2015.8/9 100年後の収穫 ヤン・フスを訪ねて(2)

◆100年後の収穫(ヨシュア24:14、ヘブライ13:7)
  あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを思い出しなさい。
  彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。(ヘブライ13:7)
 「桃栗三年、柿八年。梅は酸いとて十三年」植栽して最初の果実が収穫できるまでを喩えて、辛抱することを教えたことわざ。注意深く苗を植え、水を注ぎ肥しを与え、季節ごとの手入れを繰り返して時を待つ。うまい果物の陰に農夫の忍耐と愛情がある。
 「神の言葉を語った指導者を思い出し、彼らの人生と信仰を見倣え」と命じられている。厳しい現実の前に立ち往生しているクリスチャンへの厳しい命令だ。しかし、その命令の前には「私は決してあなたから離れず、決して置き去りにはしない」と神の確かな約束があり、後ろには「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に代わることのない方です」の保証で挟まれている命令なのだ。
 クリスチャンは一人ぼっちで厳しい現実を生きていくのではない。イエスを先頭に、数え切れないほどの先輩に囲まれ、やがて私たちの信仰を後輩に証ししていく。
 そのようにして天国への旅は一人の人生の巾で到達点を見ることは出来ない壮大なものだ。ただ、信じ仰ぐのみ。
 今年はヤン・フス殉教六百年、二年後はマルチン・ルター95箇条提題から五百年。
 祖国の言葉で礼拝を守りたい、その願いで三十年以上もヨーロッパ各地で礼拝を守っている集会から二百人を超える人々がチェコのプラハに集まった。不思議な導きで私もそこにいた。
 「神の真実」を求めて命を絶たれたフスは、死に際に「あなた方は一羽のガチョウを焼こうとしているが、その灰から百年後に白鳥が現れるだろう。そして、あなた方はその白鳥を殺すことは出来ないだろう」(ケルン・ボン日本語キリスト教会 月報2015.3 「ケルン探訪 齋藤朗子」引用)と言い残したそうだ。
 いろいろ解釈はあるが「百年たっても真実を求める人がいなくなることはない」という確信ではないか。
 オランダのルター派教会のシンボルは、その白鳥をモチーフとしているとのこと。(同上引用)ルターがフスの百年後に出現したからだろう。
 しかし福音を真実に求め、生き、証しする教会であるなら、百年の巾で考えた時、私たちも確かに含まれる。この招きと幸いに生き抜こうではないか。