2016.4/3 さあ、私のために聖別しなさい

◆ (エレミヤ31:27-28、使徒言行録13:1-3)
 主を礼拝し断食していると聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロを私のために 選び出しなさい。私が前もって決めておいた仕事にあたらせるために」使徒言行録13章2節
 私たちの歩みは今朝から26年目に入ります。たった3節のみことばに幾つもの重要な言葉が含まれています。主、礼拝、断食、聖霊、召命、預言、教師などです。
 1991年、長野県町教会の伝道師として働き始めた頃、親友のMさんの田んぼで稲刈をするというので誘われ、そこでH伝道師、Oさんと初めて出会いました。
 まさかその後、O青年が仕事を辞めて神学校へ、更に20年後にMさんも献身の道に踏み出すとは想像もしませんでした。二人の心にはすでに幻があったのかも知れません。
 世間で「主を礼拝する」と言っても分からないでしょう。「神を礼拝する」「仏を拝む」は通じるかも知れません。
 主を礼拝する、と言うときの主は「私の主」です。神とか仏とか漠然とでなく、まさに私の救い主、私の所有者(キュリオス)、私のイエスです。
 主なる神、主なるイエスに集められた(エクレッシア)人々が「教会」です。共に集い、神に結びつき、礼拝してこそ神の民「主を讃美するために民は創造された(詩102:19)」なのです。
 「礼拝」と訳されたレイトゥルギアは、民(ラオス)と仕事(エルゴン)の合成語で、神の民の仕事を意味します。
 古代ギリシャの都市国家(ポリス)で自由人が、公共のために時間や労力、知識や技術、時間、私財を提供することでした。あくまで自由人が、自発的に喜びと名誉をもってなすことだったのです。
 人生でも歴史でも節目の時があります。人が思い描く夢や計画ではなく、予想もしない時と方法でそれが実現するのです。
 福音の場所も、ガリラヤからエルサレムへ、エルサレムからガリラヤへ、アンティオキアへ、そして未知の世界へと。
 アンティオキアの教会はエルサレムの貧しさを補うほどに成長し、そこに集まった人たちは多彩でした。肌の黒い人(ニゲル)と呼ばれるシメオン、キレネ(北アフリカ)人のルキオ、領主ヘロデの同窓(たぶん貴族)マナエン、中核のバルナバとサウロなど。
 預言のカリスマを与えられた人、聖書や預言を解き明かせる人がいました。彼らは定期的に礼拝し、伝道について語り合っていたかも知れません。だからこそ、ある時、断食して判断を主に仰いで祈っていたのです。
 あるとき「バルナバとサウロを聖別しなさい。彼らを召したとおりの仕事を与えよう」と聖霊が告げました。人の思いを越えた選びと成長の節目です。それはクリスチャンの誰にも、教会にもあるのです。