2015.2/22 健康な教会と心身

旧約聖書 出エジプト記18章
 18:13 翌日になって、モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた。 18:14 モーセのしゅうとは、彼が民のために行っているすべてのことを見て、「あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか」と尋ねた。
 18:15 モーセはしゅうとに、「民は、神に問うためにわたしのところに来るのです。 18:16 彼らの間に何か事件が起こると、わたしのところに来ますので、わたしはそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです」と答えた。
 18:17 モーセのしゅうとは言った。「あなたのやり方は良くない。 18:18 あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。 18:19 わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、 18:20 彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。 18:21 あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。 18:22 平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。 18:23 もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう。」
 18:24 モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、その勧めのとおりにし、 18:25 全イスラエルの中から有能な人々を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。
 18:26 こうして、平素は彼らが民を裁いた。難しい事件はモーセのもとに持って来たが、小さい事件はすべて、彼ら自身が裁いた。 18:27 しゅうとはモーセに送られて、自分の国に帰って行った。

新約聖書 使徒言行録6章
 6:1 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。
 6:2 そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。 6:3 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、”霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。 6:4 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
 6:5 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、 6:6 使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
 6:7 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。



12人は弟子の集団を呼び集めて言った。「神の告げるできごとをなおざりにして、   自分たちの食卓に奉仕するというのは好ましいことではありません」(本田哲郎訳)
 主イエスはガリラヤのナザレという村の大工の長男で、母親のそばでは家事を、父親に仕事場や呼ばれた先で農具の修理や土木仕事を見て大きくなったに違いありません。
 主の説教の中にパン焼きや掃除のたとえ、種まきや家畜のたとえ、家造りのたとえがたくさん出てきます。幼い時からシナゴーグで学んだ神の言葉と両親の教えが、生活の知恵として血肉となっていたからです。
 主イエスがそうであったように、初期の教会は家庭的で、数千人にふくれあがった信徒の生活の世話にも12使徒が中心的に関わっていました。が、それも限界でした。
 特に、言葉や出身の違う人々の間で生じたトラブルは深刻で、ペトロたちはしばしば呼び出されて仲裁にあたらねばならず、本来の説教や伝道のわざが「後回しに」ならざるを得ない事態でした。こういうことは多くの教会で経験してきたことです。
 この頃、ある若い牧師から「先生は優しいから、色々と出かけて行って忙しそうですが、大丈夫ですか?」とまじめに言われてドキンとしました。何とかしなければ。健康も教会のことも心配してくれているのです。ありがたい同労者です。
 私たちの教会は20名にも満たない小さな群れですが、必要とされる奉仕のわざは多様で沢山あります。また、地域に根ざして伝道するという願いのために奮闘しています。けれども、創立25周年を間近に、まさに原点に立ち帰ることを示されます。
 まず「祈りと御言葉の奉仕に専念する」とはどういうことか。そもそも、現実的な苦情に対応し食卓の奉仕のために忙しくしている姿があります。その現実に気がついた、放っておけないと判断したことです。
 「神の言葉を後回しにして、食事の世話をする」のは適切ではない、と。そこで12人は提案します。「あなた方の中から霊と知恵に満ちた評判の良い人を7人選びなさい」そして「信仰と聖霊に満ちている7人」を選出しました。それから12使徒は「祈って」7人の上に「手を置き」ました。
 こうして当面の問題が解決しただけでなく、祈りの奉仕と御言葉の奉仕に使徒が専念した結果、信徒の数は増え、かつての反対者さえ忠実な信徒となり加わったのです。
 今日の御言葉は、具体的な主の指図だけに恐ろしく「出来るだろうか」と尻込みしそうです。しかし忠実な人が祝福され、健康な心身になる確かな約束なのです。