2015.2/22 健康な教会と心身

旧約聖書 出エジプト記18章
 18:13 翌日になって、モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた。 18:14 モーセのしゅうとは、彼が民のために行っているすべてのことを見て、「あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか」と尋ねた。
 18:15 モーセはしゅうとに、「民は、神に問うためにわたしのところに来るのです。 18:16 彼らの間に何か事件が起こると、わたしのところに来ますので、わたしはそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです」と答えた。
 18:17 モーセのしゅうとは言った。「あなたのやり方は良くない。 18:18 あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。 18:19 わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、 18:20 彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。 18:21 あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。 18:22 平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。 18:23 もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう。」
 18:24 モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、その勧めのとおりにし、 18:25 全イスラエルの中から有能な人々を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。
 18:26 こうして、平素は彼らが民を裁いた。難しい事件はモーセのもとに持って来たが、小さい事件はすべて、彼ら自身が裁いた。 18:27 しゅうとはモーセに送られて、自分の国に帰って行った。

新約聖書 使徒言行録6章
 6:1 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。
 6:2 そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。 6:3 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、”霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。 6:4 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
 6:5 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、 6:6 使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
 6:7 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。



12人は弟子の集団を呼び集めて言った。「神の告げるできごとをなおざりにして、   自分たちの食卓に奉仕するというのは好ましいことではありません」(本田哲郎訳)
 主イエスはガリラヤのナザレという村の大工の長男で、母親のそばでは家事を、父親に仕事場や呼ばれた先で農具の修理や土木仕事を見て大きくなったに違いありません。
 主の説教の中にパン焼きや掃除のたとえ、種まきや家畜のたとえ、家造りのたとえがたくさん出てきます。幼い時からシナゴーグで学んだ神の言葉と両親の教えが、生活の知恵として血肉となっていたからです。
 主イエスがそうであったように、初期の教会は家庭的で、数千人にふくれあがった信徒の生活の世話にも12使徒が中心的に関わっていました。が、それも限界でした。
 特に、言葉や出身の違う人々の間で生じたトラブルは深刻で、ペトロたちはしばしば呼び出されて仲裁にあたらねばならず、本来の説教や伝道のわざが「後回しに」ならざるを得ない事態でした。こういうことは多くの教会で経験してきたことです。
 この頃、ある若い牧師から「先生は優しいから、色々と出かけて行って忙しそうですが、大丈夫ですか?」とまじめに言われてドキンとしました。何とかしなければ。健康も教会のことも心配してくれているのです。ありがたい同労者です。
 私たちの教会は20名にも満たない小さな群れですが、必要とされる奉仕のわざは多様で沢山あります。また、地域に根ざして伝道するという願いのために奮闘しています。けれども、創立25周年を間近に、まさに原点に立ち帰ることを示されます。
 まず「祈りと御言葉の奉仕に専念する」とはどういうことか。そもそも、現実的な苦情に対応し食卓の奉仕のために忙しくしている姿があります。その現実に気がついた、放っておけないと判断したことです。
 「神の言葉を後回しにして、食事の世話をする」のは適切ではない、と。そこで12人は提案します。「あなた方の中から霊と知恵に満ちた評判の良い人を7人選びなさい」そして「信仰と聖霊に満ちている7人」を選出しました。それから12使徒は「祈って」7人の上に「手を置き」ました。
 こうして当面の問題が解決しただけでなく、祈りの奉仕と御言葉の奉仕に使徒が専念した結果、信徒の数は増え、かつての反対者さえ忠実な信徒となり加わったのです。
 今日の御言葉は、具体的な主の指図だけに恐ろしく「出来るだろうか」と尻込みしそうです。しかし忠実な人が祝福され、健康な心身になる確かな約束なのです。

2015.2/11 被造物の和解 思想・信教の自由を守る日 南部正人伝道師

旧約聖書 イザヤ書32章
32:15 ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり/園は森と見なされる。32:16 そのとき、荒れ野に公平が宿り/園に正義が住まう。 32:17 正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。 32:18 わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう。
 32:19 しかし、森には雹が降る。町は大いに辱められる。 32:20 すべての水のほとりに種を蒔き/牛やろばを自由に放つあなたたちは/なんと幸いなことか。

新約聖書 ローマ書8章
 8:20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 8:21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 8:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。


2月11日の「建国記念の日」に、
なぜ毎年のように「思想と信仰の自由を守る」集会をするのか。
今年は特に「原発問題」を考えるのか、松本教会の南部正人先生が開会礼拝で、聖書のことばによって、分かりやすくて心にひびく言葉で語って下さいました。
 元々は神武天皇の即位と支配を祝う「紀元節」という祭日で、敗戦で廃止されていたものを、1967年に政府は新しい祝日として制定しました。天皇を神とあがめ、国の神道に服従しない宗教や思想が弾圧された歴史があったので、制定に対しては幅広い反対運動が起こり、日本基督教団も「信教の自由を守る日」を定めて抵抗しました。
 では、思想・信教の自由と「原発=原子力発電」がどうして関係するのか。原発も原爆も材料はウランです。おもに米国やオーストラリアで採掘され、先住民の土地に埋っています。彼らが代々暮らしてきた土地は奪われ、労働者として動員されて被爆し、放射性ガスは彼らの故郷や聖地をずっと汚染しています。このようなことは過去も現在も、すべての核燃料サイクルにおいて起きています。福島も青森も同様です。
 この被爆問題について、人々の言論や思想の自由は奪われています。例えば福島で地元の食材を使った給食が心配なお母さんが、子どもに弁当を持たせたことで親子でいじめに遭ったり、放射能を恐れて各地に疎開した人たちが、過剰反応だと非難されるケースが多くあります。放射能汚染や被爆の実態を発表したり調査し告発しようとしても大手のマスコミは取り上げません。このように知る権利を奪われた中で、人々はどのように生き行動するべきかという、思想や良心の自由が奪われています。
 さて、聖書はこの問題にどんなヒントを与えてくれるか。創世記では、この世界は神さまによって創造されたとあり、私たちはそう理解しています。それは少なくともこの世界は人間によって造られたものではなく、人間はその管理を委ねられているのであって勝手に破壊してはいけないということ。地球誕生から45億年。自然界のウランの93.3㌫の半減期(半分になる時間)は45億年。核は地中深くに収まって安定し、35億年という悠久の時間をかけて多様な生態系を形成し「神はお造りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった(創1:31)」と。核燃料サイクルはその安定を破壊して自然界の生命を脅かしているだけでなく、制御不能なのです。
 高木仁三郎さんが須坂教会でこう言われた。「核とは本来、天上の光であり神の領域に属するものなので、そこに人間は手を出してはいけない」と。
(以上は島津による一部まとめ、
 以下は説教のまま再録)

2015.2/8 歴史を導く神のことば

旧約聖書 出エジプト記2章
 2:11 モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。 2:12 モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。
 2:13 翌日、また出て行くと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが、「どうして自分の仲間を殴るのか」と悪い方をたしなめると、 2:14 「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った。
 2:15 ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした。

新約聖書 使徒言行録5章
 5:33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。
 5:34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、 5:35 それから、議員たちにこう言った。
 「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。 5:36 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。 5:37 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。
 5:38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、 5:39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」
 一同はこの意見に従い、 5:40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。
 5:41 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、 5:42 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。


 「ああいう思い、ああいう生き方が人間から出たものなら自滅するだろうし、もし神から出ているものであれば、彼らを滅ぼすことはできません。まかり間違っても、神への反逆者になっていたということに、ならないで下さい。」 (本田哲郎訳)

 モーセは若い頃、労働現場で同胞のユダヤ人がエジプト人からひどい扱いを受けているのを知り、同胞愛と正義感からエジプト人を殴り殺して死体を埋めてします。
 ところが皮肉なことに、同胞に目撃されていたのです。モーセは処罰を逃れるため遠いミデアンに旅立ちます。
 この物語から二つの真理を見いだします。一つは、感情的な正義はひどい罪を犯すということ。にもかかわらず、神はモーセをミデアンに逃し、そこで召命の時までさまざまな訓練をしたということです。

 「神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできない」という真理は、立場を代えれば「神が見方であるなら、誰が私たちに敵対できようか(ローマ8:31)パウロの言葉」という勝利の保証でもあります。
 ガマリエルは「ファリサイ派の律法教師」です。当時ファリサイ派は二つの学派に分かれていました。その代表はラビ・シャンマイとラビ・ヒレルです。シャンマイ派はとにかく律法に厳格、融通が利かないゴチゴチ頭。ヒレル派は非常に寛大で建前ではなく律法の精神を日常に生かそうとしました。
 ガマリエルはヒレルの愛弟子です。そのガマリエルの愛弟子が、後のパウロです。若きパウロはシャンマイ派であるかのようなガチガチの律法主義者だったのですから、人生は分からないものです。
 ガマリエルは「使徒たち」を退室させて事柄を慎重に扱うよう勧告し、その頃起こった革命運動やテロリストたちを例に挙げ、今彼らはどうなったか問います。そして「あの者たちから手を引きなさい。放っておくがよい」と方法を示します。
 彼の真意は「あれほど禁止し、捕縛して牢に入れてもなお、口をふさぐことがない」熱心さはどこから来ているのか。「もし人間からなら」やがて廃れる。しかし「神から出たものなら」どうなるか。元の表現では「神から出たものなのだから」を意味しています。
 歴史とは、人間の思いや行動、栄枯盛衰、神を求め神に背いてきた足跡です。
 神がいるならどうしてこうなんだ、と言いたい人の気持ちも分かります。けれども、心を静めて現実を観察するならば、赦しと恵みに囲まれていることが分かるはずです。
 神の赦しと祝福の言葉はすぐ隣、目の前にあり、神の愛は誰にでも注がれているのです。

2015.2/ 2 救いの原点

旧約聖書 出エジプト記1章
1:15 エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。 1:16 「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」 1:17 助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。
 1:18 エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」 1:19 助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
 1:20 神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。 1:21 助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。
 1:22 ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」

新約聖書 使徒言行録5章
5:27 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。 5:28 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」
 5:29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。 5:30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。 5:31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。 5:32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」
 5:33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。

「人間によりも神に従順でなければなりません。あなたがたが手を下して木にはりつけにしたイエスを、わたしたちの父祖の神は、立ち上がらせてくださいました。」(本田哲郎訳)
 カインがアベルを殴り殺したことが創世記4章にあります。神がカインに「アベルはどこか」と尋ねると、カインは「知りません、私は弟の番人でしょうか」と皮肉っぽく話をそらしてしまいます。
 英語でresponsible for は応答することですが、カインは神の問いに応えようとせず、抑えきれない感情で行動しました。
 もし、カインが「罪が戸口で待ち伏せしてお前を求める。お前はそれを支配せねばならない」と、なぜ言われるのか考える余裕があったなら、アベルへ抱いている嫉妬と殺意の心を自覚して、気持ちをコントロールできたかも知れません。神の言葉に注意を払わなかった結果、カインは人殺しという大きな罪を犯してしまったのです。
 一方、神を畏れない人は人殺しも平気です。モーセが生まれる前、エジプト王は「ユダヤ人に男児が生まれればナイル川に捨て、女児なら生かしておけ」と命じます。世間が王を怖れて従う中で、神を畏れ、王の厳命に反して命を救う人がいたのです。
 何百万人というユダヤ人をアウシュヴィッツ絶滅収容所へ送り込んだアイヒマンという将校が大戦後にイスラエルの裁判所で尋問された時「わたしは上官の命令に従った一官僚に過ぎず、ユダヤ人の死に責任はない」と主張しました。軍人や政治家が裁かれる時は同じような責任逃れをします。しかし神は「血の責任を必ず問う(創9:5)」と言われます。血を流した責任は誰が負わねばなりません。
 さて、ペトロたちは早朝からイエス復活の説教をしていました。前の日「その説教は二度とするな」と投獄されたのですが、夜中に天使が牢から助け出して「この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と命じたからでした。大祭司たちの「説教禁止」と天使の「命の言葉を残らず告げよ」のどちらに従うかは、命がけの決断であり、神への信頼しだいです。
 大祭司たちはイエスを殺した「血の責任」が責められていると受け取りましたが、むしろペトロは、イエスを裏切った臆病者だったが、復活されたイエスに赦されて立ち直っただけでなく、天使にも助けられ、証言しないではいられなかったのです。素直になって悔い改め(方向転換して)イエスに赦しを乞い、救い主と信じて命を受けなさい、と議会の重鎮たちを招いているかのようです。
 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、世を救うため。御子を信じる人は裁かれない。信じない人は既に裁かれている」とヨハネ3章に記されている通りです。
 復活のイエスは、救い主として、聖霊として私たちに臨み、イエスを信じて新しい命に生きるられるように助けて下さいます。日々新しく信仰を始めましょう。

2015.1/25  神の恵みによって育つ

出エジプト記2章
 2:1 レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。 2:2 彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。 2:3 しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
 2:4 その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、 2:5 そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。 2:6 開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。
 2:7 そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」 2:8 「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。 2:9 王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、
 2:10 その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」

ルカによる福音書2章
 2:39 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。 2:40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

「親子は、主の律法どおりにすべてをすませると、ガリラヤの自分たちの町ナザレにもどった。幼子はたくましく成長し、知恵にみち、神の好意がこの子に向けられていた。」
(本田哲郎訳 ルカ2:39-40)
 ユダヤの家庭に子どもが生まれると、その喜びは大きく、村中にうれしい出来事を知らせ、親戚はもちろん友人や隣人を招待してあらん限りのごちそうをするそうです。
 「子どもは神からたまわった嗣業(分け前)であり、胎の実は報いの賜物」と詩127篇が告げているとおり、天の恵み、神からの祝福のしるしです。
 とりわけ初産で男児が誕生すると「ベコル」と呼び「父の勢いまた命の力の初穂(創49:3)」として未来の家長と定められ、相続権と同時に一族の繁栄に責任を負うのです。
 イエスも8日目に割礼を受けてユダヤ人の「印」を付けられ、40日目に初子として神に献げられました。
 一方、現代は「子どもを作る作らない」「いるいらない」とか平気で言い、生殖医療の進歩で「デザイナーズ・ベイビー」すら望まれているのです。悩ましい時代です。
 イエスの父ヨセフは「正しい人(マタイ1:19)」と伝えられています。伝統的な価値観を持つ人だと思いますが、律法主義者ではなかったでしょう。
 「この親にしてこの子あり」と言いますが、生活の背骨として律法には厳しく、同時に「何が神の意思で、何が善であるかを見分ける知恵」つまり、柔軟さも幼い頃から示して育てたのでしょう。
 イエスは成長し、会堂(シナゴーグ)で律法を学び、両親からは信仰生活を学びました。それは暗記と実行でした。
 神の意思をあらわす律法を徹底的に暗記し、成長に応じて実行させられたのです。それを繰り返すことで、苦労し悩みながらも主の律法の深みを味わい、本当の父は神であると確信していったのです。
 それはちょうど主イエスが「わたしを主よ主よと呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか(ルカ6:46)」「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される(ルカ7:35)」と教えられているようにです。
 どのような人になるかは、生まれながらの気質や環境の影響が大きいと考えられますが、何より「愛されていること、その存在に関心と好意を持たれていること」が不可欠で「神から授かり、託された子」として大切にすることを神は期待されています。

 今朝から、数年ぶりで子どもの礼拝を始めます。どうぞ、主の恵みに包まれて子どもたちが成長していけるようにお祈り下さい。最も良いものをおささげください。

2015.1/11 祝福を手渡す人生

旧約聖書 創世記48章
48:15 そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。 48:16 わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に/祝福をお与えください。どうか、わたしの名と/わたしの先祖アブラハム、イサクの名が/彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に/数多く増え続けますように。」
 48:17 ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。 48:18 ヨセフは父に言った。「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」
 48:19 ところが、父はそれを拒んで言った。「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。」 48:20 その日、父は彼らを祝福して言った。「あなたによって/イスラエルは人を祝福して言うであろう。『どうか、神があなたを/エフライムとマナセのように/してくださるように。』」彼はこのように、エフライムをマナセの上に立てたのである。
 48:21 イスラエルはヨセフに言った。「間もなく、わたしは死ぬ。だが、神がお前たちと共にいてくださり、きっとお前たちを先祖の国に導き帰らせてくださる。 48:22 わたしは、お前に兄弟たちよりも多く、わたしが剣と弓をもってアモリ人の手から取った一つの分け前(シェケム)を与えることにする。」

新約聖書 ルカによる福音書2章
2:36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、 2:37 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、 2:38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

「アンナという女預言者がいた。非常に歳をとっていて、若いとき嫁いでから7年間、夫とともに暮らしたが、夫に死に別れ、84歳になっていた。」(ルカ2:36-37)
 乳児イエスがシメオンに抱かれて祝福されたとき、すぐそばにアンナもいた。イエスに近づくと(その瞳は喜びに輝き、力強い)感謝の祈りがくちびるからほとばし出た。すぐさま祈りの仲間たちに、いま見た赤子のこと、示された救いについて語った。
 イエス誕生のできごとは高齢者の信仰を受け皿として語られている。歳をとり弱ると、かえって若い頃には見えなかった、感じなかった何かが分かるのだろうか。
 先日、「止揚」の「終刊号」が送られてきた。知恵に重い障害がある人たちが暮らす止揚学園と学園を支える人たちを結ぶ小さな雑誌だ。
 代表の福井達雨さんはもう82歳になられた。私は若い頃に「アホかて生きているんや」を読んで、生きている価値を問われるような強いショックを受けた。
 福井さんは42年間を振り返りながら「老人になる喜び」について書いておられる。「もっと深みを持った老人としての歩みをせんとあかんのやないかなあ」 齢をとる寂しさの原因を、あれやこれやと探りながら、更に自分の心に問い、
 「齢をとってくると包むものが弱くなってきて、その包みを破って心の奥深くに存在していた寂しさが一気に吹き出してくるのだと思います」「寂しさは喜びや楽しさ、悲しみや苦しみよりも、もっと深淵な心の動き、心の本質なのです」「その寂しさや弱さは闇を与えるものではなく、若いときには持てない新しい人生を目の前に出現させ、齢をとって持つ不安や悲しみを解き放って生きがいを持たせてくれるものなのです」「この頃、希望を捨てず一歩一歩と前に進む勇気を創り出してくれるものは信仰以外にあらへん。僕はイエスさまに信仰を与えられて、ほんまに良かったなあと思い、感謝することが多くなってきました。この心は、若い、強い時は余り持てなかったものです」「82歳になり、寂しさに心を揺さぶられるようになり、信仰が生き返ってきました」「イエスさまが与えて下さった寂しさ(それがイエスさまの愛なんや)が、これからの未来の輝く光となっていく、真の寂しさは、ほんまに素敵なものやなあーと、しみじみと実感し、未来に心を躍らせている私です」と。
 イスラエル(ヤコブ)は、波瀾万丈の人生を振り返り、ヨセフと孫に祝福を手渡していく。それは若い時に追求した知恵と力で「勝ち取っていく祝福」ではなく、最後まで自分の羊飼でいて下さった、神に対する深い信頼と感謝で悟った「祝福」だった。

2015.1/4 神が用意して下さる人生

旧約聖書 創世記22章
22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、 22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
 22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
 22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。 22:15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。 22:16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、 22:17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。 22:18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

旧約聖書 レビ記12章
 12:1 主はモーセに仰せになった。 12:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。 12:3 八日目にはその子の包皮に割礼を施す。 12:4 産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。
 12:6 男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。

旧約聖書 出エジプト記13章
 13:1 主はモーセに仰せになった。 13:2 「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」

新約聖書 ルカによる福音書2章
2:21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
 2:22 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。 2:23 それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。 2:24 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
 2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 2:26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 2:27 シメオンが”霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。 2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
 2:29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。 2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 2:31 これは万民のために整えてくださった救いで、 2:32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
 2:33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 2:34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 2:35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」


「さて、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は解放を志す敬虔な人で、イスラエルがふるい立つ時を待ち望んでいた。そして主であるキリストに会うまでは死なない、と聖霊の示しを受けていた」
(本田哲郎訳 ルカ2:25~ヌンク・ディミットゥス)

 ルカの記録によれば、イエスが生粋のユダヤ人で、しかも貧しい庶民の長男であったこと(レビ記12章、出エジプト記13章)が、生後40日目に受けられた赤児奉献のようすで示されている。
 ここに証人として二人の高齢者がいた。84歳の女預言者アンナ、シメオンもかなりの歳だろうから、若い頃にハスモン王家の血なまぐさい相続争いを聞き、内紛に乗じて都になだれ込んだポンペイウス将軍の軍旗を情けない思いで見たに違いない。
 更に悪いことに、エドム人のヘロデが漁夫の利で王座につき、ユダヤをほしいままにするさまに「神よ、なぜなのですか」と絶望したかも知れない。
 だが、どの愛国運動もエルサレムに平和をもたらすことはなかった。そして、ずいぶんと時が流れた。

 「置かれた場所で咲きなさい」の渡辺和子さん(修道女・ノートルダム清心学園理事長)が新春対談でこんな風(一部略)に語っておられた。
 「膠原病の治療では薬の副作用で骨粗しょう症になり身長が(16センチも)縮んでしまいました。でも発想を転換することも習いましてね。『なぜ』ではなくて『何のために』か。
 最初、なぜ私が、なぜ、なぜと神様に不平を・・でも病気を経験することによって、ある学生が自殺未遂をした時に『私もうつ病になったことがある』と寄り添ってあげることができた。
 あの時苦しんだのは、そのことのためだったと思えたのです。・・そういうことを『人生の穴』と表現しています。
 病気やもめ事、失敗など様々な理由で、私たち一人一人の生活や心の中に『人生の穴』がぽっかり開くことがあります。すきま風が吹いてきます。
 だけれども、穴が開くまでは見えなかったものが、穴が開いたがゆえに、その穴から見えるということがある。思ってもみなかったことが尊いと思えるようになった、そう感じることがある」と。

 シメオンはいつものように境内にきて座った。その時「聖霊に導かれて」とルカは証言している。
 いつの日か、祖国と同胞に確かな光が昇る、そんな希望が示されていたらしい。だが世間が期待する形ではない。
 では、どんな形で? マリアから赤児(無力の徴)を託されて抱いたとき突然分かった。
 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりに、この僕を安らかに去らせて下さいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。」
 シメオンの人生は「何のために?」
 キリストを待ち、キリストに出会い、万民に証しするためにあった。私たちも「本当に幸いな人生」を同じように締めくくれる。

2014.12/28 イエスという名

旧約聖書 イザヤ書 61章1-3節
61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。 61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め 61:3 シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。

新約聖書 ルカによる福音書2章21節
 2:21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。


「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい(1:31)」
「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた(2:21)」
 今日から降誕節です。受難節の始まり2/18までの8週間「人間として生まれた(受肉された)神の独り子イエスさまの救いを黙想する期間」です。
 誰にでも名前があります。戸籍名のほか、通名で暮らす人もいます。誕生から14日以内に出生届を出すよう戸籍法第49条に定められています。戸籍に登録されると日本国民として権利と義務が生まれます。
 ところが今、500人以上の無戸籍の人がいます。出生届を出さない、出せない事情はさまざまですが、乳児検診も小学校入学も健康保険も住民としての諸権利も保障されません。アルバイトや就職も結婚も、部屋を借りるにも壁が立ちはだかります。海外旅行は不可能です。納税義務だけはあります。
 さて、マリアが産んだ子はヨセフに認知され、生後8日目に割礼が施されました。あらかじめ天使が告げたとおりにイエスと名付けられ、神の民の一員になりました。長男として神殿税が課せられ、ローマ帝国からは人頭税が搾り取られます。天上の神の子がユダヤ人として生まれ、ローマの支配下で重税と理不尽な扱いを受けながら家族を養う責任を引き受けられたのです。
 神が独り子を地上のマリアとヨセフに託すことは大きな賭でした。二人の信仰と勇気と知恵が試されました。けれども互いを信頼し、それぞれの立場で決断したとき、神は命じたことをやり遂げられるように、不思議な助けと勇気を与えてくれました。
 イエスはギリシャ発音でイェシュース(カトリックではイエズス)、ユダヤ名はイェホシュア、英語ならジーザス。「ヤハウェ(神)は救い」という意味です。では、どのような救いなのでしょう。そもそも救いとは何でしょうか。
 嫌なこと苦しみにあうと「助けて、逃げたい」と思い、切羽詰まって「死にたい」とふさぎ込む場合があります。しかし、期待するような「救い」はまずありません。
 祈っても、礼拝に出ても何の得もない、神は助けてくれない、そんな「ぼやき節」のクリスチャンもいます。イエスさまの救いは、全く違う方向からやってきます。
 「イエスさま、あなたを主として受け入れます。私を打ち砕き御心のままに用いて下さい」と祈りましょう。マリアもヨセフも力と知恵を授かりました。
 神に身を任せて、弱さも不都合も恵みとして受け入れると「イエスという名」が内から働くのです。