2015.4/5 わたしは今日、あなたと共にいる

(ヨブ記19:21-27、ルカ23:39-43)
 わたしは知っている。わたしをあがなう方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚がそこなわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。他ならぬこの目で見る。(ヨブ記19章)

 機長は相棒がまさか全員を奈落の底へ突き落とすとは思いもよらず「ちょっとトイレに、いいかな?」と、運命を<死にとりつかれた人>に託してしまいました。
 子どもたちが旅行するとき、無事帰る日まで何度も祈ります。「神さま、わが子の故に同じ飛行機、列車に乗る全ての人をお守り下さい」と、私にはそれしか出来ません。
 格安旅行が危険で、さまざまな対策をした交通機関が絶対安全とは限りません。
 また、この瞬間は健康そうでも次の瞬間に死んでいるかも知れない、生きていること自体、奇跡の連続ではないでしょうか。
 仮に望まない結果であっても「いのちを支配されている方」を信じる人には「生きるにも死ぬにもキリスト」という平安があります。
 主イエスの十字架の両脇に磔された強盗が言いました。一方は「お前はキリストだろう。なら俺らもあんたも救って見ろ」と。もう一人は「何てこと言うんだ。お前は神を恐れないのか」と相棒をたしなめて「イエスよ、あんたが自分の国に行く時には俺のことも思い出してくれよ」と頼みました。少し前まで二人は同じやくざ者でした。
 前者はイエスに期待もせず、罪も知らず「救って見ろ」と凄んだだけ。後者は
①「お前は神を恐れないのか」(神の裁きを認め、死んだらどうなるかまじめに考えた)。
②「俺たちは自業自得なのだから」(罪の自覚と告白)。
③「この人は何も悪いことはしていない。イエスよ・・思い出して」(主がどこから来たかへの期待と信頼)があり、
十字架に釘づけられても(自業自得も、不運も含め)イエスに委ねた、その違いです。
 生きていることは、数限りない選択の連続です。何が正しく何が間違いか、その時には分からないもの。
 しかし、決定的な選択の場面は必ず訪れます。強盗たちも生きるためにさまざまな選択をし、自分の良心を置き去り、なるがままに成り下がって、十字架はりつけられました。しかし、そこに最後の選択が用意されていたのです。
 復活とか永遠の命とは、真実な人格にしっかりとつながる出来事。人間の側からはそれを要求することは出来ません。
 ただ、差し出された招きの手に、自分の手を差し出し、しっかりと受け止めてもらうだけです。
 主イエスは救いを願う人を誰も拒みません。あの強盗にも「わたしは今日、あなたと共にいる」と約束して下さったのです。