2015.9/13 祝福への招き

◎ヤコブの息子たちよ、集まって耳を傾けよ。お前たちの父イスラエルに耳を傾けよ。父は彼らを、各々にふさわしい祝福をもって祝福したのである。(創世記48:2,28)
◎私の言葉を聞いているあなた方に言う。敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6:27-28)
交換講壇だったので、島津牧師の松本教会での説教を記録
(創世記49:28、ルカ6:27-28)
 初めて松本教会と筑摩野教会で同じ「みことば」「讃美歌」による礼拝をしています。もちろん相談はしましたが、聖霊による一致を祈り求めてのことです。
 さて、私たちは必ずいつの日か死にます。不吉な話題でしょうか。「死を覚えよ」に従うなら一日一日が奇跡です。あと10年生きられれば3650日、87600時間あります。たったそれだけと焦るか、まだそんなにと感謝して奇跡の日々を生きるか、人それぞれです。
 主イエスはご自身が神を「アバ=父」と呼び「アブラハム・イサク・ヤコブの神」「生きている者たちの神」と教えて、神との交わりが人生を決めると教えられました。創世記のこの3人は神から祝福を頂き、祝福を子に手渡してきた代表です。
 創世記の終わりに、不思議で美しい祝福の場面があります。多くの苦難を味わい、エジプトで晩年を過ごしたヤコブは、ヨセフの子2人を養子にして「祝福」を与えます。
 ヨセフは当然長男のマナセが長子の特権を授かると考えて父の右手(力の象徴)側にマナセを立たせます。ところが父は腕を交差させ、エフライムに右手を、マナセに左手を置いて祝福の祈りをしました。
 かつてヤコブ自身、母リベカの計画に従い、目がかすんだ父イサクを欺き「長子の祝福」を奪いました。それは兄エサウとの確執と多くの苦難の始まりとなりましたが、歴史を導く神の深い計画によるものでした。
 臨終の床で12人の息子に与えられた「祝福」は驚きです。ユダとヨセフ以外の10人への言葉は、とても祝福とは思えない、むしろ裁きと呪いです。
 ところが、28節には「これは彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らを各々に相応しい祝福をもって祝福したのである」と締めくくられています。確かにこれらも祝福なのです。
 祝福とは何でしょうか。「旧約聖書において祝福するという動詞は、救済に満ちた力を付与する」とあります。
 最初は祝福の範囲は家族でした。しかし、アブラハムが「すべての民の祝福の源となる」と約束され、イサク、ヤコブへと受け継がれ、ついにイエスにより「永遠の命」という祝福への道が信じる人、全てにひらかれたのです。
 主イエスの言葉を聴き、真に受けるなら皆「祝福された」人です。「幸いなるかな・・・人よ。災いなるかな・・・人よ」イエスは決定的な「祝福」を約束されました。
 「敵を愛し、憎む者に親切を、呪う者に祝福を祈れ」この祝福に私たち、一人一人が招かれています。