2020.5.3 三度目の召命

今朝、示されたのはイザヤ書42章とヨハネ福音書21の前半です。共通している内容は「召命」。アジア的に言うと「天命」です。「お前の命を使うから差し出せ」というすごい内容です。
 召命は vocation ボケ―ションの訳語でvoc [声]とate [生じる]とion [こと]で、神の声が現実を生むという意味です。ヘブル語で言葉を「ダーバル」と言うのですが、それは「出来事」と同じ意味もあり、神の声が現実になるというボケーションと同じです。
 さて、召命は使命につながります。まさに神に「召された」私の命(いのち)が、神によって「使われる」命になるのです。
 まず旧約の時代ですが、イザヤは暗黒時代に「光とまっすぐな道」があると預言しました。光であり道であるイエス・キリストが到来することを預言しています。ここを新改訳聖書で読んでみます。
「見よ、わたしが支えるわたしの僕、わたしの心が喜ぶわたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に裁きを行う。彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。痛んだ葦を折ることなく、くすぶる灯心を消すこともなく、真実をもって裁きを執り行う。衰えず、くじけることなく、ついには地に裁きを確立する。島々もその教えを待ち望む」とあります。
 次にイエスの時代に飛びます。「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と召された人たちはどうなったでしょうか。
 21章の最初にある「その後」という一言が気になります。20章の29節のトマスが「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白した直後のことでしょうか。そうではないようです。
 弟子たちは「魚を獲る漁師」に戻っていました。ティベリアス湖はガリラヤ湖の別名で、ローマ皇帝ティベリウスに献上された名です。
 復活のイエスに会った弟子たちはどこにいたのか、分からないことがあります。マタイ福音書ではイエスは弟子たちに「わたしはあなた方より先にガリラヤに行く。そこで会うであろう」と言われて、ガリラヤの山の上に集まった11人の弟子に伝道の命令を授けています。一方、ルカ福音書は「聖霊の力に覆われるまでは都に留まっていなさい」と言われた弟子たちは、エルサレムに留まり、50日目に聖霊が注がれたのがペンテコステで、エクレシア(集会)の始まりです。
 この矛盾しているような記述は、「その後」という時間経過に理由があるのではないかと考えられます。
 最初の召命は「わたしに従ってきなさい」とイエスの声に応えて、ある人は漁師をやめ、ある人は律法の教師を、徴税人を、テロリストをやめイエスの後に従いました。そして3年近くイエスと一緒に旅をして、イエスの言葉とわざのすごい力を目の当たりにしました。けれども十字架は彼らの信念を吹き飛ばてしまいました。
 二度目の召命は、部屋の戸を閉め切っておびえていた弟子たちの真ん中にイエスが立った時です。「あなたがたに平和があるように。聖霊を受けよ、罪の赦しの福音を宣べ伝えよ」と送り出されました。
 50日後、聖霊を受けた弟子たちの働きはめざましく、後に教会と言われるエクレシアとなっていきました。男も女も、奴隷も自由人の区別もなく、喜びにあふれて伝道し、仲間が増えていきました。
 そして三度目の召命が「ティベリアス」湖畔の出来事です。弟子たちは漁師に戻ってしまい、仲間は7人になっていました。ペトロが「俺は漁に行く」と言うと「俺たちも」と後に従いましたが、網を打っても収穫はなく、あたりはすっかり明るくなってしまいました。
 その時、岸辺から声がありました。「子たちよ、何か食べ物はあるのか」と。彼らは「何もない」と答えました。それで「舟の右側に網を打ちなさい。獲れるはずだ」と声がしました。テレビでガリラヤ湖の投網を見たことがあります。2-3メートル離れた水面に網が拡がるように投げるのです。網を打つタイミングによって獲れたり獲れなかったりします。弟子たちは言われる通りに網を打ちました。思いもかけない豊漁です。一人が「あれはイエスさまだ」と気づき、ペトロは大急ぎで上着を羽織り、飛び込んで岸に急ぎました。
 岸では火がおこしてあり、魚があぶられ、パンも用意してありました。それでもイエスは彼らの魚を何匹か持ってくるように言われました。
 これこそがイエスと弟子の関係です。
 第1にイエスは彼らの徒労と空腹を知っていたからこそ「何か獲れたか」ではなくて「何か食べる物があるか」と、まず彼らの状態を気遣われています。
 第2に「舟の右に網を打て」これにプロの漁師が素直に応えました。「すべてが益になる」とパウロが言っているように、徒労に思えることもイエスは生かして下さいます。要は素直になれるかどうかです。
 第3にイエスが食事を整えておられます。そこに弟子たちの獲物が加えられます。イエスのわざに弟子のわざが参加するイメージです。
 第4に「さあ来て、朝の食事をしなさい」食卓はイエスとの交わりの要です。イエスがパンを割かれるとき、天の恵みが分かち合われます。イエスの魚に弟子の魚が加えられ、そして配られます。主の声に応えて働く人は食卓にあずかり、力をつけて今日を生きることが出来ます。
 最後に、イエスが死者の中から復活「させられて」後、弟子たちに現れたのは、これで三度目である。
 イエスは「これと思った人」を弟子にされます。その基準は私たちには分かりません。しかし、私たちは何度でもイエスに召されます。
 神は、イエスはご自分のわざを単独で行われません。人間を用います。
何度でも失敗し落胆して道に迷うかも知れません。しかし、何度でもイエスは弟子の前に現れて「さあ来て、朝の食事をしなさい」と招いて下さる食卓の主なのです。
「ありません」と言えたからこそです。