはヘツロンが生まれた。4:19 ヘツロンにはラムが生まれ、ラムにはアミナダブが生まれた。4:20 アミナダブにはナフションが生まれ、ナフションにはサルマが生まれた。4:21 サルマにはボアズが生まれ、ボアズにはオベドが生まれた。4:22 オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。


 「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」で新約聖書は始まっています。
 「エッサイの木」というアドベントに読むお話の本が出ました。
 「昔は、聖書がある家ならたいてい、聖書を開いた一番はじめのページに、家族の歴史が記録されていたものです。だれとだれが結婚して・・」
 これを読んであることを思い出しました。18年前あるお葬式をさせて頂いた折に手にした故人愛用の聖書の裏扉に、故人にまつわるご家族の略歴が丁寧な字で簡潔に記されていたのです。その時は「几帳面な人だなー」と思っただけですが、とても重要だと、その本を読んで気付きました。いつかご家族に重要なメッセージとなることを意識して書かれた、と言うことにです。
 誰もこの世で「一人ぼっち」ではあり得ません。産んでくれた親、育ててくれた人がいる。そのまた親と時代をさかのぼれるはず。今は家族の歴史に無関心な時代です。しかしもし、誰か一人でも欠けたら、別の出会いであったなら、現在の自分はいないはずです。そう考えると決定的な一回性、不思議な「神の選び」があったと言えます。
 マタイの記した系図は不自然です。「エッサイの木」が言う、誰と誰が結婚してと続けば、無限に横にも縦にも拡がる大樹の形になるはずですが、この系図は一直線です。その不自然さに特別な「選択」が込められているようです。つまり、神の選択と人間の応答。「したたかな、癖の強い、駆け引きの、命がけの」人たちの生きざまにです。
 イエスは「神はこの石ころからでもアブラハムの裔を起こすことが出来る(マタイ3:9)と言われました。自分がダビデの子孫だという偉ぶりはなく、石ころからでも起こされる<選び>の子だと、神の主権を明言されました。アブラハムからイエスまで41代の選びで、わざわざ母方の名(マリアも)も5名記されていますが、18節からは父ヨセフと血縁がつながらない形で、「霊によって」マリヤの胎から生まれたというのです。
 さて、私たちは今、血縁の系図の先端にいます。ならば系図は大樹の形になります。しかし信仰の系図、神の選び(特権ではなく、用いようとされる計画)の系図もあるはずです。それは不連続の、例外ありの、人の思いを超越した不思議な系図となります。
 ルツはエリメレク家の嫁であってもモアブ人であるために、ユダヤ人の系図からは無視されるのが通例でしょう。しかし神は、ボアズの眼差しを通してルツ(友情の意)の真実を選び、オベド(僕・礼拝者の意)が生まれました。そしてオベドはエッサイを、エッサイはダビデをもうけた、と続けます。
 これが聖書の記す「エッサイの木」です。信仰によって私たちはエッサイの木の枝とされ、「神の思いが実るとき」を心して待つのです。

2014.11/23 神と隣人に感謝しよう

 ルツはこうして日が暮れるまで畑で落ち穂を拾い集めた。集めた穂を打って取れた大麦は一エファほどにもなった。それを背負って町に帰ると、しゅうとめは嫁が拾い集めてきたものに目をみはった。ルツは飽き足りて残した食べ物も差し出した。
 しゅうとめがルツに、「今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いてきたのですか。あなたに目をかけてくださった方に祝福がありますように」と言うと、ルツは、誰のところで働いたかをしゅうとめに報告して言った。
 「今日働かせてくださった方は名をボアズと言っておられました。」
 ナオミは嫁に言った。「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」ナオミは更に続けた。「その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です。」
 モアブの女ルツは言った。「その方はわたしに、『うちの刈り入れが全部済むまで、うちの若者から決して離れないでいなさい』と言ってくださいました。」
 ナオミは嫁ルツに答えた。「わたしの娘よ、すばらしいことです。あそこで働く女たちと一緒に畑に行けるとは。よその畑で、だれかからひどい目に遭わされることもないし。」
 ルツはこうして、大麦と小麦の刈り入れが終わるまで、ボアズのところで働く女たちから離れることなく落ち穂を拾った。
(旧約聖書 ルツ記2章17-23節)

 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
(新約聖書 使徒言行録2章43-47節)


 「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように」
一条の光が魂に差し込んだとき、とっさに発した感謝のことば。

作家の曾野綾子氏は日本人の甘さを「私のような高齢者までが『安心して暮らせるようにして欲しい』と言う始末」と憂い、「安心して暮らせる社会はないことを自覚し、そこをスタート地点に物事を考えないといけません」と言い切っています。

ルツ記はたった7頁4章の物語です。主人公のルツは未亡人で、ユダヤ民族からは差別されていたモアブ人でした。物語を織物にたとえるなら、縦糸は見えない神の計画。横糸はルツの真実な生き方です。干ばつで行き詰まった一家が、先祖伝来の土地を手放し隣国で寄留者として生活を始めました。ところが、すべてが裏目となり男手は皆死んでしまいます。妻のナオミは嫁のルツとオルパが再婚することを願いつつ、単独ベツレヘムへ帰る決心をします。しかし、ルツだけはナオミと離れることを拒み、ついてきて見知らぬ地でたくましく働き始めました。

折しも大麦の収穫期でした。掟によれば、未亡人や孤児など生活困窮者は畑で落ち穂を拾うことが許されていました。実際は迷惑がられたり意地悪をされて惨めな経験をすることが多かったのです。しかし、ここに神の計画がありました。落ち穂拾いをしていたのがボアズの畑だったからです。彼はナオミの近い親戚です。ボアズはモアブから姑ルツを慕ってついてきた女性の噂を耳にし、その孝行と働きぶりに感心していたところ、その女が自分の畑で働いていたのですから驚き、そして思案しました。

集められる落ち穂はたかが知れています。ところが、その日ルツが持ち帰った籾は1エファ(23㍑)もあり、ナオミは驚くと同時に親切にして貰ったんだと察しました。聞いてみると「畑の持ち主はボアズ」とのこと。ナオミは息が止まるほどでした。

世の中は甘くありません。ルツは畑で意地悪もされず運が良かったのでしょうか。むしろ運の悪い女性です。夫を亡くし、異国で生きることになったのですから。

しかし「あなたの民はわたしの民」「あなたの神はわたしの神」と信じて真心を込めナオミに尽くしていく中で、神の御手の働きが明らかになり始めたのです。

聖書が示す生き方は「安心を確保する生き方」とは正反対です。現実の厳しさや苦しみに弱音を吐いてもいいのです。その弱さが天を見上げる動機になります。実際は何も解決していないのに、不思議な安心を得、必要な物は必ず与えられるという確信を発見するのです。パウロが言う「いつも感謝していなさい」とはこのことです。

◆収穫感謝◆
日本キリスト教団の教会では11月第4日曜を「収穫感謝・謝恩日」としています。
アメリカから伝わった感謝祭の起源は、メイフラワー号で移住した人々が先住民に助けられて冬を越せたことに感謝する行事でした。200年後リンカーンは南北戦争で分裂した国民を感謝の心で団結させるために、11月第4木曜日をThanksgiving Dayとして連邦休日としました。これを宣教師が日本のプロテスタント教会に伝えました。
日本では秋の米の収穫を祝う「新嘗祭(にいなめさい)」の行事があり、戦後にアメリカの文化と働く人々への感謝とを重ね合わせて、1948年から、11月23日を「勤労感謝の日」としています。