2015.1/4 神が用意して下さる人生

旧約聖書 創世記22章
22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、 22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
 22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
 22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。 22:15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。 22:16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、 22:17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。 22:18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

旧約聖書 レビ記12章
 12:1 主はモーセに仰せになった。 12:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。 12:3 八日目にはその子の包皮に割礼を施す。 12:4 産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。
 12:6 男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。

旧約聖書 出エジプト記13章
 13:1 主はモーセに仰せになった。 13:2 「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」

新約聖書 ルカによる福音書2章
2:21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
 2:22 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。 2:23 それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。 2:24 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
 2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 2:26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 2:27 シメオンが”霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。 2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
 2:29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。 2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 2:31 これは万民のために整えてくださった救いで、 2:32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
 2:33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 2:34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 2:35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」


「さて、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は解放を志す敬虔な人で、イスラエルがふるい立つ時を待ち望んでいた。そして主であるキリストに会うまでは死なない、と聖霊の示しを受けていた」
(本田哲郎訳 ルカ2:25~ヌンク・ディミットゥス)

 ルカの記録によれば、イエスが生粋のユダヤ人で、しかも貧しい庶民の長男であったこと(レビ記12章、出エジプト記13章)が、生後40日目に受けられた赤児奉献のようすで示されている。
 ここに証人として二人の高齢者がいた。84歳の女預言者アンナ、シメオンもかなりの歳だろうから、若い頃にハスモン王家の血なまぐさい相続争いを聞き、内紛に乗じて都になだれ込んだポンペイウス将軍の軍旗を情けない思いで見たに違いない。
 更に悪いことに、エドム人のヘロデが漁夫の利で王座につき、ユダヤをほしいままにするさまに「神よ、なぜなのですか」と絶望したかも知れない。
 だが、どの愛国運動もエルサレムに平和をもたらすことはなかった。そして、ずいぶんと時が流れた。

 「置かれた場所で咲きなさい」の渡辺和子さん(修道女・ノートルダム清心学園理事長)が新春対談でこんな風(一部略)に語っておられた。
 「膠原病の治療では薬の副作用で骨粗しょう症になり身長が(16センチも)縮んでしまいました。でも発想を転換することも習いましてね。『なぜ』ではなくて『何のために』か。
 最初、なぜ私が、なぜ、なぜと神様に不平を・・でも病気を経験することによって、ある学生が自殺未遂をした時に『私もうつ病になったことがある』と寄り添ってあげることができた。
 あの時苦しんだのは、そのことのためだったと思えたのです。・・そういうことを『人生の穴』と表現しています。
 病気やもめ事、失敗など様々な理由で、私たち一人一人の生活や心の中に『人生の穴』がぽっかり開くことがあります。すきま風が吹いてきます。
 だけれども、穴が開くまでは見えなかったものが、穴が開いたがゆえに、その穴から見えるということがある。思ってもみなかったことが尊いと思えるようになった、そう感じることがある」と。

 シメオンはいつものように境内にきて座った。その時「聖霊に導かれて」とルカは証言している。
 いつの日か、祖国と同胞に確かな光が昇る、そんな希望が示されていたらしい。だが世間が期待する形ではない。
 では、どんな形で? マリアから赤児(無力の徴)を託されて抱いたとき突然分かった。
 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりに、この僕を安らかに去らせて下さいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。」
 シメオンの人生は「何のために?」
 キリストを待ち、キリストに出会い、万民に証しするためにあった。私たちも「本当に幸いな人生」を同じように締めくくれる。