「わたしたちはこの事の証人です」と、ペトロははっきり宣言しました。今朝のメッセージは「証人」です。別の言い方をすれば「目撃者」です。
教会ではバプテスマに立ち会う人、また結婚の仲人を証人と言います。私たちの「証人」になって下さったご夫婦とは今でも親しく付き合いが続き、折々に良くして下さり、互いの子どもたちの成長を喜び合ってきました。見守られ、励まされ、決断の時の相談相手を、時には厳しい指導もありました。証人を依頼されることは嬉しい面もありますが、辛抱強く愛情がなければ出来ることではありません。
「証人」は神さまの前での証言者であり、人間に対する誠実さが求められる厳しい役割でもあるのです。バプテスマや結婚の「証人」本人が神さまを信じ、神に支えられていなければ、何の助けにもなれない存在になってしまいます。神の前でなされた約束や契約の「証人」は役割を知らずには責任を果たすことができないのです。教会が世俗的であったり信仰者としての弱さが露わになるとしたら原因はここです。
一般社会でも「証人」という言い方があります。事故や事件を目撃した人、あるいは当事者の生活や背景をよく知っている人を指します。または「時代の証人」という場合、戦争や大災害で生き残った人が、どんなにひどい状況を生き延びたか、体験したかを書き残したり、若い世代に語ったり人々のことです。
ところで「証人」とは裁判用語です。私はある人の証人調書を書いて減刑を嘆願したり、あるイラン人が巻き込まれた事件で無罪を信じて傍聴したことがあります。その青年は強盗事件の被告でした。検察官の証人への質問はひどいものでした。証人が犯人が目出し帽をかぶっていたと言っているのに、彼を指して「この人ですね」と断定的に言い、証人も「間違いありません」と応じたのです。二人は被告が外国人だから悪いことをするに違いないという先入観で公平さを失っています。国選弁護人にも失望しました。突くべき所を突かず、何の反論もせず結審しました。面会に行った時に分かったのですが、何と、弁護士は早く自白した方が刑が軽くなるとアドバイスしていたのです。これを真に受けて、やってもいないことを認めてしまい、青年は有罪になり、日本人に失望しながら強制送還されてしまいました。
聖書に入ります。午後3時の祈りの時、「美しの門」の前に運ばれてきた男が通りがかりのペトロとヨハネに物乞いをしました。二人は立ち止まり、男をじっと見て「金銀はない。しかしイエスの名を持っている。この名によって立ち上がり歩きなさい」と言いました。ペトロが何を言っているのか最初理解できなかったと思います。ところが、体に力が流れ込んできた感じがして立ち上がれたのです。男は驚きながらいろいろ試してみました。歩いたり飛び跳ねたり、自分の身に起こった奇跡を喜んで、神を褒めたたえながら二人と一緒に神殿に入っていきました。
この奇跡の男を一目見ようと、大勢の人がソロモンの回廊に押しかけてきました。群衆は二人に魔術的な力があると思ったからです。ペトロは群衆をにらむようにして「なぜ驚くのだ。なぜ私たちを見るのだ。」と語り始めました。
ペトロはペンテコステの時と同じように聖霊に満たされていました。16節に「わたしはこのことの証人です」と言い切っています。もしかしたらそうだったかもしれない、というあやふやな言葉ではありません。その目で確かに見た人だけが言える証言です。この事とは、イエスが神の僕であり命の源であること。そのイエスを殺してしまったこと。とりわけピラトが無罪だと言ったにもかかわらず難癖をつけて脅し、人殺しのバラバを釈放させイエスを十字架につけたことです。
ところが神はイエスを死者の中から復活させ、そのイエスが現に今、生きていて自分はただ「イエスの名で立ち上がれ」と言っただけで「イエスの名」がこの人を完全に癒やした目撃者なのであり「わたしはこのことの証人」と言い切りました。この証言はペトロがイエスの仲間であることを白状しているのですから、まかり間違えば当局に捕まえる口実を与えているようなものです。「証人」という言葉は、やがて「殉教者」を意味するようになりました。教会が成長する過程でペトロのように大胆に「証言」したステファノは、モーセと神殿を汚したと決めつけられて、大きな石を投げつけられて殺されてしまいました。
さて、ペトロは「イスラエルの人たち」と呼びかけています。イスラエルとは「神とボクシングする人、とか神は闘う」という意味があり、これは創世記の32章にあるヤコブの旅の途上のエピソードで、天使らしき者がヤコブに戦いを挑んできて一晩中格闘してヤコブが勝ったのですが、天使は「これからあなたはイスラエルと呼ばれる。お前は神と闘って勝ったからだ」と言い残して去って行きました。それでヤコブの子孫はイスラエルを名乗るようになったのです。
ペトロは尊敬の思いを込めて「イスラエル人の兄弟よ」と呼びかけ、神をよく知っているあなた方だからこそ言うのです、と語りかけています。あなた方が驚いているのは、私たちの信心や魔術ではなく、アブラハム・イサク・ヤコブの神が、その僕イエスに栄光を与えて下さった「しるし」なのだと。
この神の呼び方は伝統的なものですが、イエスさまは「神はアブラハムの時も、イサクの時も、ヤコブの時も、今も生きていて信じて従う人と共にいて下さり、物事を成就する力そのものだ」と仰いました。神殿に閉じ込められ、規則やしきたりで呼び出されたり礼拝されたりする死んだ神ではないのです。
つぎに「僕イエス」という言葉です。イエスが誰であるのかに幾つかの表現があります。「神の独り子」「主」「キリスト」「モーセのような預言者」「ナザレの人」などですが、「僕」つまり奴隷という言い方はイザヤ書に頻繁に出て来ます。
これはキリスト教会の初期のイエス理解です。イエスが十字架に自ら架かったのは、神の奴隷として徹底的に神に従ったからで、僕として受けた侮辱や不当な扱いを通して、神は人間がどれだけ偽りや怒りに支配されているか、死の呪いに縛られているか、そこから救い出せるのがイエスの復活の希望であるという福音です。
今も生きて働くイエスの名と力が目の前の男の人の死んだ体を生き返らせたのだ、足だけが丈夫になったのではなく人間全体が新しく生まれ変わったのだとペトロは言っているのです。
このように死んだ人をも生き返らせる「命の源」であるイエスをあなたがたは、あらゆる不当な方法で殺してしまったと群衆を責めながらも、アブラハム・イサク・ヤコブの神がイエスを復活させられたように、信じて従う人にもそのようにして下さるのだと、キリストの救いに招いています。
私たちは使徒信条を空で言うことが出来ますが、その内容をどこまで力ある証言としてアーメンと言えるでしょうか。「主はポンテオピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の神の右に座したまえり」と告白します。時空を超えて私たちはイエスを拒んだ一人でありながら、死人の世界にまで降って行かれたイエスによって新しい人にされたのだと告白しているのです。
これを意味もなく暗記している筈はないのです。これからは一言一言をイエスの名に人間を癒やし神の子とする力があると理解し、心から信じて告白していきましょう。その時、癒やされ強くされた男の人のように、喜び躍って神を賛美し、礼拝する者とされるのです。
最後に、神は約束を破ったアダムとエバを楽園を追い出されました。その上、きらめく剣の炎で「命の木」を囲ってしまわれました。けれども、神は動物の毛皮で造った着物を与えたのです。毛皮は動物の死によって得られますから、これをパウロは、イエスキリストの死によって命を着ると表現しました。
神は、どこまでも私たちを愛して下さいます。神はイエスを拒む人々をも招いておられます。「あなたの敵を愛しなさい」とイエスは十字架の上で証しされました。私たちはこのように、どこまでも神に大切にされている存在です。お互いにその様にして生活していきましょう。
祈ります。
私たちが敵であった時でさえ、憐れみをもって生かして下さり、イエスを信じて歩み出した人を、どんなに愚かであっても見放さずに最後まで愛して下さいます。その愛に応えて今週も生活していきます。あなたの愛の証言者として。
主イエスキリストの名によって祈ります。アーメン