2023.11/12 勇気ある和解

 人間はどうして争うのでしょうか。戦争や虐殺という巨大な争いもあれば、差別という社会的な争い、夫婦間にも家族間でも、あるときはあるものです。
 争いの根本はエゴイズムです。相手の行動やその理由を理解できないので受け入れられず、たとい話合いをしても心が閉ざされていては謝ることが出来ません。その結果、お互いに苦しい思いは続き、損をしあっています。
 たとえば、幼い兄弟や友だちの間で、おもちゃや、絵本の取り合いがきっかけで喧嘩が始まることがあります。「喧嘩しちゃだめでしょ」と怒鳴って二人を引き離したりするお母さんもいれば、しばらく放っておいて「どうしたの」と介入し、二人の手をとって、それぞれの言い分を聞いて仲直りを促して「ごめんね」を引き出せるお母さんもいます。
 仲直りは幼児にも通じる言葉ですが和解は大人の言葉です。元々は法律用語で「当事者間に存在する法律関係の争いについて、当事者が互いに譲歩し、争いを止めさせることをいう」とあります。つまり争いがある関係に仲介者を立てて折り合いを図ることをさします。それが個人間で解決できる程度もあれば、訴訟になって裁判で和解が勧告されることもあります。
 日本語の旧約聖書で和解とされた場面のほとんどは「和解の献げ物」という犠牲と結びつけられています。面白いことに「平和にする」「和平を図る」「神と関係を回復する」というシャロームと同意の言葉です。
 新約聖書ではマタイ5章25節のイエスの教えに一つ、パウロが10回も多用する和解「カタラッソー」の元来の意味は「等価なものと交換する」ということです。それだけでは和解につながりませんが、「いつの間にか不釣り合いな状況になった関係を、本来の公平な基準に戻す」ことだと通じます。 また、英語の「リ・コンシル」はラテン語の「再び呼び出される」からきた言葉で、私なりに解釈すると「最初の呼び出しで結んだ関係を、もう一度呼び出されて正しく結び直す」とすれば、悔い改めの意味と重なります。結果、平和「エイレーネー」と深い関係にあると思います。
 第2コリント5章の他に、エフェソ書4章には「実にキリストは私たちの平和です。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました。こうして、キリストは双方をご自分において、一つの新しい人に作り上げて、平和を実現し、十字架を通して両者を一つの身体として神と<和解>させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」とあります。
 神は人間が正しく生きるようにモーセの律法を人間世界に与えました。喜んで受け入れた人もいれば、無視したり聞き逃した人々もいたはずです。
 パウロは喜んで受け入れた一人で、さらにエルサレムに留学し、律法の精神と行動を身につけました。その結果どうなったかというと、学べば学ぶほど、励めば励むほど、律法をないがしろにしている人への軽蔑や憎しみが増したのではないでしょうか。それだけではなく批判は自分に向かいました。律法に徹底して従いたい自分と従い切れない現実に、心が分裂して苦しみが募りました。マルチン・ルターもパウロとそっくりな葛藤で苦しみました。
 さて、パウロはなぜ激しく教会と信者を攻撃したのでしょうか。第1に、イエスの声を直に聞いたことがなく、その評価が正統派ユダヤ人の立場からだったこと。第2に、死をも恐れないキリスト者は自分が抱える葛藤(ローマ7章24節)ゆえに、偽善者集団か反体制の一味だと決めつけていたのではないかと私は思うのです。
 一方、イエスの立場は律法主義とは正反対です。その具体的な表明がマタイ福音書5章から7章にかけて書かれています。
 神の戒めである律法は、そもそも人間を幸せにするためのものです。その原則は「聞く耳のある者は聞きなさい」と「聞いているだけでなく行いなさい」の二つです。イエスの言葉をなるほどと思うのと、生活で実践するのとは全く違います。分かったつもりが、とても出来ないことだと痛感します。
 そうだとしても、御言葉を聞かなかった前と、御言葉に期待して行った後では、自分と相手の、心も状況も変わっているという経験をするのです。
 それが聖霊の働きです。祈りは聞かれているとイエスに委ねきって祈ると、状況は何ひとつ変わっていないように思えるのに、ある時「祈りは聞かれていた」と気づかされます。何という不思議、畏れ多い喜びを感じます。
 福音書を書いたマタイも最初は自分勝手な解釈だったに違いありません。しかし先生であるイエスがいつも父なる神に祈り従っておられたこと、それゆえ十字架で殺されたこと、復活の目撃者になったことか彼を変えました。
 巻き添えを恐れて見捨てたにも関わらず自分たちの真ん中に現れて「シャローム」と声をかけ、魚を食べ、念入りに御言葉を教えて下さったのです。
 こうして弟子たちは新しい人とされて御言葉を正しく理解しました。
 マタイは「人には出来ないが、神には何でもできる」という信仰に立って喜びの体験録として福音書を記し、イエスの教えを紹介しています。
 「目には目を、歯には歯を」は、仕返しを拡大させない掟です。今イスラエルの政府は、この教えを知りながら、相手を抹殺しようとしています。
 「悪人に刃向かうな」「右の頬を打たれるなら左の頬も向けなさい」「訴えて下着を取ろうとする人には上着も」「1ミリオン強制するなら2ミリオンを行きなさい」「求める人には与え、借りようとする人を拒まない」
 どれも無理難題です。私たちにはとても出来ないし、その様なことがまかり通ればこれまでの秩序は壊れてしまいます。それは誰でも予想できます。
 しかし、一つ一つを丁寧に考えれば、すべて同じ事を言っているのです。たとえ、相手の憎しみから受けた傷にせよ、行き過ぎた正当防衛から相手を殺したら争いは解決しません。むしろ報復の連鎖が生まれるだけです。
 それをストップさせるのは、イエスの教えを真に受けた勇気ある人々です。80年前のインドはイギリスの植民地でインド人がインド人をひどい不道徳で支配しました。若きガンジーは法律が正しく執行されるならインドの状況が変わるの信じ、イギリスで弁護士になりました。しかしひどい人種差別に晒されます。失意の内に帰国しますがやがて不服従運動を自ら始めました。その運動のアイデアはイエスの教えにあり、苦しい闘いの中でユーモアにあふれた運動になっていきました。イギリス人記者の質問に「クリスチャンはイエスを信奉してはいるが、彼の教えは実行しない」とユーモアで答えたと通りです。ユーモアは相手の人間性に投げかける知恵から生まれる言動です。ガンジーは、敵を赦すことに反対だった支持者に暗殺されてしまいましたが、その後、公民権運動や非暴力による市民運動に受け継がれています。
 イエスは一般論を語りません。「わたしについてきたい者は、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」と迫ります。これには尻込みしますしハードルが高すぎます。私たちはこの高いハドルに挑めない者ですが、イエスは私を、私たちを選ばれました。その選びを信じているから、私たちはイエスを「主」として仰いで従う者、従いたいと励む者にされているのです。
 ですから、それは無理というようなことも、「イエスには出来る」と信仰にかけて1歩踏み出す根拠があります。そのときイエスは一緒に歩いて下さいます。保証人、仲介者、弁護士、カウンセラーとして心強い方なのです。
 人生に争いはつきものです。だからイエスを弁護士としてお願いし、どんな相手とでも和解できると信じて、争いから逃げないようにしましょう。
 見ない、聞かない、言わない、という染みついた処世術を脱ぎ捨てることができるよう祈りましょう。勇気を主イエスからいただきましょう。
 人生は四苦八苦で終わりません。イエスが一緒にいてくださる人生。臨在の信仰は先輩たちからの遺産です。何と幸いな旅に招かれたことでしょう。

(参考までに)
 日本のプロテスタント教会では、11月の第2日曜から1週間を「障害者週間」としています。政府が定めた「障害者の日」は12月9日でした。
 この日付は1975年の国際連合「障害者の権利宣言」採択の日にちなみます。2004年に障害者基本法が改正されたのに伴い「障害者の日」は消滅しました。その後も「障害者の日」を覚えて運動が継承されています。
 教会は遅ればせながら「障害者週間」を制定し残していますが、どれだけ実効性のあるものになってきたでしょうか。ところで「信州なずなの会」はこの日を覚えて総会と交わりを行ってきました。創立から42年になりますが、当初は「思いやりの会」でした。障害者を助け、障害者に福音を拡げることを目指しました。しかし、健常者と障害者に二分する考え方を反省して現在の名前になりました。キリストを頭として共生を願う長野の市民活動です。