2020.6.7 いのちの息を吸う

 「息が詰まる生活」が2ヶ月近く続きました。先週から社会生活が少しづつ戻ってきましたが、感染を怖れる雰囲気や自粛警察と揶揄される感情的なしこりが人々の間に漂っています。どこにでも行けて何でもできた半年前が夢だったように、今は気持ちも不自由です。
 面白いことに、ペンテコステ前の弟子たちもユダヤ人の迫害を怖れて外出を控えていました。祭司長たちはイエスがいなくなれば弟子グループは簡単に消えてしまうだろうと見積もっていました。
 ところが聖霊が降り、弟子たちを覆うと、彼らは人が変わったように活動的になったのです。
 その日突然、訳の分からない言葉で語り出しました。ギリシャ人は外国人をバルバロイと呼んで蔑みましたが、相手の発音が「バルバルとかバロバロ」としか聞こえなかったからでしょうか。
 しかし、この不思議な言葉を聞いた巡礼者たちははっと気がつきました。これは俺たちの故郷の言葉ではないか。ペルシャ、アフリカ、アラビア、トルコの言葉もあるぞと大騒ぎです。しかし一部の人々は「あいつらは酔っているだけさ」とばかにして言いました。
 ペトロは集まって来た人々に大声で説明しました。他の11人も同じ思いです。
「皆さん、是非知って頂きたいことがある。今は朝9時だから私たちは酔ってなどいません。そうではなく、先祖の預言者ヨエルが言っていたことが、私たちに起こったのです。」と。
 ペトロは思わず立ち上がり、人を怖れず神の言葉を語りました。。
「今こそ、ヨエルが言っていた終わりの時です。神は約束された霊をすべての人に注がれています。その霊、つまり聖霊が今日、本当に降ったので、私たちは神のなさった素晴らしいことを皆さんの故郷の言葉で語ることが出来たのです。この言葉を信じる人は、誰であろうと救われます。」
 そして、街の誰もが知っているイエスの十字架の死を引き合いに、イエスは神に復活させられて神の右の座につかれたこと、イエスが約束された「高いところからの力」である聖霊が自分たちに注がれたので、あなたがたは自分の目で見、耳で聞いたのだと説明したのです。
 ところで、ヨエル書3章を読むと、その後と書いてあります。何の後かというと、神を怖れない勝手な振る舞いを続けている人間を懲らしめるために地上はイナゴの大群で荒らされて食べ物がなくなり、宇宙でも異変が起き、太陽も月も暗くなり、星も光を失い、甚だ恐ろしい神の怒りの日が来るというのです。
 しかし神は「今こそ、心から私に立ち返って断食し、泣き悲しめ。形ばかりで衣を裂くのではなく、本気になって心を引き裂け」と憐れみを込めて命じました。
 もし、心を裂くように自分に絶望し、必死になって神を見上げるならが、神は前より豊かな世界を創り出し、イスラエルのうちに命の神がいることを知るようになる、そして、その後に、すべての人に神の霊が注がれると約束されていたのです。
 ペトロは、ヨエル書の「その後」を「終わりの時に」と言い換えました。うっかり間違えたのではなく、今こそ、その後なのだ。これまでと全く違う世界がすぐそこまで来ているのだ。つまり完成の時が近いという意味で「終わりの時」と言ったのです。
 終わりの時があるのだから、始まりの時があります。
 イスラエルの先祖は多くの悲劇と悲しみの歴史を歩んできました。繁栄と滅びを繰り返し経験した人々は、人間とは何か、世界とは何か、根本的なことを何度も何度も考えました。けれどもいくら考えても答えは出ません。
 その時、神の声を聞きました。「私が世界を造ったのだ。私がお前を造ったのだ」と。真実、真理は外から訪れます。
 創世記は語ります。すべての源である神は思いを尽くして世界を造られました。その最終作品が人間です。ご自分のイメージに似せて造られ、世界のすべてを治めるようにと責任と尊厳を備えて造りました。
 しかし同時に、はかない存在なのです。土の塵とは、砂粒ではなく、生きものの死骸の集まりです。だから、人間も死んだら土に帰るのは天地創造の定めだと、イスラエルの人々は神の声を聞きました。
 画竜点睛(がりょうてんせい)を欠く、という東洋の言葉があります。
 昔、中国で絵の名人が寺の壁に竜の絵を描きました。最後に竜の瞳を書き入れたところ、竜は壁から抜け出して天に舞い上がっていったという故事です。画竜点睛を欠くとは、竜の瞳を書き入れなかったら未完成だということから、決定的な何かが足りないことのたとえです。
 創世記の人間とは何か、それは、土で造られた壊れやすい器に、神が息が吹き入れて「生きるもの、生きた魂」になったのです。
 この息は空気ではありません。息は同時に魂とか霊と同じ命の本質を指します。聖霊と言い換えてもいいと考えます。
 聖霊そのものは見えないしとらえがたいのですが「聖霊が働きかける」ことで変化が起こります。
 明らかに創世記を意識してパウロはこう言っています。「闇から光が輝き出でよ」と命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエスキリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました。このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な神の力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために。
 私たちは四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。私たちはいつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に表れるために、と。
 この息苦しい世界で、神の息、注がれた聖霊を胸一杯に吸い込んで、今週も、土の器として、神の息がかかった者として、父、子、聖霊の三位一体の神に生かされて生活しましょう。