2020.6.14 いのちの木、欲望の木

 6月第2日曜日は教会では「花の日」「子どもの日」です。例年なら餅つきとミニバザーをして楽しみます。そして子どもを真ん中に礼拝し、祝福を祈り、神が共にいて下さる喜びと一人一人に特別な使命があることを学びあう一日です。昔は子どもたちを連れて消防署や交番や病院に出かけ、一年間守って下さったことに感謝して花束を贈りました。
 150年前のアメリカで「子どもの日」は生まれました。西部開拓ラッシュと産業革命の大きなうねりが社会の価値観を大きく変え、物質的な豊かさを求め、家庭の団らんが消えました。教会は切実な思いをもって祈り、子どもの人格を大切にするよう訴え、家庭教育を思い出すように働きかけました。
 さて、エデンの園やアダムとイヴの物語は、失楽園というストーリーで日本でも広く知られていますが、人間とは何かという本質的な内容はほとんど知られていないように思います。
 人間は土塊で造られた人形ですが、神はその鼻からいのちの息を吹き入れて霊を授け、神と交われる生きた存在アダムが生まれた話です。
 そうして造られたアダムを、神はエデンの園に「置かれました」。
 エデンとは「楽しみ」「喜び」「平らな場所」を意味するそうです。神の人間への深い思いが表れています。「自分の子には良いものを与えるではないか」と言われたイエスの言葉を思い出します。
 そこには多様で豊富な食べ物がありました。乾燥地帯の古代人にとって実のなる木、種のある植物が生えている園は理想的でした。
 神は園の真ん中に「命の木」と「善悪の知識の木」を置かれました。
多くの役に立つ木々の間に、園の真ん中に「いのちの木」と「善悪を知る木」を生えさせました。これには特別な意味があるはずです。
 エデンは水と地下資源が豊かにある場所です。メソポタミアやエジプトを流れる4つの大河の流域、つまり古代文明が生まれた地域と関係があるようですが。それらとははっきり区別されています。
 神はアダムが生きる園をお与えになりました。住まわせとは、置いたと同じ言葉です。神が整えたいちばん良い土地をアダムに貸し与えて下さったのです。アダムが探し求めて手に入れ、気に入って住み着いたのではない前提を見落としてはいけません。
 「人がそこを耕し、守るようにされた」とあります。耕すとは、食料を得るためのあらゆる労力を指すと思われます。麦を栽培するとき畑に種を蒔き肥料を与え、羊を飼うとき牧草地を世話することです。配慮し仕えると同じ言葉、守るとは誠実に世話する事です。
 アダムは何でも自由に取ることができましたが、園の真ん中にある「あの木の実」だけは、食べると必ず死ぬ、危険な実でした。そして神と素直な関係にあった間は、気に留めることも無かったはずです。
 エデンの園のようすは、人が生まれ育つ環境と人格教育の原点が描かれているように思えます。
 赤ちゃんには乳房を吸う本能が備わっています。やがて乳から固形物へ食べられるものが拡がります。そうして何でも口に入れるようになります。外の世界を口から得る情報で確かめています。だから危険な物は幼子の近くに置かないようにします。親は子に良い物を喜んで与えます。手塩にかけて育てるというように、命には塩が欠かせません。その塩加減を塩梅良くと言います。子どもは素直に受け入れて育っていきますが、自我が育ってくると、自分の好みを主張するようになり、あれが欲しい、これを食べたい、あそこへ行きたいと要求は拡がっていきます。この時、親はどうするでしょうか。欲しいと言うままに与えるでしょうか。親の価値観が表れるときです。
 何を与え、何を与えないか。何をすぐに与え、何を待つように命じるでしょうか。その基準はどこにあるのでしょうか。
「決して食べてはいけないもの」とは、命と人生に関わるものです。
 アファンの森をご存じでしょうか。ニコルさんの名で知られた童顔の大男が、長野県と新潟県の県境にある黒姫高原の荒れ果てた土地に入って住み込み、地元の人と一緒に森の再生に取り組んで35年たちました。ウェールズ生まれで世界各地を冒険し、日本の自然に魅了され、ついに日本に帰化し、今年の4月に80歳で亡くなりました。
 アファンとは、ケルト語で「風の通る所」という意味だそうです。
 ニコルさんは複雑な家庭に生まれ、小学校では陰湿ないじめにあい、学校嫌いになりましたが、祖父の影響で生物、宗教、歴史、音楽を習い始め、狩猟を習い覚えました。中学である生物学の先生に出会ったことが彼の人生の方向を決めました。22歳までカナダ、アフリカなど世界各地を歩き回り、空手を習うために来日し、日本人と結婚し、ライフワークとして「アファンの森」に行き着いたのです。
 ニコルさんが来日した頃、国有林は荒れ放題になっていました。外国産の安い材木が大量に輸入され、国内の林業を追い詰め、林野庁は赤字を膨らませていきました。赤字を埋め合わせるために戦後の苦しいときにも手を付けなかった原生林の楢やブナの大木が大量に伐採されました。森は昔から生活と結びついて人間の手入れ、世話が必要ですが、欲しい木だけを奪い取り放置された山は保水力を失っていきます。
 美しくて豊かな恵みをもたらした森が人間の欲望と無責任のために荒れ放題になって行った頃、外国人のニコルさんが黒姫に入ってきて、森の世話を始めたのです。けれども彼だけでは今のようなアファンンの森は生まれませんでした。森の特性を知る人が必要でした。たった二人の入植者によって、森は再生し始めています。
 生活の真ん中に「いのちの木」と「善悪を知る木」が生えているような気がします。神が備えて下さったいのちの木は、人と人とが結びつくときに、相手の存在と人格を生かし、それによって自分も生きていくことが出来るようになる実をつけています。一方、善悪と知る実は他者より優位に立つ知識や力への憧れです。その実を食べた人間は、やがて他者を利用できるかできないかで判断し、支配して尊厳を奪い、いのちの絆を感じなくさせます。だから食べてはいけないのです。
 使徒言行録を読みます。「私はいつも主を目の前に見ていた。主が私の右におられるので、私は決して動揺しない。だから私の心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、私の魂を陰府に捨て置かず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道を私に示し、御前にいる私を喜びで満たして下さる」
 ダビデは、いつか神の子が人間の世界を訪れ、荒廃した世界を再生して下さることを神から示されたので、このように預言したのです。

 祈ります。
主よ、あなたはペンテコステによって私たちがつながることが出来る教会を作って下さり、聖霊の清さによって喜びと希望を知る生きた人間にして下さいました。あなたはイエスキリストを私たちの間に送って下さり、いのちの道を開いて下さいました。「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と主は宣言されました。私たちが信じてその道を踏み歩くとき、キリストを踏みつけていることを知ります。十字架が罪の赦しであることを確かに感じます。どうぞ今週も、私たちの生活の中にいのちの木、道、真理を示して下さい。どうぞ、ここにいる子どもたちを生きた人間として育てて下さい。
 主の名によって祈ります。アーメン