4月19日 礼拝中止のご案内(復活節第2主日)

COVID-19の感染防止のため長野県でも外出を極力避ける宣言がされました。

とても、残念ですが、19日の礼拝から当面「集まっての礼拝」を中止します。一部の出席出来ない方々とは、電話の音声で同時的に礼拝に参加できていますが、不特定多数とはまだ技術的にできません。申し訳ありませんが、当面、別の方法を検討しますのでご理解下さい。

招詞:上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。(コロサイの信徒への手紙2章2~3節)

ダニエル書6章19~25節

 6:19 王は宮殿に帰ったが、その夜は食を断ち、側女も近寄らせず、眠れずに過ごし、
 6:20 夜が明けるやいなや、急いで獅子の洞窟へ行った。
 6:21 洞窟に近づくと、王は不安に満ちた声をあげて、ダニエルに呼びかけた。
「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか。」
 6:22 ダニエルは王に答えた。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。
 6:23 神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」
 6:24 王はたいそう喜んで、ダニエルを洞窟から引き出すように命じた。ダニエルは引き出されたが、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼していたからである。
 6:25 王は命令を下して、ダニエルを陥れようとした者たちを引き出させ、妻子もろとも獅子の洞窟に投げ込ませた。穴の底にも達しないうちに、獅子は彼らに飛びかかり、骨までもかみ砕いた。

ヨハネによる福音書20章19~31節

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて、八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスはメシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

讃美歌:子どもさんびか34-1番

    讃美歌21ー331番、450番、452番

説教題:目には見えない真理の力

説教:島津牧師

4月12日 主日礼拝のご案内(復活節第1主日・イースター)

10:25~11:30

COVID-19が長野県でも拡がっています。

いつもは、大勢の方と共に礼拝を守り、愛餐とお祝いの会を楽しんでいましたが、
今年は聖餐式、愛餐会、卵探しゲームなど一切を中止しました。静かな礼拝を守ります。各自でマスクをしてきて下さい。受付でアルコール消毒をして、席は離れて座っていただきます。

招詞:見よ、闇は地を覆い

   暗黒が国々を包んでいる。

   しかし、あなたの上には主が輝き出で

   主の栄光があなたの上に現れる。(イザヤ書60章2節)

ヨハネによる福音書 20章11~18節

 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。」わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で「ラボ二」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

コリントの信徒への手紙2 6章1~10節

 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、
 「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。
 救いの日に、わたしはあなたを助けた」
と神は言っておられるからです。今や、恵みのとき、今こそ、救いの日。わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

讃美歌:子どもさんびか34ー5番

     讃美歌21-321番、322番、69番

説教題:涙の夜から希望の朝へ

  説教:島津牧師

4月5日 受難節第6主日 しゅろの主日

10:30~11:30

招 詞

キリストは罵られても罵り返せず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

   (ペトロ第1の手紙2章23節)

ゼファニア書 3章14-20節

 3:14 娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。
 3:15 主はお前に対する裁きを退け/お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。
 3:16 その日、人々はエルサレムに向かって言う。「シオンよ、恐れるな/力なく手を垂れるな。
 3:17 お前の主なる神はお前のただ中におられ/勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ/愛によってお前を新たにし/お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」
 3:18 わたしは/祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ/お前の重い恥となっていた。
 3:19 見よ、そのときわたしは/お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。わたしは足の萎えていた者を救い/追いやられていた者を集め/彼らが恥を受けていたすべての国で/彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。
 3:20 そのとき、わたしはお前たちを連れ戻す。そのとき、わたしはお前たちを集める。わたしが、お前たちの目の前で/お前たちの繁栄を回復するとき/わたしは、地上のすべての民の中で/お前たちに誉れを与え、名をあげさせると/主は言われる。 

ヨハネによる福音書18章28~40節

 18:28 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。18:29 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。18:30 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。 18:31 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。 18:32 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。 18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。 18:34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」 18:35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」 18:36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」 18:37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」 18:38 ピラトは言った。「真理とは何か。」 18:38 ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。 18:39 ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」 18:40 すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。

讃美歌:子どもさんびか34番ーキリストのいのちが

    讃美歌1-28番、140番、276番

説教題:真理を生き抜いた王  島津 晃

4月5日はしゅろの主日です。午前10時30分から

しゅろの主日礼拝ご案内
「真理を生き抜いた王」
旧約聖書 ゼファニア書3章14-20節
新約聖書 ヨハネによる福音書18章28-40節

苦難をくぐり抜けてきたユダヤ人には特別な信仰がありました。いつか名誉を取り戻し繁栄をもたらしてくれるメシアが現れるという期待です。似たことが何度かあったからです。
メシアとは神に選ばれ、頭に油(オリーブ油)を注がれて就任した祭司や王、ギリシャ語ではキリスト。
過越祭を間近に、エルサレム参詣の人々は歓呼してイエスをメシアとして迎えました。ナツメ椰子の葉を道に敷き、手には枝を握って。その中をイエスはロバに乗って入城しました。5日後、人々のメシア信仰は見事に裏切られ、歓呼は「十字架につけろ」の怒号に変わりました。イエスは軍馬でなくロバに乗り、人の罪を背負って死んで下さるメシア、真理の道を歩む王、日々私たちを救う王です。
日本では「しゅろ」ですが、棕櫚とナツメヤシPalmは別物です。

     安野光雅  アムネスティーインターナショナル葉書から

もうすぐイースターです。4月12日 午前10時30分から

イースターは死から復活されたイエスを迎える喜びのフェスティバルです。
 神さまを知らなかったり、気がついていても背を向けている人は、一人で悩んだり苦しんだりしていませんか。その状態を罪(つみ)と呼びます。罪のために魂が渇いて今にも死にそうなのを知らせ、命の泉へ招くためイエスは十字架で死なれました。その十字架のメッセージを信じた人は罪がゆるされています。そう信じる人には神とつながる道が開かれています。(教会の中学生のイラストだよ

罪から解放された人々は、イエスをキリスト(すくいぬし:救いの主人)と信じました。
それでイエス・キリストと呼ぶのです。   
 Easterとは古い英語で昼が長くなること。春の女神を迎える祭りが元でした。
 パスカ(過ぎ越し、突破:ギリシャ語、ラテン語)と呼ぶ教会もたくさんあります。
イースターエッグ探しをします。
急遽、感染防止のため中止にします。4月9日

3月22日 主日礼拝のご案内(受難節第4主日・レント4)

10:35~11:40

*10:15~10:30 子どもの礼拝

招詞:知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。

   (コロサイの信徒への手紙2章3節)

エレミヤ書 17章14~18節

 主よ、あなたがいやしてくださるなら   わたしはいやされます。 あなたが救ってくださるなら   わたしは救われます。 あなたをこそ、わたしはたたえます。 御覧ください。彼らはわたしに言います。 「主の言葉はどこへ行ってしまったのか。 それを実現させるがよい」と。 わたしは、災いが速やかに来るよう    あなたに求めたことはありません。 痛手の日を望んたこともありません。 あなたはよくご存じです。 わたしの唇から出たことは あなたの御前にあります。 わたしを滅ぼすものとならないでください。 災いの日に、あなたこそわが避け所です。 わたしを迫害する者が辱めを受け わたしは辱めを受けないようにしてください。 彼らを恐れさせ わたしを恐れさせないでください。 災いの日を彼らに臨ませ 彼らをどこまでも打ち砕いてください。 

ヨハネによる福音書8章1~17節

 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗になった。 そして、「シロアムー『遣わされた者』という意味ーの池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言うものもいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。

讃美歌:子どもさんびか34番ー2

    讃美歌21-297番、503番、448番

説教題:まさに、それは私です。

説教:島津牧師

3月15日 主日礼拝のご案内(受難節第3主日・レント3)

10:25~11:30

招詞:あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。(ペトロの手紙1 2章3~4節)

レビ記26章3~5節

 あなたたちがわたしの掟に従って歩み、わたしの戒めを忠実に守るならば、わたしは時季に応じて雨を与える。それによって大地は作物をみのらせ、野の木は実をみのらせる。穀物の収穫にはぶどうの収穫が続き、ぶどうの収穫には種蒔きが続いて、あななたたちは食物に飽き足り、国のうちで平穏に暮らすことができる。

ヨハネによる福音書6章47~58節

はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降ってきたパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

讃美歌:子どもさんびか34-1番

    讃美歌21-21番、432番、56番

説教題:わたしたちを生かすパン

説教:島津牧師

3月8日 主日礼拝のご案内(受難節第2主日・レント2)

10:35~11:40

*子どもの礼拝10:15~10:30

招詞 :しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマの信徒への手紙4章8節)

エレミヤ書5章20-25節

 これをヤコブの家に告げ、ユダに知らせよ。 「愚かで、心ない民よ、これを聞け。 目があっても、見えず 耳があっても、聞こえない民。 わたしを畏れ敬いもせず わたしの前におののきもしないのかと 主は言われる。 わたしは砂浜を海の境とした。 これは永遠の定め   それを越えることはできない。 波が荒れ狂っても、それを侵しえず とどろいても、それを越えることはできない。 しかし、この民の心はかたくなで、わたしに背く。 彼らは背き続ける。 彼らは、心に思うこともしない。 『我々の主なる神を畏れ敬おう 雨を与える方、時に応じて     秋の雨、春の雨を与え 刈り入れのために   定められた週の祭りを守られる方を』と。 お前たちの罪がこれらを退け お前たちの咎が恵みの雨をとどめたのだ。」

ヨハネによる福音書3章16~21節

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行うものは光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

讃美歌:子どもさんびか34-5番

    讃美歌21-291番、511番、523番

説教題:闇でなく光にとどまれ

説教:島津牧師

3月1日 主日礼拝のご案内(受難節第1主日・レント1)

10:25~11:30

招詞:「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。誰もこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。」(ヨハネの黙示録1 3章8節)

申命記8章6節

あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。

マタイによる福音書4章1~11節

 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 すると、誘惑するものが来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、お答えになった。 「『人はパンだけで生きるものではない。   神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。 『神があなたのために天使たちに命じると、  あなたの足が石に打ち当たることのないように、  天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。 『あなたの神である主を拝み、
  ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

讃美歌:子どもさんびか34-4番

    讃美歌1-24番、202番、445番

説教題:誘惑を退けるみことば

説教:島津牧師