好きな讃美歌の一つに21-162番「見よ、兄弟が座っている。何という恵み、何という喜び」があります。詩篇133そのままが歌詞になっています。
わたしたちは普通、あの人たちは兄弟のように仲がいいとか、兄弟のように助け合っている、と言う風に言ったりしますが、兄弟のように仲が悪い、兄弟のようにいがみ合っている、という風には言いません。
聖書には兄弟の物語、例えがいくつもありますが、カインとアベルに始まって、イシュマエルとイサク、エサウとヤコブ、ヤコブの息子たち、ダビデの息子たちなど数え切れないほど仲の悪い兄弟が登場します。むしろ少数ですが、ダビデとヨナタンのように神を畏れる親友として兄弟以上のつながりを発見します。
さて、アダムはエバを知ったとあります。ヘブライ語でヤーダーという言葉ですが、神との親しい間柄や夫婦の性的な関係を意味します。エバは「わたしは主によって男の子を得た」と言い、子どもの誕生は神さまによるという理解があるわけで「カイン」と名付けました。「手に入れる」という意味です。ところがどうしたわけか次男には「アベル」という名前をつけました。これは「空しい、はかない」という意味です。わが子に「悪魔」という名をつけた親がいましたが、アニメの影響か、ふざけています。名付けには親の願いや愛情が込められますが、同時に親の環境や価値観が表れるのです。命名は人の一生を左右することがあります。
この物語の背景には農耕民族と遊牧民族の対立構造があるようですが物語をそのまま観察してみましょう。二人の年の差は分かりませんが、成長して働くようになり、カインは麦畑を、アベルは羊を飼うようになりました。カインは弟殺しによって人類最初の殺人者という汚名を着せられていますが、実際の成長として考えると、父親のアダムと一緒に土を耕す仕事を覚えていったことが記されています。
時を経てとあります。カインは種まきや収穫ができるまでになり麦の収穫の一部を神さまに献げました。よい息子です。今の時代は子どもは就職すると最初の給料から親にプレゼントをしたりしますが、神に献げ物をする家庭は少ないでしょう。神を知らないからです。アダムは神を失望させましたが、神を忘れたはずはありません。カインの献げる思いは父親譲りで貴いことです。
弟のアベルは羊を飼うようになりました。兄弟で性格や関心事が違うのはふつうのことです。弟は兄の働きを見ながら、いつか自分も神さまに献げものをしたいと思ったことでしょう。やがてその時が来ました。一生懸命世話した羊がまるまると育ったので、きっと神さまに喜んでもらえると思って献げました。
この二人の献げる行為は、素直で素晴らしいことでした。ところが、思いがけないことが起こりました。ある年、二人はそれぞれの献げ物を神の前に差し出しました。この時代、祭壇があったかどうか、どんな方法で献げたかは分かりません。「主はアベルとその献げ物には目を留められたが、カインの献げ物には目を留められなかった」のです。カインは自分が否定されたと思いました。その思いは弟への嫉妬、殺意を抱くまでになるのですが、主はカインの心の奥をご存じで「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのならば顔を上げられるはずではないか」と頭を冷やすように促し「罪が待ち伏せし、お前を求めている」と悪の誘惑に打ち勝つように諭しました。
子どもが小さいときはこんな事があります。兄弟が親に何かを見せに来ました。親はまず、弟に目を丸くして関心を示し、喜んだり褒めたりします。兄はやきもきして待ちますが自分の番になりません。それで「ねえ、僕のも見てよ、僕の話も聞いてよ」とせがみますが親は「どれどれ見せてごらん」とは言いますが、明らかに弟の時のように関心を示しません。思うようにならなかったとき腹いせが他者に向かいます。弟にしてみれば、どうしてお兄ちゃんがいじめるのか分かりません。
神さまには深い深い思いがあって、兄と弟をちゃんと見ているのです。ルカ福音書の15章に、放蕩息子の喩えの話がありますが、どうしても弟の劇的な結末に関心が向けられますが、イエスさまはまじめな兄が父親から正当に評価されていることを忘れてはおられません。
私たちは、どうしても自分中心の理屈で出来事を受け止めてしまいます。ひどいと感じてしまうと、相手の考えや事情を想像することが出来なくなってしまいます。そうして、その人に最低のレッテルを貼ってしまうのです。
アンガーコントロールという方法があります。かっとなるような時は、数秒まって深呼吸してから行動するのです。単純なけんか回避の方法です。
さて、今日は南アフリカの国旗と国歌について少し紹介したいと思います。南アフリカ共和国にはアパルトヘイトという黒人隔離の制度が長く続きました。ご存じのように、世界には依然として肌の違いで権利の差、貧富の差、人間としての尊厳が傷つけられている現実があります。どんな環境や家族に産まれるか、どんな時代に生まれるかは自分で選ぶことが出来ません。
南アフリカの現在の国旗は6色で描かれています。その色は民族や歴史を表しています。また国歌には国民を団結させる力があります。去年のサッカーワールドカップでは多くの市町村が各国のキャンプを受け入れて応援しました。こうして日本人はカタカナ言葉で世界中の国歌を知りました。南アフリカの現在の国歌は、プリントに記したように五つの言語で構成されています。これはメソジスト教会で良く歌われていた讃美歌に黒人解放の歌を重ねたものだそうです。配布したプリントに国旗の変遷と5言語で歌われている歌詞の趣旨を示しました。
1990年2月11日、ネルソン・マンデラという人が27年間の獄中生活から解放されました。複雑な事情は省きますが、彼は若いとき暴力革命を主張する黒人解放闘争の兵士で、投獄されると凶暴な猛獣のように扱われ、体への虐待だけでなく精神的な攻撃を繰り返されましたが、闘志は少しも衰えず白人支配者たちを恐れさせ悩ませました。ところが、27年ぶりに解放されたとき、誰も想像できないような演説をしたのです。「白人の皆さんのこれまでの貢献に感謝します。私は白人を憎んでいません。赦します」このメッセージは一緒に闘ってきた仲間や大多数の黒人には耐えられない言葉に聞こえました。
裏切ったのか。取引したのか。獄中で何があったんだ。さまざまな憶測が飛び交い、英雄の解放を喜ぶ声は、激しい非難と暴動に変わりました。27年間の獄中生活で彼の考えが劇的に変化していたことを仲間も民衆も知らなかったのです。
分裂はインドのガンジーの時にも起こりました。ヒンズー教徒とイスラム教徒という宿敵が団結して手に入れた独立も利害のために血に染まってしまいました。
1989年のチェコ・スロバキアのビロード市民革命とバーツラフ・ハベルのことを読書で知っていたのかも知れません。
マンデラは説明しています。獄中でひどい目に遭いましたが、白人の看守にも親切な人や良い人がいたこと、獄中でさまざまな歴史書を読んだことを取り上げて、暴力は憎しみの連鎖を、仲間内の政治は腐敗を生むということを学んだのです。
4年後にはじめて全民族が有権者となった総選挙でにマンデラは黒人で最初の大統領に選出されました。暫定憲法で政府のポストには白人黒人や宗教の区別はなく、総選挙で5パーセント以上の得票率の政党に政権参加を義務付け、マンデラ新大統領はその役割にふさわしいと考える人を閣僚にしました。獄中で学び考え抜いた国作りの方針が、新しい国旗と国歌に込められています。
さて、新約を見ると、イエスキリストの十字架の血だけが和解の道を拓くことが示されます。ペトロは教会を迫害する人々にこう言いました。「兄弟たち、あんなことをしたのはあなたたちが無知だったからです。指導者も同様です。私には分かっています。神はすべての預言者の口を通してキリストの苦しみを予告し、十字架によって実現されました。キリストを十字架につけて殺してしまった自分の罪が、神さまに忘れていただけるように、考え方を180度ひっくり返して神に立ち返りなさい。主のもとから慰めの時が訪れ、平和と和解の主があなたがたの心にも来て下さるのです」
ペトロは直接キリストを十字架につけて殺した人々に訴えましたが、私たちにも、神のご計画や思いに対する無知と反抗の心が依然としてあります。日常の出来事としては小さな罪かも知れませんが、小さな火種も大きな火事を引き起こします。もし「主よ、この過ち、無知を赦して新しい霊を注いで下さい」と小さな悔い改めの心で毎朝祈るなら、その日一日、平和が訪れ、それが持続していきます。毎朝が大切です。時間がないときも1分あれば祈れます。簡単なことを毎日実行する人は変わるに違いありません。たいていはこの簡単な事が三日坊主になってしまいますが、そうならないように互いに祈り合い、励まし合って今週を生きていきましょう。
祈ります。
主よ、無知から生じる罪を赦して下さりありがとうございます。けれども私たちは愚かにも罪を繰り返してしまいます。どうしようもない私たちを愛して、わが子として迎えて下さることを信じます。あなたの子の一人としてイエスキリストの言葉を聴いて生きていきます。毎日毎日あなたの思いを学び、祈れるように導いて下さい。自分を愛するように私の隣人を大切にします。その隣人が拡がっていきますように祝福して下さい。主イエスキリストの名によって祈ります。アーメン
下記画像はウィキペディアより