2020.4.19 主日礼拝 「目には見えない真理の力」

今朝、示されたのはダニエル書6章とヨハネ福音書20章の後半です。
 ダニエル書にはユダヤ人がバビロンに囚われた70年間、偶像礼拝の環境で、ユダヤ人の神への礼拝が禁じられていた時代の姿が書かれています。後の時代に真剣なユダヤ教徒やクリスチャンが弾圧されていたとき、励ましと希望を指し示した書物です。
 ダニエルは2度も「礼拝を密かに行っている」と密告されて死刑を宣告されます。
 1度目は激しく燃える炉に投げ込まれました。2度目は腹を空かせたライオンの洞窟に放り込まれました。
 けれども何の被害もありませんでした。こんなことは信じられるでしょうか。しかし歴史の中で、神を信じる人々は神の守りを信じて、苦難に耐え礼拝を守りました。信仰があれば生活が守られ命が助かるとは限りません。逆に信仰故に非業の死を遂げた人は沢山いました。しかし、彼らを強くしたのは「たとえ死ぬことになっても、神さまは正義を貫かれる」という信頼、絶望の中の希望だったのです。
 イエスが復活された日曜日の夕方、弟子たちは家の戸の鍵をかけていたと書いてあります。ユダヤ当局の探索は当然、自分たちにも及んでいるという恐怖心からです。
 金曜日の未明に彼らは皆、イエスを園に残して逃げました。ペトロは大祭司の庭に忍び込んだものの、イエスの仲間だと追求されると、主を3度も否定し、イスカリオテのユダは裏切りを悔やんで自殺してしまいます。ヨハネはイエスから母親マリアの世話を託されました。他の弟子たちがどうだったか分かりませんが、その心は皆同じだったと思います。イエスへの思いは絶ちがたく、だからこそ、あの部屋に集まってきたのです。
 ガリラヤ出身の弟子が知っているのはベタニアのラザロの家か、あの最後の晩餐の部屋しかありません。もし見つかったら一網打尽です。ですから仲間内で信頼していた人の部屋だったと推測します。
 新共同訳では家の戸の鍵、と書いてありますが、原文では「彼らのいた所の戸は閉められた」とあるだけです。新共同訳は恐怖を強調して「家の戸の鍵をかけた」となっています。
 さて、彼らはユダヤ人を恐れていました。戸を閉じていました。
いつの時代もいろいろな恐怖があります。今日の私たちも同じです。
 恐怖が支配する中で、男弟子たちはマグダラのマリアから「私は主を見ました」「主はこれから父のもとに昇っていく」と聞きました。しかも「イエスの父は自分たちの父、イエスの神は自分たちの神」と知らされていたのです。しかしマリアのメッセージよりも恐怖が勝っていたのです。そんなことをイエスは充分ご存じでした。
 だからこそ、マリアに託した言葉が真実であり、召命を見失いかけた弟子たちを、再び弟子として集めるためにおいでになったのです。
 原文は「イエスは来て真ん中に現れた」と。前触れなく部屋に入ってきて真ん中に立たれ、祝祷のようにされたと推測します。
「あなたがたに平安があるように」この言葉は、マグダラのマリアに「マリア」と親しく呼びかけ、他の福音書で女たちに「おはよう」と明るい声で挨拶した言葉です。
 けれども、イエスが捕らえられ逃げてしまった彼らが、遠くから十字架を眺めたにせよ、今はっきりと事実を教えるために、ご自分の傷跡、十字架に打ち付けたれた大きな釘の跡、兵士に刺された槍の跡を示されました。傷跡を見てようやく、弟子たちは主が復活されたことを確信できました。そして喜びが溢れてきました。
 彼らはイエスが選んだ人たちですが、プライドばかり強く、大事なときに腰砕けでした。けれども、イエスは彼らを一切とがめず、新しい、これまでとは決定的に違う段階の言葉を与えます。
 「平和があるように」これは受難の直前に「わたしは平和をあなた方に残し、わたしの平和を与える」「わたしはこれを世が与えるように与えるように与えるのではない」「事が起こった時に、あなた方が信じるように、今、話しておく」と言われた平和と同じ言葉です。
 弟子たちは、ようやく思い出しました。そう言ってイエスは彼らに息を吹きかけられました。創世記の人間誕生を思い出します。
「聖霊を受けよ」「誰の罪でもあなた方が赦せば、その罪は赦される」「誰の罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る」
 弟子たちへの2度目の選び、新しい祝福と派遣の命令です。
 まだ聖霊を受けていなかった弟子たちは、この世を恐れ、イエスの本当の姿を知りませんでした。聖霊を受けない信仰は本当に弱く無知なのです。
 私たちは体験を重んじ、この世の常識を安定の土台にしています。それも大事です。けれども人間が本当に生きているとは、神に造られ神に知られ、神に愛され、自由に生きていることではないでしょうか。そして「真理はあなた方を自由にする」とイエスが言われた真理とは、まさにイエスご自身のことであり、これからはイエスから派遣される助け主、聖霊のことです。
 「聖霊を受けよ。そして世に出て行け」とイエスはご自分と共に生きる信仰者に宣言されます。聖霊は突破するエネルギー、力です。
 最後に、弟子たちは他人を裁く権威が与えられたのではありません。赦さなかったら、人の罪はそのまま残るという意味で言われたのです。つまり、この世の人々の罪が残らないように、世界中に出て行って罪の赦しの福音を伝えよ、との指令です。今や弟子たちは、私たちは、イエスの使者として赦しと自由を伝える証言者に任命されたのです。その人は困難に遭いますが、同時に祝福され、生きた存在になれます。
 聖霊を受けて、キリストの平安と喜びに目覚め、しっかりと掴んで、制約ある日々を生活していきましょう。主の平和と共に シャローム