5月第2日曜日は多くの国で母の日として覚えられています。母への感謝としてカーネーションが贈られますが、花言葉は「母の愛情」とか「純粋な愛」と言われています。母の日をネットで調べると、まずプレゼントの情報が沢山出てきます。
しかし、母の日とはもともと、母から娘へ受け継がれた神の愛という遺産から生まれた行事なのです。
人は死んで愛する人々に何を残せるでしょうか。どんな人でも残せる素晴らしい遺産があることを、今朝は考えてみましょう。
母アンはメソジスト教会で20年にわたって日曜学校で教えたので、娘アンナも母のメッセージで育った一人でした。母アンは南北戦争の時、傷病者を敵味方なく看護する会のメンバーで、戦争が終わると和解の働きをしました。1907年5月12日、追悼礼拝でアンナは母の教えを振り返り十戒を紹介し、礼拝堂を飾った白いカーネーションを配りました。これが評判になり、デパートで母の日キャンペーンが流行しました。1913年には青山学院の女性宣教師が紹介しています。
今朝の御言葉は「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」です。これは復活のイエスがペトロ一人に向けて言った言葉です。
少し先週のおさらいをします。場所はガリラヤ湖畔。7人の弟子たちは、どういう訳か、漁師に戻っていて一晩の漁をしました。しかし1匹も獲れません。夜が明けると「舟の右側に網を打ちなさい」という声があり、大量の魚がかかりました。声の主は復活のイエスです。イエスさまは既に岸辺で火をおこし魚をあぶり、パンも用意しておられました。そこに獲れた魚も足して、弟子たちは腹一杯になりました。彼らはこのパンと魚をどんな気持ちで味わったのでしょうか。
「ヨハネの子シモン」とイエスは呼びかけます。ペトロのことです。それはイエスがつけたギリシャ語なまりのあだ名で岩を意味します。イエスさまは彼の目をまっすぐ見て言われたのでしょう。どきっとする場面です。近くにいた6人の仲間にも聞こえたはずです。
本名で呼び捨てにされるのは、親や尊敬する先生から親しみと信頼を込めつつも、厳しい内容を聞かされる時ではないでしょうか。
「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」
なぜそう問われたのか瞬時に分かりました。先生が十字架に付けられた前の晩「わたしの行くところに、あなたは今ついて来ることは出来ないが、後でついてくることになる」と言われた時、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」「たといみんながつまずいても、わたしは躓きません」と力を込めて言ったことは忘れもしません。「あの時、先生について行って死ぬつもりだった。でも俺はつまずいて先生から離れた」わたしがペトロなら色々言い訳を考えます。
けれどもペトロは「わたしが先生を慕っている気持ちは先生が一番ご存じだ」と素直に応じました。そこでイエスは言われました。「わたしの子羊を飼いなさい」と。
けれども、それが3回も続いたのでペトロは悲しくなりました。「鶏が鳴く前に、あなたはわたしを3度知らないと言うだろう」という先生の言葉が本当であったこと、あの時、情けなくてさめざめと泣いたことを思い出したからです。
イエスはそもそも「これと思い定めた人(マルコ3:13)」を弟子にしました。その理由は一つです。イエスが彼らを選んだのです。
教会はこれを結婚にたとえました。結婚関係、人間関係はそれぞれの願いや暗黙の約束から生じます。しかしその約束は不完全で悲惨な結果になることもあります。だからこそイエスとの関係を基準にして、結婚関係、人間関係が導かれていく、そういう順序でないと続きません。
たとえば、連れ合いが真剣に、ある場合には泣きながら「あなたは本当に私を愛しているの」とか「君はぼくを本当に理解しているのか」と言い合う時、やり直したい願望と期待が入り混じっていると思います。もし信頼も希望もないなら「あの時、約束したじゃないか。どうしてしなかったのか。嘘つき」という責任追及、有罪判決のようになるでしょう。イエスはそのようにされません。
イエスは腕利きの大工でした。何を造るにも修復するにも根本からやり方を見極めたことでしょう。その時だけ直ったように見えても、すぐにまた壊れてしまう仕事があります。人間関係もそうです。
かつて、ペトロがそんな事があってはならないとエルサレム行きに反対したとき、イエスは「退け、サタン」と激しく言い放ちました。
今回は仲間の聞いている場で、一番親しい名前で呼びかけ「シモン、わたしを愛しているか」と3度も念を押すように聞いたのです。情けなさと悲しみが伴います。自分に絶望して初めて悟ることがあります。
このやりとりの背景には、後のペトロの姿が投影されています。何度も生きるか死ぬかの経験をし、何度も不思議な力で救出され、何度も卑怯な態度を指摘され、何度も何度も赦されて立ち直り、最後にはローマで大勢の信徒をまとめる立場になりました。その時に必要な真理が、この岸辺で与えられた「愛と赦し」の原則でした。
生まれも育ちも環境も全く違う人々が一つになるための原則です。一番初めに世に出たイエス物語はマルコ福音書ですが、晩年のペトロは孫のようなマルコをそばに置き、イエスと行動を共にした時期の若気の至りも、思い上がりも、きつく叱られたことも、大失敗したことも包み隠さずに語りました。マルコはその話を活き活きと描きました。
その続きの物語を私たちは生きるのです。命が天に移される時まで「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれている(1ペトロ)」
信仰の稔り、魂の救いを手にして、それをこの世に残していきたい。主は「私を愛しているか」と今も私個人に、私たちに語りかけます。
写真 会堂前に咲く、あじさいと紫蘭