(ヨブ記42:1-6、使徒9:19b-22)
サウロは数日の間、ダマスコにいる弟子たちと共にいて、すぐに諸会堂で、イエスのことを「この方こそ神の子である」と宣べ伝えた。これを聞いた人々は皆あっけにとられた。(岩波訳 9:19b-22から)
きょう、私たちは教会創立24周年を迎え、幼子からお年寄りまで神の家族として礼拝しています。血のつながらない人々が神に招かれて家族となれたことは奇跡です。
もし、ある時代にある人が「神のことばに圧倒されて」人生が変わらなかったなら、松本教会も筑摩野教会もなかったに違いありません。その一人はサウロであり、名も知られない一人のクリスチャンであり、宣教師であり、私たち一人一人なのです。
バプテスマを受けたサウロは、聖霊に満たされて新しい人になりました。あれほど激しくイエスを否定し、信じる人を憎んだのに、自分がイエスに赦されたことを肌で感じました。アナニヤやダマスコの信者たちが「兄弟」として接してくれたからです。
これまで誰よりも熱心に神の命令を守り、神に逆らう人を許さず、氏素性にプライドをもっていたサウロでしたが、どこかで神を恐れていました。律法違反や神に罰せられることはないかと。監視の目を自分にも向けていたサウロは、悔い改めて罪を赦された(神の愛に戻る)ことが、どんなに素晴らしいか、はっきり分かったのです。
神の赦しを確信したサウロは早速、安息日(土曜)に会堂へ出かけて証をしました。「イエスさまは、こんな私をすっかり赦して下さった。この方こそ、神の子です」と。
面食らったのは居合わせたユダヤ人です。「あの男は、つい先頃までイエスを呪い、信者たちを捕まえるのにやっきになっていた張本人ではないか。それが手のひらを返したように、イエスが救い主だと論じている」
しかし、幼いときからしっかりと聖書を学び、ガマリエル門下生として修行したサウロの話には説得力がありました。素直に聞く人にはサウロの話は、真実だと分かったのです。
けれどもサウロは古い仲間にとって裏切り者になったのです。サウロの伝道は苦労の連続でした。行く先々で彼の証を受け入れて救われる人がある一方で、どこまでも自分たちの言い伝えや伝統に縛られてサウロを殺そうとする勢力がいました。
「私の名のためにどんなに苦しまなければならないか」とイエスさまは常にそばにいてパウロとくびきを担ったのです。
けれども、神の言葉は閉じ込められたりしません。自由な霊はサウロに力を与え、世界中に伝道者を送り出し。そして日本にも、この松本にも、そして私たちに。
140年程前、一青年が横浜に出て行きました。彼はアメリカの宣教師に出会い、福音を伝えられて入信します。松本に来て聖書販売のかたわら伝道を始めました。
明治初期のキリスト教週刊雑誌「七一雑報」に「(**)河邨天授、コルレルの講義を聴く。・・・・大いに感発し・・・・志を抱いて松本に帰り・・・・」そのコーレル宣教師の報告書には「私の横浜のバイブルクラスのメンバーで、先ごろ郷里の信州松本に帰った男(**)から、1877年の初秋、手紙が届き、松本に来てほしいと懇願された。故郷で伝道を試みたが自分の非力を感じ、応援を求めた。」とあります。(**)は、ある記録には長沢弥左衛門、別の記録には原田弥右衛門、1926年の教会報には長沢弥右衛門。(**)本当は誰?
「七一雑報」にある河邨天授こそ、1878年創立の松本教会で初代牧師となった人です。
私たちも、いま教会に来て礼拝している。イエスを主と信じるようにされた。でも、最初にイエスさまを紹介してくれたのは誰?最初に教会へ誘ってくれたのは誰?最初に私のために祈ってくれたのは誰?かけがえのない、その一人の人が誰だったのか正確に思い出せない人は多いのではないでしょうか。
私たちの伝道所は、それから百年後の1978年、松本市南部への伝道が幻として与えられた松本教会が、13年間も北原町でクリスマス会、子ども会や聖書を読む会を続けて、ついに、1991年4月に12人の信徒が志願して最初の会員になり、礼拝が始まったのです。
聖霊の風が吹いています。心の窓を開いて、イエスさまの聖霊を迎え入れましょう。