2015.5/24 ペンテコステ 喜びにあふれ、旅は続く

(イザヤ書53:11-12、使徒言行録8:32-40)
 ふたりが水から上がると、主の霊はフィリポをよそへ連れ去った。
 宦官はフィリポを見失ったが、喜ばしい気持ちで旅を続けた。
(本田哲郎訳:使徒言行録8:39)
 イースターから50日目のペンテコステに教会が誕生しました。
 「父の約束を待ちなさい」「まもなく聖霊のバプテスマを受ける」「聖霊が降ると力を受ける」とのイエスの言葉を信じて、母マリアや使徒たち120人もの弟子たちが祈っていると「彼らの上に炎のような舌が一人一人の上に留まり、聖霊によって世界各地の言葉で神のわざを語り出した」のです。(1-2章)
 12人から始まった弟子は劇的に増えて、エルサレムで大きな働きを始めました。ところが、その働きは迫害という予想外の力によって散らされてしまいました。けれどもそれは「あなた方の上に聖霊が降ると、力を受け、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで私の証人となる」の実現だったのです。そして伝わり伝わり、ついに私たちにも届きました。
 さて、フィリポは巡礼帰りのエチオピア人の願いに応えて聖書の意味を説き起こします。この場面はルカ福音書24章13-31節にそっくりです。
 自分の人生や世の中が良くなることを願い、その実現を誰かに期待するものです。しかし、神の思いを除外した期待は見事に裏切られます。エマオへ向かう弟子たちも「まさか、イエスさまが殺されてすべてが元通りになるとは」と失望を背負って歩いていたからです。
 その時、見知らぬ人が近寄ってきて「何の話をしているのですか」と話しかけてきました。そしてモーセから始めてイエスの十字架と復活にいたる聖書の目的を懇切丁寧に教えられました。二人の心は失望から希望へ、心が燃え始めたのでした。
 フィリポの解き明かしによって宦官は、今まで読んできたみことばが、私に向けられ、私を招いている言葉として聞こえてきました。罪を自覚できない人間から誤解され、ののしられながら十字架で死んだ「僕イエス」が、神により復活させられ栄光に入ったことを。罪人はまさに私のこと。イエスの命が取り去られたことはまさに私のためだったと。
 「ここに水があります。バプテスマを受けてもいいですか」
 振り返ると、初めて聖書を手にした日、エルサレムに行きたいとカンダケ女王に申し出た日、毎年巡礼に出かけるものの、神が分からなかった日々がありました。
 そして今日、ついに「私の救い主・イエス」を確信したのです。言われるままに水に入り「父と子と聖霊の名によって」バプテスマを受け水から上がると、いつの間にか先生(フィリポ)の姿が見えなくなっていました。
 聖霊は一人の人を選んでイエスに結びつけ、人生を導き、祝福して下さる働きです。