2015.9/6 確かな基礎の上に

(ゼカリヤ書8:1-13、使徒言行録9:31)
 万軍の主はこう言われる。勇気を出せ。あなた方は万軍の主の家である神殿を建てるための礎が据えられた日以来、預言者たちの口からこれらの言葉を聞いているではないか。
(ゼカリヤ書8:9)
 いよいよ西隣の住宅が完成します。かつて焼き芋大会をした所に立派な家が建ちました。更地からコンクリートの基礎打ち、組み立て、建前、庭造りまで毎日の変化を見てきましたが、最近は早く建ちますね。幼い頃、老練な棟梁の隣に住んでいたので、学校がおわるや帰宅し、夕飯まで飽きもせず、その仕事ぶりを眺めて過ごしました。
 棟梁は単なる大工ではありません。完成図はもちろん、想定外があっても対応できる豊富な知識が「頭の中」にあって、大工や職人をまとめて、家を完成させます。
 さて、旧約の最後にあるゼカリヤ書とハガイ書は、ネヘミヤ記やエズラ書と同時代に働いた人々の記録です。彼らは紀元前450年前後に、預言者.行政官.祭司.律法学者として「みことば」を取り次ぎ、神殿と城壁再建をとおしてイスラエルの信仰を目覚めさせました。
 70年間も放置され、わずかに礎石が残った神殿と、崩れ落ちた城壁を再建するのは不可能に思えました。しかも妨害工作が繰り返しあったのです。それでも彼らは辛抱強くイスラエルの民を励まし、時に怒り、確かな基礎の上に工事を完成させました。
 こんなジョークがあります。中世のパリでノートルダム・カテドラルを建てていたときの話です。三人の職人が汗を流して石組みをしていました。
 「あなたは何をしているのですか」とそれぞれに尋ねました。一人目は「重い石を運んでいます。とてもきつい仕事です」とぼやきました。二人目は「一生懸命働いています。家族(賃金)のためです」と答えました。三人目は「カテドラル(聖堂)を建てています」と胸を張りました。同じ現場で同じ仕事をしていても、目的はずいぶん違います。
 では、神殿を建てるとか「信仰を建てる」とはどういうことでしょうか。私たちが「みことば」に出会い、神の思いと目的が解き明かされた時、「これこそ私の役割」と受け止めて働くなら、これ以外の人生「生きがい・喜び」があるでしょうか。