2020.5.24 神は言われた。光あれ

  今朝は「新しく生まれる」ということを考えてみたいと思います。
昨年の1月から2月にかけて毎朝のように日の出前の東の空を見上げていました。木星と金星と土星とさそり座の赤いアンタレスが一望でき、毎朝それらがお互いの位置を変えていくのを見ていると不思議な思いに満たされるのでした。ずいぶん前、深夜に豊田市からの帰路、真っ暗な山道で吸い込まれるような天の川を見た時は、車を止めて放心状態になりました。今は南の空で火星と木星と土星が一望できる時期ですし、まさに今日24日は日の入り直後に金星と水星と細い三日月が西の空に三角形になって見えるはずです。
 皆さん最近、夜空を見上げることがありますか。大人になると幼い時の感動や不思議さが薄れてしまいがちです。中途半端な知識が邪魔をして、不思議さを感じる心を失ってはいないでしょうか。
 来週は聖霊降臨日・ペンテコステですから、天地創造の物語から聖霊について考えてみましょう。
 創世記を旧約の福音書と呼ぶ人もいます。わたしもそう思います。1章から11章までは、無から有が生まれる太古の創造物語で、アブラムの生い立ちで終わっています。12章からはイスラエルの族長、つまり聖書の民の誕生物語です。この50章におよぶ物語を貫いている確信は神の愛と赦しです。つまりご自分が造った存在に対して徹底的に関わろうとする意思、忍耐強い思いを証言しているのです。
 ヨハネ福音書の書き出しは創世記にそっくりです。「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。万物は言葉によって成った。」ヨハネ福音書の言葉は言語としての言葉ではなくて、思いとか意思とか秩序を意味する「ロゴス」という表現です。
 ところで、最初に「天を見上げる」というわたしの話をしましたが、普通の人にとって「天を見上げる」というのは、ちょっとしたきっかけだと思います。見ようとして見上げたのではなく、ふと視界に光るものが見えた。何だろう?と思った。「気づき」ではないでしょうか。
 アブラハムは深い悩みの中で、「天を見上げて星の数を数えよ」と神の言葉を聴きました。天の川を数えられるはずはありません。その時、ふと気づいたのです。「神さまが約束されたのだから、うそがあるはずはない。今ではないが必ず約束の時は来る」深い心の闇の中に光が差し込みました。天を見上げることは神の悠久の不思議さに引き込まれるようなものです。自分の考えがちっぽけだと分かるときです。そして、神の思いを知りたい、神の計画へ導かれたいという、人間としての本物の目標が生まれる時なのではないでしょうか。
 創世記を読んでみます。「はじめに、神は天地を創造された。地は混沌であって闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」
 主の祈りで「天にまします」という時、天とは、創造主が完全に支配している領域、王国のことです。そして「我らの日用の糧を」という領域は不完全でお互いに争っている領域です。だから「天になるごとく」は神の支配が我らの地上世界を完全に包み込んで平和になるというイエスさまの信仰であり、そう祈る私たちの究極の希望なのです。
 はじめに神は天と地を造られた。しかし、地は混沌とし、水で覆われ、闇が深い溝を埋め尽くし、茫漠として価値あるものはなかった。その世界で、水の面を神の霊が動いていた。何とも奇妙な表現です。しかし、これは神の霊(聖霊)が神の言葉(命令)を待っている姿です。
 「光あれ」ここで光は明るさや暖かさをもたらす太陽の光のようでもありますが、闇に光がさすとき、絶望に希望が生まれ、混乱に秩序が生まれ、争いに平和が訪れる時にも、光が差すと表現します。
 光の性質はこうです。昔の家では朝になると雨戸の隙間や節穴から一条の光が差し込みました。経験的に分かることです。しかし光の中に闇の一筋を通すことは不可能です。また、光は方向を示します。ヨハネは証言しています。「光は闇の中で輝いている」人間世界はどこに向かうべきか、イエスキリストの到来を示しています。
 光を生んだのは「神の言葉」でした。ヨハネ福音書と調和します。
創造主である神は光を見て「それで良い」と喜ばれました。
 地は光によって照らされ、闇の領域と光の領域に二分されます。それで闇を夜と名付け、光を昼と名付けられました。夕があり朝があった。面白い表現です。日本語に朝夕という言い方はありますが、夕朝とは決して言いません。聖書の民は、一日は夜から始まるのだと知りました。夜は神が働かれる世界で、昼は人間や命あるものが活動する世界であると発見したのです。人間にとって夜は闇です。不可能が待ち伏せしている不安な世界です。一度目をつぶったら再び起きられないかも知れません。しかし、信じる人に朝はきます。
 このように神の言葉によって、まず光が生まれ、夕があり、朝があり第1日と呼ばれました。そして神は再び言われました。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」第2日です。第3日は地上に植物が生まれます。種を持ち実を結ぶ草と木です。非常に単純な話ですが、命が連綿と続いていく様子を活き活きと表している表現です。
 さて、先週の木曜日は昇天日でした。イエスはこの世界に残こしていく弟子たちに「高いところからの力に覆われるまでは都に留まっていなさい」と命じられました。それから10日後に突然、聖霊が一人一人の上に現れたのがペンテコステです。
 上からの力こそ、聖霊です。そして創世記で混沌とした天地に命の光を呼び出した神の言葉を思い起こします。
「光あれ」この一言がすべての始まりです。私たちは何のために生まれたのか、なぜ聖書を読むのか、どこへ行こうとしているのか。
光であるキリストが送って下さる聖霊によって日々示されるのです。

 2019年1月17日
午前6時12分47秒
村井北から高ボッチ方面(南東)

1月17日6時12分
木星は左下に
   
1月23日6時12分
木星が右上に上昇
   
1月26日6時06分
3つがほぼ水平に

日の出は6時30分頃だが松本では

山影で7時過ぎ