旧約聖書 創世記48章
48:15 そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。 48:16 わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に/祝福をお与えください。どうか、わたしの名と/わたしの先祖アブラハム、イサクの名が/彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に/数多く増え続けますように。」
48:17 ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。 48:18 ヨセフは父に言った。「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」
48:19 ところが、父はそれを拒んで言った。「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。」 48:20 その日、父は彼らを祝福して言った。「あなたによって/イスラエルは人を祝福して言うであろう。『どうか、神があなたを/エフライムとマナセのように/してくださるように。』」彼はこのように、エフライムをマナセの上に立てたのである。
48:21 イスラエルはヨセフに言った。「間もなく、わたしは死ぬ。だが、神がお前たちと共にいてくださり、きっとお前たちを先祖の国に導き帰らせてくださる。 48:22 わたしは、お前に兄弟たちよりも多く、わたしが剣と弓をもってアモリ人の手から取った一つの分け前(シェケム)を与えることにする。」
新約聖書 ルカによる福音書2章
2:36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、 2:37 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、 2:38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
「アンナという女預言者がいた。非常に歳をとっていて、若いとき嫁いでから7年間、夫とともに暮らしたが、夫に死に別れ、84歳になっていた。」(ルカ2:36-37)
乳児イエスがシメオンに抱かれて祝福されたとき、すぐそばにアンナもいた。イエスに近づくと(その瞳は喜びに輝き、力強い)感謝の祈りがくちびるからほとばし出た。すぐさま祈りの仲間たちに、いま見た赤子のこと、示された救いについて語った。
イエス誕生のできごとは高齢者の信仰を受け皿として語られている。歳をとり弱ると、かえって若い頃には見えなかった、感じなかった何かが分かるのだろうか。
先日、「止揚」の「終刊号」が送られてきた。知恵に重い障害がある人たちが暮らす止揚学園と学園を支える人たちを結ぶ小さな雑誌だ。
代表の福井達雨さんはもう82歳になられた。私は若い頃に「アホかて生きているんや」を読んで、生きている価値を問われるような強いショックを受けた。
福井さんは42年間を振り返りながら「老人になる喜び」について書いておられる。「もっと深みを持った老人としての歩みをせんとあかんのやないかなあ」 齢をとる寂しさの原因を、あれやこれやと探りながら、更に自分の心に問い、
「齢をとってくると包むものが弱くなってきて、その包みを破って心の奥深くに存在していた寂しさが一気に吹き出してくるのだと思います」「寂しさは喜びや楽しさ、悲しみや苦しみよりも、もっと深淵な心の動き、心の本質なのです」「その寂しさや弱さは闇を与えるものではなく、若いときには持てない新しい人生を目の前に出現させ、齢をとって持つ不安や悲しみを解き放って生きがいを持たせてくれるものなのです」「この頃、希望を捨てず一歩一歩と前に進む勇気を創り出してくれるものは信仰以外にあらへん。僕はイエスさまに信仰を与えられて、ほんまに良かったなあと思い、感謝することが多くなってきました。この心は、若い、強い時は余り持てなかったものです」「82歳になり、寂しさに心を揺さぶられるようになり、信仰が生き返ってきました」「イエスさまが与えて下さった寂しさ(それがイエスさまの愛なんや)が、これからの未来の輝く光となっていく、真の寂しさは、ほんまに素敵なものやなあーと、しみじみと実感し、未来に心を躍らせている私です」と。
イスラエル(ヤコブ)は、波瀾万丈の人生を振り返り、ヨセフと孫に祝福を手渡していく。それは若い時に追求した知恵と力で「勝ち取っていく祝福」ではなく、最後まで自分の羊飼でいて下さった、神に対する深い信頼と感謝で悟った「祝福」だった。