2015.4/26 聴く耳のある人、ない人

(イザヤ書52:7-10  使徒言行録8:5-13)
 ところで、シモンという男がこの町で以前から魔術を行い、サマリアの人々を驚かし、 自分を何か大いなる者のように言いふらしていた。(岩波版:使徒言行録8:9)

 Tさんは「リンゴが赤くなると、医者が青くなる」の喩えをあげ「自分は医者だけれど、僕たちにできることはほんの少しで、病気を治せるのは神様だけなんだよ」と子ども礼拝でよく語っておられました。その方とは伝道や平和の方法で少し意見が違って、たびたび礼拝後も夕方まで喧々がくがく論争したことが懐かしい思い出です。
 エルサレムを追い出されてサマリアにきたフィリポは「神の国とキリストの名」を告げて回りました。体の不自由な人、心を病む人が次々に癒やされる「しるし」は評判となって拡がり、その町に大きな喜びが生まれました。
 かつて主イエスが井戸の傍らで一人の女性と交わした信仰問答がきっかけになり、サマリアで大歓迎された状況(ヨハネ4章)にそっくりです。「しるし」は人々を興奮させます。
 サマリアには魔術で人を驚かし「大いなる者」と自称するシモンという男がいました。町の人はシモンの魔術を「大いなる力」と呼び、魔術の虜になっていました。
 ところが、フィリポが町にやってきて、イエスキリストの名の福音を説き、バプテスマを受ける人が増えてくると、シモンも「信じて?」バプテスマを受け、フィリポの「大いなるしるし、わざ」に驚嘆して付きまとうようになりました。
 「金や銀はない。イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい」とペトロに命じられて歩けるようになった男(3章)に似ていますが心根は全く違います。下心があったのです。
 「魔術=マジック」は特殊な技術で、高価な秘密です。19章に祈祷師が聖霊によってひどい目に遭い、悔い改めて高価な魔術本を焼き捨てる記事があります。
 サマリアの人々もシモンもそう簡単には信仰に入れません。「徴を見せて欲しい。そうしたら信じられる」という本音は信者になってからもあります。
 その高慢と誘惑から自由になるには、何度も主の赦しを経験し、真心からイエスに従うしかありません。
 イエスは「主よ、主よと私を呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。私のもとに来て、私の言葉を聴き、それを行う人が皆、どんな人に似ているか教えよう」(ルカ6:46-)と言われます。
 「大いなる者」ではなく「聴く耳のある人」でありたい。