2020.5.24 見よ、神が祝福するすべてを

今日はペンテコステです。これはギリシャ語で50のことです。春の過越祭の翌日から7週後つまり50日目の夏の祭りで、7週の祭と呼ばれました。ユダヤ人なら何をおいても集うべき祭りが3つありました。まず春の過越祭。秋の仮庵祭、そしてペンテコステです。畑の初物、家畜の初子を神殿に奉納し、神の恵みに感謝しました。 この日、神殿に2つのパンと子羊や雄牛が献げられます。パンは初物の小麦粉にイーストを入れて発酵させたものでした。過越祭のパンは大麦の粉にイーストを入れないで焼いたので固くて美味しくなかったと思います。それは先祖がエジプトから逃げ出す時に、大急ぎでパンを焼いたので発酵させる時間がなかったことを思い出すためです。 神殿から帰ると、家族や親戚が集まって食卓を囲みました。年に3度の家族のお楽しみは、同時に親から子に民族の物語を語り聞かせる、大事な教育の時でした。 レビ記23章にはペンテコステの掟が書いてあり、麦畑は隅々まで刈り取ってはならないと命じられています。貧しい人や寄留者や旅人が残った穂によって飢えないように配慮する神の憐れみの心でした。ルツ記の物語を朗読するのはそのためです。ペンテコステには貧富や民族の区別なく、神の恵みを一緒に祝う祭りだからです。 さてこの日、弟子たちもユダヤ人ですからペンテコステを待っていました。しかし、他のユダヤ人と決定的に違っていたのは、イエスが10日前に約束された「上からの力に覆われる」ことを、心を一つにして待ちながら、ひたすら祈っていたことでした。 私なりの直訳を週報に記しました。ペンテコステの日が満了したと表現されているのは、聖霊を待つ祈りの時が満ちたということです。ルカ福音書24章によれば「わたしは父が約束されたものをあなた方に送る。高いところからの力に覆われるまでは都に留まっていなさい」と。使徒言行録の1章によれば「あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして地の果てまでわたしの証人になる」とイエスは宣言されました。それでマリアやイエスの兄弟たち、大勢の男女の弟子たちが心を合わせて熱心に祈っていたのです。 単にイエスに期待する人々が、確信の人に変えられるには祈りの日々が必要でした。そこに聖霊が突然に注がれるのです。この出来事こそ聖霊のバプテスマです。聖霊に清められ新しく生まれた人々のことをエクレシアと呼ぶようになりました。エクレシアは信じる人の群れです。ペンテコステは教会の誕生日と言われるようになりました。 聖霊のバプテスマは人生にどう現れるのでしょうか。たとえば自分なりの努力で作り上げた生活が突然行き詰まるという体験です。私の都合におかまいなく突然、混乱の中に投げ込まれるという風にです。 私は聖書のような劇的な体験をしたことはありませんが、人生を右左する「あの時、この時」を思い起こすと聖霊の存在を実感します。母は幼いとき海でおぼれましたが助けられました。生きていなかったら私はいません。幼い兄が事故で死んで私は今でも生きている。神がわたしを生かして下さる目的は分かりません。確かなのは憐れみです。 高校3年生の時には牧師になりたいと思っていました。ところが父の会社が2度目の倒産をして家族の生活を思って別の大学に進みました。就職して10年、青年会長や役員として張り切っているときに突然、教会を揺るがす事件が起こり、牧師と対立し、同僚役員への不満、青年会員の死、上司への失望が重なって、何もかも投げ出したいとふさいでいました。その時、私が批判してきた人が訪ねてきて言いました。その一言で光が差し、自分の傲慢さに泣きました。 イエスの十字架と復活の後、弟子たちはユダヤ王国の再建が始まると期待しました。しかしイエスの宣言は違いました。弱い者小さな者力なき者を神の力が覆う。それを体験して宣べ伝えよだったのです。 だからペンテコステは聖霊による新しい人間の創造物語でもあります。人はキリストに出会い捉えられて以前と全く違う人間になります。ある人は一晩で、ある人は長い葛藤の中に投げ込まれ、そして聖霊のバプテスマが訪れます。それがいつであるのか、どのようにしてかは誰にも分かりません。天地創造のようにです。 方向性を失っている人生に世界に、突然「光あれ」と神の宣言が響きます。しかし聴く人は少数で、手段は秘密にされています。 数千年前の表現ですが、科学的な視点で読んでも真理だなーとつくづく思います。今日は、この大きな絵本や児童向けの聖書を用意しました。 レギーネ・シントラーさん、脇田晶子さん、中村妙子さんの作品です。何度も読み返してました。女性として母親として我が子に、見えない世界を愛情と信仰と希望で語っています。それでは、中村妙子さんの「創世記ものがたり」から一部を朗読してメッセージを終わります。 さて、六日目のことです。神さまは天と地をつくづく見まわされました。かがやく太陽、みどりの木、うれしそうにあそぶものたち、ぴちぴちおよいでいる魚たち。
「ああ、よくできたな」神さまはまんぞくそうににっこりなさいました。でもまだ、なにかものたりないようです。
「この地の上に、わたしのよろこびをよろこびとし、わたしの心を知ってくれるものがいたら、どんなにいいだろう。わたしのことばにこたえてくれる声がきこえたら、どんなにうれしかろう」そこで神さまは、人間をつくろうと、決心なさったのでした。
 神さまは人間を、ごじぶんのすがたににせておつくりになりました。人間にはライオンや、とらのようなきばも、わしや。たかのようなつばさもありませんでした。
 人間は、土でできた、もろい、かよわい生きものでした。けれども、神さまはこの土をとくべつにえらび、ごじぶんの命の息をふきいれてくださったのです。
「空の鳥、海の魚、けもの、虫、草木、わたしはすべてをおまえにまかせよう。かしこく地をおさめるがよい」神さまはこうおっしゃいました。 祈ります。わたしたちの世界は恐れと不安で押しつぶされそうです。あなたは「光あれ」の一言で無から有を創り出されました。新しい秩序を与えて下さい。私たちを聖霊で包んで新しく生まれさせて下さい。聖霊の力に包まれて、家族のもとに、この世に送り出して下さい。主イエスキリストの名によって祈ります。アーメン