2014.12/14 神の道を通せ

旧約聖書 イザヤ書40章1-5節 
40:1 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。40:2 エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。
40:3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。40:4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
40:5 主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。

旧約聖書 サムエル記上16章4-7節 
16:4 サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」
16:5 「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。
16:6 彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
16:7 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

新約聖書 マタイ1章18-25節 
1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

呼びかける声がある。
主のために、荒れ野に道を備え、私たちの神のために、荒れ地に広い道を通せ
イザヤ(ヤハウェは救い)は、今から2800年程前の預言者です。北と南の大国にはさまれて、内憂外患の時代に活動しています。王も国民も神殿礼拝を盛んに行いますが、心に神はいませんでした。イザヤはただ一人、声をあげ神に立ち帰れと訴えますが聴く人はありません。ついに紀元前587年、バビロニアに滅ぼされてしまいます。エルサレムは異国の民が主人になり、王家をはじめ多くの国民がバビロンで数十年(数え方によって50年、70年)の寄留生活を強いられました。
人間は本来の生活から離れても、良い意味でも悪い意味でも環境に順応します。バビロン捕囚と言っても、牢獄生活だった訳ではありません。
こんな思い出があります。松本少年刑務所で年に1度、クリスマス礼拝に一般人が参加できるときがあります。教誨師が囚人にこう語りかけました。「お前らな、この檻(おり)から出ることだけ考えているだろうがな、この檻から出ても別の檻に囲まれているんだぞ。」兄貴分として慕われた牧師だからこそ言えた台詞です。
刑務所の数年間を、出所の瞬間だけを目的に過ごす囚人は、その時迎えに来る「本物の兄貴分」の手下に舞い戻ってしまうのです。最近は、高齢者の再犯率が非常に高く、刑務官を悩ましているそうです。
さて、イザヤはバビロンで生活している同胞に、苦渋から解放された「後のこと」を冒頭の呼びかけとして命じます。自由になれたら「どんな生き方をするのだ」と自問しろということでしょう。実際、地図の上ではエルサレムまでの道は大河に沿って曲がりくねった荒野の道です。まさか砂漠を横切るハイウエーを造れという意味ではないでしょう。古代の精鋭部隊ですら、道に迷い砂漠で屍になったからです。
では、荒野に「谷を埋め、山を削り、狭い道をひろく」とはどんな工事になるでしょうか。大事なのは目的です。イザヤは「主のために、私たちの神のために」と呼びかけています。やがて、主なる神が通られるための道を通せということです。

 ヨセフは妻マリアの妊娠を知って、悩みに悩みました。普通のユダヤ人なら離婚か、法に訴えて処罰するかも知れません。
ヨセフは「義しい人」でした。律法の示す正しさと、自分の大切な人を護る方法はないか求める愛(情)の正しさの間で毎晩悩んだのでしょう。そこに天使が夢に現れて告げたのです。
「ダビデの子、ヨセフよ。恐れず、妻マリアを迎えよ。胎の子は聖霊によるからだ」と。
目の前の難題も、神の御旨によって起こっている、そう信じて引き受けるときに「神の道」が拓けてくるのです。