2020.7.5 神を畏れ、人には親切

先週は私たちの伝道所の創立記念日でした。今朝は松本教会の創立記念日です。
 ペンテコステの日、3千人もの人々がバプテスマを受けたとあります。この人数を信じられますか。またイエスさまのパンの奇跡では5つのパンと2匹の干し魚で5千人以上の人々が満腹になったとありますがどうでしょうか。
 私の若い頃の経験ですが、1990年の夏に年配のクリスチャン20人程に混じって中国東北部の教会を訪ねる旅をしたのですが、どの教会でも熱烈歓迎でした。文化大革命というめちゃくちゃな政治運動が失敗に終わって10年ほどした頃で、少しづつ言論や宗教の自由が回復してきた時期でした。どこへ行くにもガイドという名目で監視が付きましたが、外国人の旅行が許可されるようになっていました。
 今の若い中国人の多くは文化大革命も天安門事件も決して教えられることはありません。全体主義の国では支配者に都合の悪い記憶は消し去られるからです。その体験を語り継ぐことも、その失敗を国民全体で議論することも御法度です。だから今後の香港が30年前の悪夢のようにならなければと祈るばかりです。
 文化大革命が終わると、中国では放置されたり倉庫になっていた日本人が建てた古い会堂が改修され、新たに大きな教会堂も建てられました。訪ねたハルピンの教会は800人は座れると思われましたが、その日曜日通路も庭も人々で一杯で、おそらく2000人以上だったと思います。笑顔と熱気が溢れていました。
 旅の目的は2つでした。一つは戦前の教会の過ちをお詫びするためです。もう一つは、その証として日本で印刷した中国語の聖書を贈ることでした。聖書や讃美歌が極度に不足していると聞いていたからです。喜んで受け取って頂けました。
 こういう経験をすると、初代教会の躍動は決して大げさではないと信じられます。神の言葉は一人一人に語られるだけでなく、秩序が崩れ去った社会で唯一信じられることが教会で起こっているとなれば、人々はむさぼるように御言葉を求め、餓死寸前の人がわずかな食べ物を手に入れたときの必死さと同じでしょう。
 さて、42節から47節は、ペンテコステから数週間で瞬く間にクリスチャン共同体が成立したかのように読めますが、そうではなく、使徒言行録の結論として、エルサレムに生まれた信仰共同体が急速に拡大してく課程の、成長だけでなく対立やゆがみ、反対勢力からの弾圧にめげない姿、さらに対立していた人々もが福音を受け入れて群れに加わるという奇跡も含まれています。この数行には数年間の出来事が要約されていると思います。そのように読むと著者の意図がはっきりします。
 そこで、今日は3000人もの群れになった人々の躍動を見ることにします。規模や背景は違っても松本教会や筑摩野伝道所のスタートと似た部分があります。
 第一に、会堂はまだありませんでした。クリスチャンも最初はユダヤ教徒と同じように毎日早朝に神殿で祈りの時を守りました。その後で回廊などでペトロやヨハネからイエスの話を聞いたのです。初期のクリスチャンは都市の住民が中心でした。日の出から畑に行く人はわずかで、一日3回の祈りの時間には神殿で祈っていたのです。
 そして夕方になると家で食事をしました。まだ普段の夕食と聖餐式の区別はありません。そのことを、「彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを割くこと、祈ることに熱心だった」とルカは書いています。さらに身内だけでなく信仰の家族として血縁を超えて食事をしたり助け合ったりするのが当たり前になります。
「すべての人に恐れが生じた」ここが今日の一番大事なところです。
 信仰の交わりに入ったばかりの初々しいクリスチャンの一番重要な特質は、神に対する恐れです。ここで「恐れ」と言うのは「敬い畏れること」と「怖いと思う」と同じ単語が使われています。
 クリスチャンが実感した神への畏れは「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」というイエスの教えの真実から生じたと思います。3000人の中にはけしからん者もいたはずです。怠け者、ずるい人もいたに違いありません。しかし、福音を学び生活をしていくうちに人間が変わってきたのです。また弾圧され絶体絶命の時に助けが起こることを経験しました。
 逆に5章の記事のように、人の目をごまかせても神の前には偽善は通じず、何もそこまでという厳粛な裁きがなされた時、皆が震え上がりました。
 人を区別なさらない神の憐れみ、どんなまじないでも治らなかった病が「イエスの名」で癒やされる驚きと喜び、どんなに憎まれても退かない勇気の出所が、神への畏れ、信頼だったと言えるのではないでしょうか。
 ところで、創世記3章には、人が神の絶対的な禁止事項を破るという事件が出てきます。いわゆる「原罪」の出所です。先週少し触れました。「決して食べてはいけない。必ず死ぬから」としての神の命令を、蛇に誘惑されて、まず女(イシャー)が実を食べます。女は男(イーシュ)にも与えたので二人とも食べてしまいます。そして二人の目は開かれ、裸である知識を得、イチジクの葉で腰を覆います。
 神は「食べると必ず死ぬ」と警告しましたが二人は息絶えませんでした。3章に限って考えると「死ぬ」とは「神を避け、自分を隠し偽るようになる」ことではないだろうか。
 互いに腰を隠したのは、性と関係があるにせよ、ここでは自分の姿をありのままに受け入れられない自己否定の象徴だと思います。
 それに続く物語では神が呼びかけたとき「恐ろしくなり隠れた」のです。「誰が裸であると告げたのか」の問いには答えず「食べるなと命じた木からとったのか」には「あなたが私と共にいるようにされた女が、与えたから」と責任転嫁します。同じように女も「蛇がだましたから」と責任転嫁の連鎖です。
「神を畏れる」エデンの二人は「神から隠れ神を恐れる」姿に変わり果てました。それは「原罪」の原因ではなくて、自由をはき違えるとどうなるか、その人間をどこまでも愛そうとする神の動機、どんな人間も赦して受け入れ、そのために裏切られ傷つく愛の性質を語っているのです。
 最後に松本教会の最初に目を向けましょう。百年誌に「松代の長沢弥左衛門と伝えられる人が横浜で福音を知り、城下町松本に来て聖書販売の傍ら伝道を始めたのが1876年7月。求道者が起こりコーレル来松」とあります。
 松代とは佐久間象山の影響でしょうが、文明開化の横浜に出た青年が宣教師に出会い、新しい知識、聖書の魅力を知って、松本で聖書販売を始めました。維新からまだ8年、耶蘇禁止の高札がやっと廃止された年に聖書を売り歩く勇気には驚きます。その年までに日本語になっていた聖書は「ルカ:路加伝」と「ローマ:羅馬書」の分冊だけで、あとは漢語聖書なので読むには相当の教養が必要です。店先に並べても売れはしません。彼は訪ね歩き、説得したのでしょう。その熱心は聖書を手に入れ学びたい人を発見していきます。
 武士社会が崩壊し不安と期待が入り交じった時代でした。フルベッキ宣教師は「横浜の教会は、信州人の間に著しい宗教上の覚醒が起こっているという報告を初めて受けた。・・それには熱心な訪問の要請が伴っていた。それらの報告はとくにコレル氏宛てのものであって、同氏の指導のもとで聖書販売人がその地方を旅行したのであった。そこで・・コレル氏はその地方を訪ねた。・・松本やその他訪問した所で、適切な教師のもとに、宗教教育のための幾つかのクラスを作ることに成功した。・・(日本プロテスタント伝道史)」と報告しています。
 一人の救いから松本平に蒔かれた種が成長し、何度も多難な時代を乗り越え、この時代という畑に福音の種が蒔かれ続けています。私たちも福音のエネルギーを受け継いでいます。「聖霊を受けよ」を信じた人々が活き活きと生きたように、聖霊が注がれていると信じる教会は、エネルギーを受けて前に進むのです。
 祈ります。
 私たちを土の塵から造られた神さま。私たちに息を吹きかけて生きる者にして下さったことに感謝します。私たちの教会をこの地に必要とお考えで生み出し、今日まで恵みで育てて下さったことを心から感謝します。
 これからも御言葉に従い、御言葉を宣べ伝え、祈りの家、人々の拠り所として発展していけるように清めて下さい。
 私たちはあなたを愛し畏れ、人々を自分のように大切にします。どうか御言葉と聖霊によって導き励まして下さい。主の名によって祈ります。アーメン