◆(イザヤ書52:13-53:3、使徒言行録8:25-31)
そこで、霊がフィリポに「行って、あの馬車にぴったりつきなさい」と言った。
(本田哲郎訳:使徒言行録8:29)
小鳥の雛がふ化する瞬間にたとえ「啐啄そったく同時」という言葉があります。中国に鏡清禅師という方がいました。弟子が「私は充分に悟りの機が熟しています。今まさに自分の殻を破って悟ろうとしています。どうぞ先生、外からつついて下さい」と言ったところ、「つついてやってもいいが、本当のお前が生まれてくるのか」と。「もし悟れなかったら世間に笑われます」との答えに「この煩悩まみれのタワケ者めが」と一喝されました。禅宗の碧巌録(へきがんろく)にあるエピソードだそうです。
旧約のコヘレト3章に「すべて定められた時がある」とあります。「良いときも悪いときも」神の手の中にあります。ステファノもフィリポも、迫害の中で神によって導かれ、彼らにしかできない仕事を全うしました。それが天命であり天職でした。
迫害で追われてサマリアに来たフィリポは、そこでみ言葉の種を蒔き、耕しました。しかし収穫はペトロとヨハネに委せます。
つぎに「南に向かい、荒れた地へ行け」と聖霊はフィリポに命じます。彼は「すぐさま出発し」エルサレム、ヘブロン、ベエルシェバ、そして地中海に面したガザへの街道を下りました。
ガザは昔から南の勢力と北の勢力が奪い合った交易の要衝で、その当時、古いガザは荒れ果てていました。
すると前方に立派な馬車が見えす。聖霊は「行け、あの車を追え」とフィリポを促します。やっと追いつくと聖書の一節が聞こえてきました。イザヤ書の「苦難の僕」のところです。
馬車にぴったりついて小走りしながら声を掛けます。「読んでいることが分かりますか」「いや、さっぱり。手引きをしてくれるといいんですがね」と声の主。こうして、はるばるエチオピア(現在の南スーダン)からエルサレムへ来たカンダケ王朝の高官は、フィリポを通じて「ついに分かった」という経験をしたのです。
「すべてに時あり」ギリシャ語でカイロス(時)は、事が成る瞬間を意味します。フィリポと高官は一期一会でしたが、まさに「啐啄」が起こったのです。
お仕着せの「教え」ではなく、煩悩まみれの「悟り」でもなく、まっすぐな者同士の出会いによって神の「時」が成就する。これこそが聖霊の働きです。
私にとってフィリポは誰だったのか。教会にとって「宦官:求道者」は誰なのか。
私たちの人生も、「散らされ」「出会わされ」「適任者に委ね」「すぐに出かけ」「ぴったりついて走り」「臆せずに声をかけ」神の国への道を喜びに溢れて進んでいくのです。