2016.3/27 さあ、行け。そこで会えるから

◆(エレミヤ31:31-34、マルコ16:1-8)
 驚くことはない。あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活させられてここにはおられない。見よ、ここがお納めした場所である。
 今朝の礼拝は、1991年4月7日から1304回目の満25年にあたる復活祭の礼拝です。
 キリスト教の礼拝と歴史は復活のできごとが原点です。十字架の上で死んだナザレのイエスを神が「新しいいのち」に復活させられました。
それは週の初め日の夜明け前の神秘です。明け方、
①三人の女たちがイエスの体を香油で清めるため墓に向かいました。墓は大きな石で封印されていましたが、
②すでに開いており、
③墓に入ると白く輝く若者を見て仰天します。彼は、
④「ナザレのイエス(の遺体)を捜しているだろうが、ここにはおられない。あの方は復活させられたのだ。
⑤見よ、納めた場所を。
⑥さあ、行って、ペトロたちに伝えなさい。かねて言われていたとおり、主は先にガリラヤに行かれる。そこでお会いできる」と告げます。
 彼女たちは震え上がるほど怖くなって逃げ帰り、誰にも何も言わなかった、いや混乱して言えなかったのです。これが、マルコの告げる復活の朝の出来事です。
 イエスより六百年前、預言者エレミヤは神から示されました。「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る」と。神の愛に逆らい続けた古いイスラエルは滅びました。けれども新しい契約は、人間の不実にもかかわらず神の熱心によって実現しました。
 「私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」イエス・キリストの十字架の死によって「私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」という確実な約束です。
 キリスト信仰は再出発の希望をいつも示しています。
 無力感の前に立ちはだかる大岩は除かれ、香油は不要になり、ガリラヤへの道が示されました。イエスは確かにガリラヤにおられた。復活の姿、存在として。そこからイエスを主と崇める信仰が始まったのです。
 最初イエスに「私についてきなさい」と言われた意味がはっきり分かりました。人間の愚かさも弱さも嫌と言うほど知った弟子たちは、故郷ガリラヤから、本物の「人間の漁師」として立てられます。
 私たちも四半世紀・25年を感謝して、その意味を問い直し、私たちのガリラヤで主と出会い、従いましょう。