旧約聖書 イザヤ書11章1-5節
11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。11:3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。11:4 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。11:5 正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。
新約聖書 ルカによる福音書1章26-38節
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。1:37 神にできないことは何一つない。」1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
「この身に成りますように」
「ご覧下さい。私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」
とても力強いマリアの返事です。この女性はどんな素性の人なのでしょうか。ただ「ナザレに住むダビデ家のヨセフのいいなずけ」としか知り得ません。
一方「時が満ちると、神はその息子を女から、しかも律法の下に生まれた者として(ガラテヤ4:4)遣わし」とパウロが告げたように、神の律法(思い)の下でマリアは母とされたのだと。
新共同訳では「見よ」という重要な言葉が抜けています。原文では「見て下さい、わたしは・・・です」と天使に答えているのです。「仕方がありません。納得できませんがお引き受けしましょう」ではなく、腹を決めて大胆に引き受けているのです。
最初、天使が現れたとき、マリアは「戸惑い」「何のことか考え込み」ました。さらに天使がこれから起こることを告げると「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。断じてありません」と精一杯の弁明と抵抗をしています。
ところが天使が「聖霊があなたに降り・・・神に出来ないことは何もない」と3度目のお告げをすると、「ご覧下さい。わたしは主の(女)僕です。お言葉どおり、この身に成りますように」と急に受容し、しかも積極的な返事になっていきました。
実際に天使とマリアとの間にどんな会話が交わされたのか誰も知り得ません。ただ、ルカは「私たちの間で実現したことについて・・・すべてのことを初めから詳しく調べ、順序正しく書き、確実であることを理解して欲しい」と書いていることからも、信じるに足る記録なのです。
何が正しく何が間違っているかは、送り手と受け手の真剣さにかかっています。送り手である神が、天使(神が信頼する伝達者)を通して、受け手であるマリアに意思を伝えた。
最初マリアは自分の尺度、価値観でお告げを理解できませんでした。けれども、彼女は「律法の下で生きていた」ので幼いときから神の言葉で育てられています。自分の民の歴史をよく聞かされていたはずです。そして、「聖霊によって」すべては劇的に結びつけられました。
マリアには叔母エリサベツが備えられていました。神は重要な仲間を与えてくれます。そして、ここで起こった変化のように、数知れない無名の信仰者が神の僕となってこの世に仕えてきました。
私たち一人一人も「マリアであり、ヨセフ」なのです。 そう信じて行動できるのは聖霊によるのです。「ご覧下さい。わたしも主の僕です。あなたのご意志が私に成りますように。(Let it be)」そう応答したいものです。